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23 2月

王が「何を望むのか?」と問われる時   ベン・R・ピーターズ     2015年2月23日


王が「何を望むのか?」と問われる時

ベン・R・ピーターズ

 

もし国の王があなたの友人となり、「何がほしいのか。王国の半分でも、あなたにやれるのだが。」と言われたとしたら、どうでしょうか?

聖書の中には この世の国王たちが、自分の気に入った人にこのように気前のよい申し出をした事例が幾つか書かれています。

 

ダニエルは、ネブカデネザル王の夢を言い当てて解き明かすならば「贈り物と報酬と大きな光栄」が与えられると約束されました。王の夢とその解き明かしを彼が告げたとき、王はダニエルを高い位につけ、多くのすばらしい贈り物を与えました。そしてバビロン全州を治めさせ、バビロンのすべての知者たちをつかさどる長官にしました。

その他、国王から同じ申し出を受けた者の中には、ネへミヤとエステルがおります。ネへミヤのことは後で見てみたいと思いますが、エステルとモロデカイは、彼らの敵に対して望み通りの報復の法令を作る権威が与えられ、王はそれを施行しました。

しかしながら、王が一国の王であるばかりでなく、宇宙の創造者であり、私たち一人ひとりをご自分のかたちに造られた方であるならば、可能性は無限となります。ソロモン王が若かったとき神が現れ「天の王から何を願うか?」と訊かれたのをご存知ですね。それはまさにソロモンの人生を一変させる申し出でした。

 

多くのクリスチャンは、そのような神の申し出は聖書時代の1、2人の重要人物にだけであって、自分には決してそのような申し出はされないと信じ込んでいます。私はそのような人たち、王の王を愛しているすべての人に良い知らせがあります!いいですか、イエスは聖書の中で、特にヨハネ伝で同じような申し出を弟子たちに何回もしておられます。その一例はヨハネ16:23です。

 

イエスは、助け主である聖霊ー彼らを導き、教え、霊的賜物と実によって力を与えてくださる聖霊が来られることを教えておられる中で、その申し出を次のように言われています。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父はわたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。」

このことばを主から受けた弟子たちは、やがて使徒となり教会を新しい領域へと導いて行きました。この約束は彼らだけにされたものでしょうか?そうではありません。イエスが12弟子にされた約束は、皆さん一人一人にも適応されるものであるのです。

 

願うものを神から受け取る特別の鍵

 

残念ですが、それは(一頃はやり言葉になった)「名指して受け取ればよい name it/claim it 」というような(信仰の実践を強調する)コンセプトとか、「一生懸命働けば願いがかなう権利を勝ち取れる」ということとも違います。この先を続けて読んでください。この特別の鍵を適応したいと願うすべての人にチャンスを与えたいと神は思っておられるからです。

 

この啓示は私の何十年にもわたるミニストリーの中で少しずつ与えられたものですが、2015年に入ってからこれに関する新鮮な理解と悟りが集会の中で与えられました。この鍵について私が人にお話しするのはこれが始めてです。

 

この啓示に関する中心的聖書箇所はネへミヤ2:4です。

「すると、王は(悲しい顔つきをしている)私にやさしく言った。『では、あなたは何を願うのか。』そこで私は、天の神に祈った。・・・」

 

教会への預言のことば

 

重要な鍵を明らかにする前に、聖霊が私に最近語っておられることをお話したいと思います。神はキリストのからだに今、 NOW な言葉を解き放っておられます。それは神が「あなたは何を願うのか?」と愛をもってやさしく問い掛けることによって、私たちが神にもっと近づき神の声に耳を傾けるようにと招いておられるのです。そして心をこめて聞く人にだけ聞こえ、悟れるように、神は声を低くして語っておられるのです。それは愛のささやきです。

「『主の御名によって神に求め、受け取りなさい』という上記のイエスの御ことばの上に、神は今、私たちを renewingし新しい油注ぎを解き放とうとしておられます。過去に多くの者がこのイエスの御ことばを用いてきましたが、まことの信仰と御父との親密な関係という裏付けがないばかりに、そのことばには権威がありませんでした。しかし今、親密に主に近づいている神の子たちがどんどん増えて来ていますから、 今こそ彼らに力が与えられ、この御ことばを活用することによって御国を拡大する時がやってきたと信じます。

 

