2015年は勝利の年 ベンジャミン・イスラエル・ロビンソン 2015年1月16日
2015年は勝利の年
ベンジャミン・イスラエル・ロビンソン
私は年頭に当たり、当教会の今年のテーマは「2015年は勝利の年」であることを発表致します。勝利には色々な勝利がありますが、そのすべてに於いて勝利する年であると言う意味です。そこで皆さん「今年はあなたが勝利する年です!」と先ずお互いに宣言し合って下さい。
このテーマに対する今年の御ことばは、1ヨハネ5:4です。「なぜなら、神によって生まれた者はみな世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」(新改訳)
先ず最初に、「神によって生まれた者はみな」の「者はみな」のギリシャ語の元々の意味は、「人だけでなく、造られたもの一切のもの」と言う意味ですから、「何であっても神から生まれたものはすべて」と訳せます。そう訳してある英語訳がかなりあります。ヨハネはここで一つの重要かつ根本的な原理・原則を表そうとしています。それは「神から生まれたものは、この世に打ち勝たずにはおられないー必ず勝つように造られている」と言う原則です。
その意味はこうです。自然界に存在するものは、すべて、それぞれその種類に従って再生産されて行きます。そうであれば、すべてに勝利されている神は、勝利する者だけを再生産されます。もしあなたが神から生まれた者であれば、あなたは神の子どもであり、そうであれば、あなたは神の性質に似て神と同じ中身に造られています。と言うことは、神にとって自然であることは人間にとっても同じように自然であるはずです。
神は何事にも縛られることのない方であることをこの中で何人の方が信じますか。神を押さえつけたり、制限したり、牢獄に入れたりするものがあるでしょうか。神に打ち勝ち、神をストップするものは何もありません。すなわち神はオールマイティーな神です。
クリスチャンはそのような神を信じます。しかしそれだけであってはならない。あなた自身がそのような神から生まれた者であることを信じなければならないのです。もし神が世に打ち勝つ、打ち勝った方であるなら、あなたも世にあるすべてのものに打ち勝つ(進行形)あるいは、少なくともそのプロセスの中にあるはずです。あなたは現在何かに打ち勝てず、克服出来なくてもがいている最中であるかもしれません。時には絶望的 としか思えないような時もあるでしょう。しかし上記の御ことばからすれば、神を信じる者には「絶望的」 いう形容詞は存在しないはずです。それが意味するところは、どんな困難な目に会っていても、あなたはこの世にある「いかなること」にも必ず打ち勝てるのであり、今はそのためのプロセス中にある進行形状態と言うことです。なぜならあなたは神から出たものであるからです。
私は今、私の家族代々に継承するもの、DNA、遺伝の力について学んでいるところです。このクリスマスにワシントン DC で一年半前から牧会を始めた弟が帰って来て、家にあるピアノの前で弾き始めるのを聞いて驚きました。彼はピアノが弾けなかったはずなのが、牧会を始めた時、教会には誰もピアノを弾く人がいなくて、やむなく自分が担当するようになったと言うのです。ところが僅か一年半とは思えない程うまいのです。考えてみると、私たちロビンソン家は父方も母方も音楽の才能に優れた人が代々出ていてその DNA が継承されているので、弟がピアノを短時間で上達したのは全く不思議ではありません。そこで、私がお話ししたいのは5歳になるうちの娘です。最近彼女にキーボードを与えました。最初は私が教えようすると、楽しくないと言っていやがりました。私は、無理に教えようとして彼女の喜びを殺してしまい、それが彼女のピアノに対する情熱を殺していることに気が付きました。そこで私は娘がしたいように自由にさせました。すると娘は一人でピアノに向かう時間が増え、そうっと部屋の前に行って聞いているとどんどんうまくなり、間もなく弾き語りで歌を歌いながらそれにピアノがしっかり付いて行っているのを聞いて驚いたのです。しかし、それは私のDNAを 受け継いでいる娘ですから驚くことはないことに気が付かされました。
