神は愛です 坂 達 也 2015年3月10日
神は愛です
坂 達 也
ジョッシュ・マクドエル師は壇上に立つと、いきなり会衆に向かって「この世の中で定義するのが最も難しく、しかも最も重要なことと言えば何でしょうか」と問い掛けた後、「それは愛です」と答え、次のように続けました。「私は今までの経験から、98%の福音的クリスチャンが愛の定義を明確には知らないと確信します。牧師も含めてです。クレイジーな話ですが、愛の定義を知らないでどうして愛を実行出来るのでしょうか。どうして真の愛の関係が持てるのでしょうか。
多くの人は1コリント13章が愛の定義であると答えます。それではお聞きしますが、この13章の中でどこに愛の定義が書いてありますか。どこにも書いてありません。書いてあるのは、愛 agape が何をするかの説明であって、愛が何かは書かれていません。愛が造り出すものが、寛容であり、親切であり、ねたまず、自慢せず、高慢にならない・・・ではありますが、これらは『愛の実』です。
又若い人の多くから必ずと言ってよい程出て来る答えは『愛とは感情 feelingである』と言う定義です。もし愛が感情であるなら、神は感情に対して『よい気持ちになりなさい』と命令出来るでしょうか。出来ません。例えばある人に『レバーの料理は好きですか』と聞くと、多くの人は嫌いですと答えます。その人に神は『食べなさい』とは言えても『好きになれ』と命令は出来ません。
愛の結果はフィーリングであっても、愛はフィーリングではありません。誰でも命令できるのは『行動する』ことにおいてです。それはその人の選択の結果によるもので、人は選択してアクションを起こします。すなわち愛はフィーリングとは無関係に意志決定をすることです。
このように100人のクリスチャンに聞いて2−3人しか正確な答えが出て来ないなら、つまり、教会では愛を定義出来なくて、この世の一般人に定義させるとすれば、それは大変危険なことではないでしょうか。」
以上はリック・ジョイナー師のモーニングスターでの集会の一部ですが、私はこれはチャレンジングなとてもよい質問だと思いました。クリスチャンの皆さんは同じ質問をされたら、とっさに何とお答えになりますか。
私が先ずしたことは、キリスト教と関係のない一般の辞書類を調べることでした。それで分かったことは、成る程、メリアム・ウエブスター辞書にしても、オックスフォード辞典にしても、その他のインターネット辞書の多くを含めてその答えを要約すれば、総じて「愛は強い感情、好ましく思う強い思い、敬慕、恋慕・・・」と書いてありました。
これで先ず分かることは、キリスト教に於ける愛と、キリストを知らない一般人の愛の解釈とは決定的に違うと言うことです。
アガペの愛
人間が持つ愛には色々な種類の愛がありますが、その中で最も重要で、不可欠な愛は、先ず神に愛され、その神の愛で、人間が神を愛し、他人を愛し深い交わり持つ愛です。愛は元々創造者の神から出たもので、神の性質、あるいは特質そのものです。なぜなら、神は「人間をご自分のイメージに似せて造られた」からです。(創世記1:27)しかし最初の人間アダム以来、人間は罪を犯し神から離れてしまいました。従って神を知らない未信者の人たちは愛が神から出ていることを知りませんし、神の愛を受ける道も閉ざされました。しかもキリスト教の神ご自身が、私たちにすべて必要なものを与えて下さる「愛」の方であることも知りません。
その神の愛はギリシャ語で agapeと言われます。この神の愛とは、無条件の愛(ロマ書5:8)あるいは、代償を要求しない無償の愛(ルカ6:35)と言われますが、この愛の根底にあるものは犠牲の愛です。(ヨハネ3:16等)すなわち、父なる神と子であるイエス・キリストの間で実行され、特に十字架で顕された愛です。
従って私は、ジョッシュ・マクドエル師の質問に対する端的な答えは「愛とは十字架の業」と答えたいと思いますがいかがでしょうか。十字架の業とは「他人のために自分を犠牲にする行動」です。(1ヨハネ3:16)
十字架の愛
神は、自由意志を与えて創造した人間が罪を犯すことを初めから予知していましたから、その人間を救うために、子であるイエスを人間として生まれさせる計画を創造以前から持っておりました。そして父ご自身が先ず、ご自分の最愛の一人子イエスを、人間が犯す罪の身代わりとして死なせることを決意していたのです。愛の神にとってこれ以上の犠牲はありません。それは自分自身を殺すに等しい、あるいはそれ以上の犠牲的行為でした。そう決意した父は、子である人間イエスに自らが死ぬことをして見せたのです。(ヨハネ5:19)それを見た子は、父がされたのと同じことを、自ら決意して、実際に十字架につかれました。こうして私たちすべての人間の犯す罪の身代わりになることが成立しました。