今年2015年は、多くの者が主のパートナーとなり、地上における主の目的を達成する年となるでしょう。彼らは聖霊の息吹を受けた祈りをするようになり、その祈りは奇蹟的に素早くかなえられます。多くの者たちが彼らに引寄せられ、彼らは自分たちのしていることをそれらの者に教えます。油注ぎのマントルは増え広がります。霊的分与は実際に賜物と油注ぎを分与します。偉大なる恵みが純粋な御霊の実を実らせ、愛、喜び、平安が川のように流れ出るでしょう。多くの者は自分の人生でこのようなことは見たことがないと言うでしょう。そしてイエスは弟子たちに「あなた方は何を願うのか?」と訊き続けてくださり、彼らはもっと下さいと願い続けるのです。

今はわくわくと興奮するべき時であり、神に近づいて耳を傾け主のかすかな細い声を聞く時です。今は、神の「レーマ」を聞くことから来る信仰を主に願う時です。奇蹟が起ろうとしています。この霊的覚醒と収穫のシーズンにイエスを真に愛する者たちの取り分は、しるしと不思議です。大きな打ち破りが次つぎに起るでしょう。

神はまだご自分を知らない多くの人に手を差し伸べ、タルソのサウロにされたように彼らの前にご自分を現してくださいます。そして神と親密な関係にある者たち、主のかすかな細い声を聞いている者たちは主の御霊の力で出て行き、主のために大いなる業をなすでしょう。時は今です!私たちは今奇蹟のシーズンに入っているのです。今年は、多くの者の人生にとって最高の年となるでしょう。

 

王から申し出を受けるための3つの鍵

 

ネへミヤの物語とヨハネ16章のイエスの約束 は、「願うものを何でも受け取るための鍵」を理解するために非常に重要です。

 

第一の鍵:とりなしの祈りへとあなたを駆り立てる神からの重荷、情熱を持っていること

ネへミヤは宮殿の中でよい職についていました。しかし父祖の町(70年の捕囚以前にユダヤ人の首都であった町)の状態を知ったとき、彼は非常に嘆き悲しみ、数日の間断食をして祈りました。彼は自分が幸運であることだけに満足しなかったのです。神が与えた父祖の地の荒廃や人びとの災難を見て彼の心は傷みました。そして彼が悲しんでいることが王の目に止まりました。王の面前で悲しむことは違法行為だったのですが、王はネへミヤを殺すことをせずに、「何故悲しんでいるのか、何を願うのか?」と尋ねました。

イエスの12弟子は御国のためにこのような重荷はまだ持っていませんでした。自分たちが十字架につまずき、復活の主から赦しを受け取った後になって、初めて彼らはその重荷を持ち始めたのでした。彼らが一つ所に集り聖霊の注ぎを受けたとき、彼らは情熱で満たされ、主のすばらしい力を経験したのです。使徒行伝の5章までに彼らが祈った人たちは全員すべて癒され解放されました。

 

もし私たちが、 自分の人生のためにだけ生きていて、神の御国を建て上げる情熱をほとんど持っていないとすれば、私たちの祈りに力はないでしょう。しかしもし私たちが神の御国を第一に求めるならば、「あなたは何を望むのか?」と神は訊いてくださるのです。それに対する私たちの返答は、「神の御国を祝福する何か」を求めることであるはずです。これに関するすばらしい例は、神がソロモンに何を望むかと訊かれた時です。ソロモンは、「神の民を正しく裁くのは難しいので、そのために知恵と悟りを下さい」と頼みました。彼の求めは自分のためではなく、神とその民のためでした。

 

二つ目の鍵:進んで御国を立て上げる者となる

 

使徒たちとネへミヤはどちらも 初めはとりなし手でしたが、やがて御国を立て上げる者となって行きました。使徒たちは天の御国を地上で建てるようにという命令をイエスから受けていました。イエスは彼らに「御心が天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈るように教えられました。イエスは彼らにご自分の代理人として御父と話す権威を与えられ、イエスの御名によって御父に願うようにと言われました。

この約束を与えられた時、イエスは又、聖霊が彼らを導き、彼らに正しい思いと願いを与えられると言われました。この事は初代教会の中で実際に行われ、彼らが御父に願ったことはすべて叶えられました。それは彼らの心が自己中心的な動機ではなく御国中心の動機へと変えられていたからです。

 