同じように、 あなたが今どんなに苦闘中であっても、神の DNA が入っている以上、あなたは最終的には必ず克服するのが当然であると神は見ておられます。私たちはそのような「心の持ち方 (信念)mindset 」をもって立ち向かうことが絶対に必要です。そうすれば、この世の中の障害物はかならず乗り越えることが出来るのです。
罪とか霊的に縛られている状態にある場合、その罪を悔い改めることは簡単です。しかしそれからの解放を信じることはそう簡単ではありません。聖書には「悔い改めて、信じなさい」と書かれています。打ち勝つことを「信じて」立ちはだかる困難に向かう時、必ず勝利する、そのプロセスの中に、神は私たちを置かれて訓練して下さっているのです。
この御言葉で次に気が付くことは、最初「打ち勝つ」と現在形で言っていたものが、次に過去形の「打ち勝った」になっていることです。それは「私たちの信仰によってである」と書かれています。信仰の力とは一日だけは勝利したが、後は未だ、と言うものではなく、信仰によっって私たちは既に完全にー究極的にー勝っているのです。これを言い直せば「あなたは信仰により既に打ち勝っているが、今その信仰の仕事のプロセスの最中にある」と言うことです、お分かりでしょうか。この世に既に打ち勝ったのはあなたの信仰です。その理由を説明しますと、信仰とは力であり、その力によってあなたは既に完全に勝利しているイエス・キリストと結びついているからです。イエスは今天で何かに打ち勝とうとしてもがいているでしょうか。そのようなことは全くありません。そのイエス・キリストへの信仰が、イエスが既にこの世のすべてのものに打ち勝っているという最終的事実に私たちを結びつけています。つまり、信仰によってあなたは「勝利しつつある」と同時に「既に打ち勝っている」のです。
ここで少し勝利と言う言葉に触れてみます。実のところ、勝利 victoryと打ち勝つ overcome はギリシャ語では同じ言葉が使われていて、それは nike です。ニッケ、あるいはニカと発音しますが、それはお気付きのように(スポーツ用品の会社の名前)ナイキと同じです。(笑い)
勝利とは打ち勝つことです。「打ち勝つ」ことは、その相手の敵、あるいは障害物があって、それに対面することを意味します。神はあなたを勝利者にするためにあなたの前にそのような障害物が置かれことを許します。それが信仰の訓練です。
ところで、よく「新しい、一段上のレベルがある」とか、「上のレベルの神学がある」と言われます。そのレベルに達すると「新しい悪魔(敵)も現れる」と言う人もいます。これを英語で言えば new level new devil ですが、もしあなたが一段高いレベルに到達すると、そこであなたは新しい悪魔にも会う?ーこれ以上馬鹿げた話が他にあるでしょうか。私は今のレベルでも悪魔の妨害に打ち勝つために苦労しているのに、高いい所に行こうとして、そこにもっと手強い悪魔がいるのなら、私は一段上のレベルには行きたくないです。(笑い)勿論悪魔はこの世の至る所で私たちを待ち構えていることは事実です。しかし一段上のレベルに行けば、別のレベルの悪魔でいるのではなく、もっと深い神からの啓示 revelation が待っているのです。詩編91:14に書かれているように、神は、神を愛している者を一段高い所に上げ、悪魔の手が届かないようにして下さるのです。新しい上のレベルでは啓示と勝利が与えられます。
ヨハネは、私たちはこの世に打ち勝つと言いますが、この世とは何を意味するのでしょうか。一言で言えば、それは悪魔が支配するこの世において、人間に神を愛させないようにするための悪魔の組織的妨害の総称です。1ヨハネ2:15、16に次のように書かれています。「世をも、世にあるものをも、 愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。」
第一に言えることは、人間に何とかしてこの世を愛させようとすることは悪魔の策略であって、その目的は天の父を愛させないようにすることにあることです。イエスが人は二人の主人に(或は神と富とに)同時に仕えることは出来ないと言われたように、クリスチャンは神とこの世を同時に愛することは出来ません。