従って信仰でイエス・キリストの十字架の御業を信じる人間は、みな罪が赦され、永遠のいのちを受けることが出来るようになりました。しかし神は、キリストを信じた私たちが、キリストと同じように自らの命を神に差し出すことを要求しました。それは、私たちがキリストのからだとしてキリストと結合するためです。
クリスチャンの究極の目標は、イエスに全く似た者となることであり、それが私たちのアイデンティティーです。そうであるなら、イエスが十字架につかれた以上、私たちも十字架につくのは当然です。
それが、キリストを信じた時に私たちが水の洗礼を受けることの意味です。私たちは、信仰でキリスト・イエスの死にあずかるバプテスマを受け、キリストと共に葬られ、又キリストが死人の中からよみがえったように、私たちもキリストと共によみがえったのです。こうしてクリスチャンはキリストのからだの一部となったのです。その「よみがえりのいのち」とは、この世では考えられない程パワフルな永遠に生きるいのちです。「このようにして、私たち自身も、信仰で一度死んだ者となり、キリスト・イエスと共によみがえって信仰で神のために生きる者となったのです。」(ロマ書6:3−11)
この十字架に示された「神の愛」と「よみがえりのいのち」は、主イエスを信じてキリストの後を追うクリスチャンにならなければ絶対に受けられないものです。
「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」
これはマタイ5:44に書かれている主イエスの御ことばです。神はアガペの愛で、どんなに憎んでも憎みきれないような悪人でさえ愛されます。
最近の大きなニュースの一つは、日本からヨルダン・シリヤ近辺で難民の報道活動を続けて来た後藤健二兄弟が ISIS の人たちを赦しつつ、殉死したことです。
その後エジプトのクリスチャン21名がリビヤでISIS に殺害されました。
その中に、未だ若いビショイとサムエルと言う二人の兄弟が含まれていましたが、この二人の兄のベシャーさんは、インタビューに答えて「私は二人の兄弟を誇りに思います。クリスチャンとしての誇りです。ISIS は私たちが望む以上のことをしてくれました。彼らが世界に流した映像の中で、殺されたクリスチャンたちは自分たちの信仰を告白し、イエス・キリストの名前を高く宣言しましたが、ISISはその部分をカットせずに世界中に伝えてくれたからです。それによってISIS は私たちエジプトのクリスチャンの信仰をより強いものにしてくれました。今回私たちの村から多くの殉教者が出ましたが、そのことを私たちは互いに感謝し合い、喜び、祝っています。決して悲しんではいません。・・・ローマの時代以降、クリスチャンが迫害を受け、殉教することがキリストの栄光を表すことを知っている私たちにとって、今回の事件は、私たちが迫害の危機を耐え忍ぶための助けとなりました。なぜなら聖書は私たちの敵を愛しなさいと語っているからです。
今日私は自分の母に、もし同じISIS の殺人者たちが目の前を歩いていたらどうするかと尋ねました。すると母は、神に彼らの目を開いて下さるように祈り、彼らは私たちが天の御国に入ることを助けてくれたので、私の家に喜んで招き入れる、と答えてくれた。」と語っています。
これは何とすばらしい神の愛の証ではないでしょうか。若い21名の殉教者たちは、主の栄光のために喜んで主の十字架の後を追って死んで行き、それを世界中の人たちに証して見せたのです。又、エジプトに残った遺族たちも、自分の息子と多くの同胞を殺した相手を赦し、その人たちの救いのために主に祈りを捧げたのです。これこそ人間の感情的な愛では絶対に出来ないアガペの愛です。
今世界中でクリスチャンが「イスラム国」によって迫害され殉死しています。世界中が残忍極まりない ISIS を憎み、彼らを撲滅しようと立ち上がっています。
神を信じる者として私も彼ら ISIS の行為は憎みます。しかし、彼らのためにもキリストは死んで下さったこと、父なる神は、彼らをも100%無条件で愛し、彼らが神に立ち返ることを願っておられるのです。
私は上記のエジプトのクリスチャンの証を私たちの教会の祈祷会でベンジャミン牧師が紹介してくれたことによって知りました。そして彼は集会の最後に「過激派のISIS だけが問題なのではない。むしろ過激的な愛を持つクリスチャンが少な過ぎることの方が問題ではないでしょうか。」と語っておりました。