一方ネへミヤは、とりなし手から建て上げる者、復興する者となりました。70年の捕囚後のイスラエルが回復される時代に彼は生きていました。私たちも又、初代教会が失ったものが回復される時代に生きています。回復の時(使徒3:21参照)は宗教改革に始まり今日もまだ続いています。皇帝がネへミヤに「何を望むか?」と訊ねたとき彼が望んだのは、敵によって破壊された町を建て直す者になることでした。神は、敵が何世紀にもわたって(特に暗黒時代に)破壊してきた教会を建て直すために、ネへミヤのように情熱を持つ心を捜し求めておられるのです。

私たちの心が「神のものを建て直したい!」と叫ぶのを神が聞かれる時、神は「あなたは何を望むのか?」と同じ質問をして下さるのです。私たちの答えは「主よ、私はあなたのからだである教会の中にあなたの栄光を回復し、あなたの御国を建て上げるために用いられたいのです。」というものでしょう。その時、王の王なる方は、破壊され失われていたものを回復させるために、私たちに力を与え遣わしてくださいます。建て上げ回復することは私たちの生きる喜びとなります。自分が創造された目的であり、達成するようと与えられた目的とデスティニーの重要性を、真に理解し悟ることができるのです。

 

第三の鍵:神の他に救いはないことを知っている

 

新約聖書の中には少なくとも2回、イエスが「わたしに何を望むのか?」と訊かれた場面があります。第三の鍵は、謙遜と、今の状況を変えたいという必死な思いに関連しています。「神の奇蹟以外にこの状況を変えうるものは全くない」という思いです。

まず頭に浮かぶのは、盲目の乞食バルトロマイです。彼は「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び続けました。(マルコ10:46−52)イエスは「わたしに何をしてほしいのか?」と訊かれました。バルトロマイは宗教家の多くよりも真実をよく掴んでいたのです。彼は自分が盲目であることを知っていました。イエスの時代のパリサイ人たちは霊的に盲目でしたが、そのことを知りませんでした。現代のパリサイ人たちも同じ問題を持っています。しかしバルトロマイは「先生。目が見えるようになることです!」と叫び、イエスはそれを聞いて彼の願いに答えられました。

2つめはベテスダの池にいた病人です。イエスは彼にも「直りたいのか?」と訊かれました。(ヨハネ5:1−9)彼は天使が水を動かした時に池の中に素早く入れてくれる人がいないと答えました。それは正しい答えではなかったし、イエスへの信仰はほとんどなかったにもかかわらず、イエスは彼を憐れみ癒されました。彼がイエスの憐れみを受けることができた理由は、彼は癒しを願ったけれど自分では全くどうすることも出来なかったという事実です。彼は何度も何度もやってみたのですが、いつもうまく行かなかったのです。地上には彼を助けられるものは何もありませんでした。彼はイエスが力ある方だとは知りませんでしたが、それでもなおイエスは彼を憐れんでくださったのです。そしてイエスが「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」と告げたとき、そのレーマのことばを聞くことによって彼に信仰が起こったのです。

ポイントはイエスが恵みと憐れみに満ちておられる方であることです。主はある人びとには「主の栄光のために御国を建てたい」というご自分と同じ情熱を持った心を見らました。又ある人びとには、主に栄光をもたらす可能性を宿している心を見られました。それは、主の奇蹟にしか救いはないと知って必死で求めるへりくだった心です。「何を望むのか?」とあなたが王に訊かれる時です。

王の王なる方があなたにこの質問をされたならば、あなたはどうお答えしますか?

あなたはすばらしいチャンスと祝福の扉を開ける正しい鍵を手にしておられると私は信じます。あなたの心が、世の中の不正や人の苦しみ、教会の力の無さ、地獄に行く魂、モラルの倒錯、堕胎などに大きな憤りを感じ、神に叫び、それを変えるために喜んで働きたいと思うならば、王から「あなたは何を望むのか?」ということばを必ず聞くことになるのです。

もしあなたが傷つき、絶望し、神だけがあなたの救いであると知っているならば、神に近づき、神に泣き叫び、神の声を聞いてください。神はあなたを呼び出して「わたしに何をしてほしいのか?」と訊かれるでしょう。

今はあなたの時、あなたのシーズン、あなたが王と会う時です。準備はできていますか?

主イエスよ、その時のために私たちが調えられますように。そしてあなたの麗しい声を注意して聞くことができますように。(終)

Ben R. Peters、Kingdom Sending Center
Email: ohmint@gmail.com


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