よく、クリスチャンが具体的にこれこれをしてはいけないのだろうかー例えば映画を見に行くとか、女性がズボンをはくことがよくないことかーを気にして、そのことが聖書のどこに書いてあるのかを詮索する人がいます。しかし、そのようなことを判断するために一番確かな方法は、それをすることが天の父への愛に反する、あるいは減少させるのであれば、それはすべきことではないのです。
16節に「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは」と書かれています。これ等は私たちのこの世での欲望について書かれたもので、一見必ずしも悪いことではないと思えるかもしれません。しかしそれらは「御父から出たものではなく、この世から出たものものだからです。」とはっきり書かれていることに注意しなければなりません。
すなわち愛とは、愛する者同士を同じデスティニーにつなぐものであると言うことです。私たち夫婦は結婚した時に誓い合ったように、私たちが共にこの世に生きている限り、同じデスティニーに向かって夫婦は一体となって主と共に生きるのであって、二人が勝手に別の場所に住んだり、別々のデスティニーに向かうような行為はしません。
ヨハネが言おうとしていることは、あなたが天の父を愛しているなら、あなたを愛している父のデスティニーに到着します。しかし、もしこの世を愛しているなら、この世のデスティニーに行き着く、すなわち、この世と共に滅び去るのです。そのことが17節に「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。」と書かれています。ロトの妻がよい例いです。後ろを振り返ってはいけないと警告されていたにもかかわらず、彼女はこの世に対する愛着から後ろを見てしまい、その結果そこから逃げることが出来ませんでした。私たちも同じです。皆さんは「この世をも、世にあるものをも愛してはならない」のであって、父と主のおられるところに行き着かねばならないのです。
さてその後、ヨハネは1ヨハネ4:3で、この世には既に反キリストの霊が放たれていると言っています。その目的は何でしょうか。皆さんはこの世の悪魔のやり方とそのシステムをよくご存知ですね。それは反キリストのことです。反キリストと聞くと多くの人は反キリストと言う一人の人を思い浮かべますが、問題は反キリストの霊にあります。パウロはキリストの霊は私たちの霊を強めると言います。キリストの霊は、私たちの信仰に大胆さを与えてくれます。一方、反キリストの霊はその正反対で、私たちの信仰を弱め、破壊しようとします。
自分の能力 might を正しく使う
2015年に私たちは、「自分は必ず勝利する」と言うマインドセットを持たなければなりません。そこで重要なことは、その勝利は、誰かが直接私たちに勝利そのものとして与えてくれるのではなく、間接的に私たち自身が、自分に与えられた力によって自分で勝ち取ることによって実現すると言うことです。そのために私たちは、人間に元々与えられている「力(能力) might 」と言う神からの賜物を正しく用いねばなりません。皆さん「力 might 」と言って下さい。この might と言う力は何でしょうか。それは私たちがやり遂げようとしていることを実行出来るようにしてくれる力です。
クリスチャンはよく誤解するのですが、この力と言うのは声を大きくしてシャウトすれば来ると思ってしまいます。教会とか聖会に出て多くの人が声を張り上げて叫んだ後に意気揚々として家に帰って来ますが、その多くの人たちは残念ながら家を出る前と変わらず敵にやられたままです。
この事実は1サムエル4章を思い出させます。その当時のイスラエルは神と共に歩いてはいませんでしたが、挑戦して来るペリシテ人を迎え撃つために陣を敷き、戦いました。しかし敗れました。そこで長老たちが一計を講じ、主の契約の箱を陣営に持ち込んだのです。それを見た全イスラエルは勇み立って大歓声を上げました。それは地がどよめく程の大声だったと言います。一方、そのどよめきを聞いてペリシテ人は一旦は恐れましたが、逆に奮い立ち、彼らの方が勝利のマインドセットが整ったのです。そして翌日の戦いでは、勢い込んで攻め込むイスラエル軍に大敗を負わせ、挙げ句にイスラエルは神の箱まで奪われました。
ここで注意して聞いて下さい。悪魔は神の手から私たちを取り上げる力はありませんが、神を私たちから取り上げることは出来るのです。