十字架の愛はものすごい祝福をもたらす力の源
「神は愛である」と第一ヨハネ4:8に書かれています。そうであるなら、創造者である神がなさるすべてのことがアガペの愛の行為です。そのような神の愛は、尽きることなく永遠に神から流れ出てこの宇宙に溢れております。又、その神の愛には不可能は何もないという超自然の霊の力が内に秘められており、神はそのような宇宙で最もパワフルな愛で私たちを愛して下さっているのです。
私たちがキリストを心から信じる時に、私たちの内には聖霊が入られます。その聖霊が「生ける水の川」のごとく私たちが生きて行くために必要なあらゆる超能力の「霊の力」を与え続けて下さっているのです。その神の愛を受けて、私たちは熱烈に神を愛するだけではなく、他人をも愛せざるにはおられないようになります。その水は私たちの必要のすべてを満たしてくれるだけでなく、私たちから溢れ出て周りにいる人々にもふんだんに与えられるのです。これが「永遠のいのち」です。
しかし、私たちの多くは、往々にしてそのことを忘れてしまっています。そこで今回私は、改めて皆さんと、キリストの十字架の御業による恩恵の偉大さをもう一度思い返してみたいと思います。
罪が赦されたことの意味
考えてもみて下さい。私たち個人の一人一人が過去から今日現在に至るまでに犯した一切の罪、それに加えて、将来私たちが犯すすべての罪の代価を、キリストは私たちに代わって十字架上で支払い、すべてを処理して下さったのです。それは私たちの上に重くのしかかり、私たちには絶対に返せない大きな借金以上の重荷でした。私たちはキリストの十字架の御業によってそのような負債から完全に解放されたのです。
罪がないところと言えば天国がそうです。であれば、罪から解放されたクリスチャンは、地上にあっても既に「天の御国」に生きていると言って過言ではありません。問題は、地上は未だに罪の元兇である悪魔の支配下にあり、罪が蔓延し、未信者の多くは罪の泥沼の中で喘いで生きています。それを一日も早く罪のない天の御国にすることが、十字架上で悪魔に完全に勝利されたキリストの下で、私たちが地上ですべき仕事であり、最終目標であるのです。
しかし簡単に「すべての罪が処理された」と言いましたが、それは罪そのものだけではなく、その犯した罪の報いとして残る「のろい」と、罪の後遺症と言える「トラウマ」に縛られ、多くの人が断ち切れずに引きずっている「お荷物」の一切も、実は十字架上で既に処理済みであることに私たちは気が付かねばなりません。
それだけではありません。私たちがキリストと共に十字架につき、キリストと共によみがえったことによって得た「永遠のいのち zoe」で本格的に生きることは、私たちに更に大きな恩恵をもたらしてくれます。なぜなら、永遠のいのちとは奇跡を起こせる超能力と知恵そのものであり、それを活用することによって私たちはイエスがされた以上の奇跡を日常茶飯事として起こすことが出来るーこれが神の約束であるからです。これこそ、未だ地上に住む私たちが、天の御国そのものを地上に持ち込むことであり、今がその時です。そのために必要なものは「信仰」だけです。
その信仰が成熟するように聖霊が助けて下さっています。それには神の愛をいつもいただいている必要があります。それが聖霊によってふんだんに与えられる生ける川の水に例えられる神の愛であり、それは他人にどんどん与えなければ細って涸れてしまうのです。
今は自らの十字架を背負って主の後を追う時
世界中に今 ISIS の動きが広がっています。これを見て、世の終わりの時代が来ていることを疑うクリスチャンはいないと思います。いよいよ最後のリバイバルの時が目前に迫って来ました。
そこで思い出すのは、主を三度否んだペテロのことです。主はそのペテロを赦し、使徒のリーダーに復帰させるためにペテロに三度「あなたはわたしを愛するか」と問われました。(ヨハネ21:15−17)今主は、私たち一人一人に同じ質問をされているように思います。
そして主は、他の使徒たちの面前で、ペテロが晩年十字架刑に処せられて死ぬことを伝えました。どうしてでしょうか。ペテロが三度主を否んだのは公衆の前でした。そのペテロに対して主は公衆の前で十字架刑につけられて死ぬことを予告したのです。十字架刑で死ぬことは殉死を意味しないでしょうか。
私は21人のエジプトのクリスチャンが全世界の公衆の前で栄誉の殉死を遂げたことと、主がペテロになさったことは無関係ではないと思います。主はそれを励ましのことばとしてペテロに伝え、又、私たちへの励ましとして21人の殉死を全世界に見せたのであると信じます。(終り)