神はあなたを知りたいと願っておられる ロビン・マクミラン 2015年3月2日
神はあなたを知りたいと願っておられる
ロビン・マクミラン
主は「私たちについて」知る(訳者:情報的に)ことだけでは満足されておられません。私たちを本当に知りたいと願っておられるのです。
次の聖句が今までとは違う新しい意味を持って、私の注意を引きました。
マタイ7:21−23「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣言します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」
主はここで、「主を知り主の力で業をなす者たち」と、「主が個人的に知っている者たち」とをはっきり区別しておられます。私たちは両方のグループに入っていなければいけないのです。聖霊の力によってわざをなすことは重要です。それによって人びとが解放され主を知るようになるためです。しかし、主を知っていることと、主から私たちが知られていることとは同一ではありません。
神が私たちに関するすべてのことをご存知であるのと、神が私たちを個人的に(親しく)知っておられるのとは同じではありません。ヘブル4:13に「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」
とあります。神は私たちに関することはすべてご存知です。しかし実際に経験的に私たちを知っておられるでしょうか?
主は、ご自分が私たちに関する事をすべて(私たちが秘密にしていることも含めて)知っておられることと、私たちを親密に知っておられることとを明らかに区別しておられます。主は私たちと個人的に関係を持ち、私たちと話をすることを願っておられます。私たちは主に私たちの内側を見ていただき、自分がどのような者であるかをもっと知っていただくようにお話する必要があります。
主がアブラハムを訪れ、ソドムとゴモラについて話されたときのことを見てみましょう。
創世記18:20−21「そこで主は仰せられた。『ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重いので、わたしはいま下って、わたしに届いた叫びのとおりに、すべて彼らがおこなっているかどうかを見て、それを知ろう。』」
主は、ソドムとゴモラの状態をすでに知っておられたにもかかわらず、
もっと個人的に知りたいと願われ、ご自分でそれを実際に見るために行かれました。物事に関して知っているだけでは主は満足されないのです。主は人びとの人生のすべての面において彼らと関係を持ちたいと願われています。それは彼らを個人的に知るためです。
イエスは私たちが神の御国に入るための接点です。では、神がこの世界に入るための個人的な接点は私たちである、ということが言えないでしょうか?
主は私たちが上に行くためのドアであり、私たちは主がこの世の人生の出来事の中に下りて来られるためのドアです!
次にように考えてみてください。ある家の持ち主が誰かにそれを貸したとします。すると貸借の契約により持ち主はその家に入ることは出来なくなります。彼は確かにその家を所有しているのですが、勝手にそこに入ることはできません。
神はすべてを創造されたのですからすべてものを所有しておられます。しかし、神は人間に権限を与えられ、人間に関する事柄に勝手に介入することを自ら制限する道を選ばれたのです。
雅歌2:14には、ご自分の民を親密に知りたいという神の深い願望が表されています。
「...私に、顔を見せておくれ。あなたの声を聞かせておくれ。あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい。」
その人が誰であるかを一番はっきり認識できるのは、その人の声と顔によってです。「顔」を主に見せるのは、主があなたは誰であるかを本当に「見る」ためです。「声」も又、あなたが誰であるのかを主に告げる力があります。主は「あなたの顔は美しい」と言われます。主にあなたの顔を見せてください。主は「あなたの声は愛らしい」と言われます。主にあなたの声を聞かせてください。あなたがどのような人であるのかを主に話してください。
もう主に話しましたか?
もしも主があなたのことを、あなたが意図的に声に出して主にお話ししたこと以外はご存知でないとしたらどうでしょうか?
主はあなたのことをどのくらい知っておられるでしょうか? 今まで意図的にあなたが誰であるのかを主にお話ししたことがありますか?
私たちがそうしない理由の一つは「主はすべてをご存知である」という事実であり、 それが主に自分を深く知っていただくのを妨げているのです。
私が主を知ってから45年以上経ちました。しかし最近、私と主との個人的な交わりが、今までずっと待ち望んでいたものへと開花してきたのです。それは、あたかも主は私のことを何もご存知ではないかのように、私のすべてを主にお話ししようと私が決意した時から始まりました。その結果、すばらしいことには、私が予期しなかった方法で、主は私の人生に関わる深いことを語り始めて下さいました。それは、主に心を開いてすべてをお話しした結果、主は私が置かれている状況をもっと明確に知り、それによって主が私と深く関わることが可能となったからだと私は気がつきました。
私は「私は1951年1月10日に南キャロライナ州のアンダーソンで生まれました。父はアースキン大学でフットボールのコーチをしていました。」というようなことを主に話しました。この新しい関係を築く中で、ある時私は自分の過去の人生の中で恥と思っていることを話しはじめました。そして「主よ、あなたは何も恥じるようなことをされなかったから、こんな風に感じることはないですよね。」と申し上げました。主はこう答えられました。「ロビン、そんなことはないよ。私は十字架の上で自分を恥かしいと感じていたよ!」主のこの答えに私はびっくりしました。しかし、すぐにヘブル12:2を思い出しました。
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめ(恥ずかしく思うこと)をものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」
長年にわたってこの箇所は読んでいましたので、意味はわかっていましたし、暗唱することもできました。しかしイエスが実際に恥じと感じたとは全く思いも及びませんでした。続けて主は、恥じている人を深く同情し憐れむために、主ご自身が恥を感じる必要があったのだと言われました。このようなイエスを愛さずにおられる人がいるでしょうか!
ご自分が十字架ですばらしい業を成し遂げたのだから、誰でもその事実を完全に理解するならば、もはや決して二度と恥と思う必要はないのだ、と主は言われました。主は十字架で死んだとき、すべての人の恥と思う思いをご自分において死なせたのです。主は恥の代価をも支払われたのです。
さあ、次はあなたの番です
人生で非常に破滅的な経験した多くの人を私は知っています。あなたもその一人かもしれません。多くの人は主に助けと解放を求めましたが、何が起ったかを本当に主に話した(訳者:自分がその時内心どう思ったかと言うような)人は何人いるでしょうか?
あなたの話(訳者:あなたの心の動き、思ったこと等を正直に隠さず)を主にしてください。あなたの心と口とを開けて、あなたが誰であるのかを主に話してください。そうするならば、思いもよらない方法で主はきっとあなたを慰めてくださるのです。主にあなたの顔を見せて下さい。あなたの声を聞かせてください。主は「あなたの顔は美しく、あなたの声は愛らしい。」と言われるのですから。(終)