その日イスラエルが負けた理由は、神が彼らを見放したからではなく、彼らが神を見放したからです。イスラエルは神にだけしがみつく力がありませんでした。一方、ペリシテ人はイスラエルから神を盗むことが出来ました。これは私たちの中でいつも起こっていることです。多くの人は神のみを愛して神にしがみつくだけの力がないのです。
その意味はこうです。私たちはどんな苦境にあっても、この世の中には、神を信じる者から神を取り上げるような力は本来ないのです。私たちがしっかりと神への信仰に立つ限り、神の栄光は私たちからは決して去りません。しかし、全財産を失うような事態になると慌ててしまい、神だけに頼る人は少ないのです。その点ヨブは違いました。彼は大変な試練に放り込まれましたが、それでも神を呪うことをせず、神にしがみつき通しました。これこそヨブが自分の力・パワー・能力を正しく使ったよい例です。
イスラエルの南北王朝の時代には多くの王が出ましたが、その中で主の目にかなうことをした王にアサ、ヨシャパテ、ヒゼキヤ等がおります。アサは町を築くことにおいて、ヨシャパテは戦うことにおいて優れていました。又ヒゼキヤは貯水池と水道を造り都に水を引き入れると言う偉業を成し遂げました。しかしそのような王の中でも特異な存在は、2列王記23:25に出て来るヨシヤ王です。「ヨシヤのように心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてモーセのすべての律法に従って、主に立ち返った turn to the Lord 王は、彼の先にも後にもひとりも起こらなかった」と書かれているように、彼は自分の全身全霊と力 might のすべてを尽くして「神に立ち返る」ことをした王です。
従って重要なことは、この人間に具わる力・パワー・能力は正しく使わねばならないことです。私たちが何かをしようとする時に、私たちは先ず全力で神に顔を向け、どんな誘惑に会っても、神に立ち返ることをしなければなりません。それによってあなたは神の力を得ることが出来ます。そうすれば戦いに勝つことも、よい町づくりをすることも、すべてのことを神に従って御心通りに成し遂げることが出来るのです。
エレミヤ23:10で、偽預言者について書かれていますが、「・・・彼らの走る道は悪で、不正にその力を使う。their might is not right.」(新共同訳)とあります。
そこで皆さん、声を出して「あなたの力をあなたは正しく用いていない。 Your might is not right. 」と隣の人に言って下さい。そう言われて怪訝な顔をしている人がいますね。(笑い)・・・偽預言者は力は持っていましたが、その使い道が正しくなかったのです。あなたの持つ能力と力は(何をさておいても)常に神を向き、神に頼ることに使わねばなりません。自己に頼ること self dependance と、神に頼ること God dependance の間には大変大きな差があります。あなたが自分(あるいは人間=この世)を頼りにして力を用いるならば、あなたはあなたの力を正しく用いてはいないのです。「自己に頼る」ことはこの世で最も普遍的な能力の使い方です。それによって世を愛する人は1ヨハネ2:16にあるように「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢(プライド)・・・」と言う自分の欲望を追い掛けます。しかしそうであってはならない。ゼカリヤ書4:6に「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって not by might, nor by power, but by my Spirit」と書かれているように、私たちは人間の力と能力に頼って物事を行うのではなく、主の霊にーすなわち神に頼り、神の御心に従わねばなりません。神に従うことはどんなに卓越することより勝り、神に頼ることは、自分でどんなに優秀なことをするよりも勝ります。
ですからあなたは「自分の力と能力を正しく使わねばならない」のです。これが本日の説教のタイトルです。今年2015年は勝利の年です。しかし本当に勝利するためにはあなたの力と能力は、正しく使われ、正しい秩序によって、正しいところで用いられねばなりません。(終わり)