2014年 ニューイヤーズ・イブ集会でのメッセージ ベンジャミン・イスラエル・ロビンソン 2015年1月3日
謹んで2015年新春のご挨拶申し上げます。
今年最初のメッセージは、私たちの所属教会リビング・ホープ・クリスチャン・センターの主任牧師であるベンジャミン・ロビンソン牧師が2014年最後の集会で語った新年に向けてのメッセージをご紹介させていただきます。それでは、どうぞ今年もよろしくお願い致します。
坂 達 也 ・ 柚 実 子
2014年 ニューイヤーズ・イブ集会でのメッセージ
ベンジャミン・イスラエル・ロビンソン
後42分で2014年が終わり、新しい2015年に入ります。
新しい年は、きれいな白紙で始めたいものです。そのために今、私たちは今年残した「お荷物」を取り扱っておかなければなりません。それは古い着物を脱ぎ捨てて新しい着物 garment に着替えることです。新しい年、ニューシーズンには、それにフィットするふさわしい着物を着なければなりません。
エペソ5:1−21をお読みします。(どうぞ聖書を開いてお読み下さい)新しい年は聖書の御言葉が皆さんの耳と、心と思いの中でいつも鳴っている年にしていただきたいと思います。
今夜は久しぶりに私たちロビンソン3兄弟で賛美をさせていただきました。私たちの家は、いつも賛美が鳴り響き、そのための楽器であるピアノとドラムセットとその他の種々な楽器で一杯でした。父(牧師)は、私たちがこの家でたとえ夜遅く賛美して近所から苦情が出ようと出まいと、私たちが礼拝することを決して止めませんでした。私たちはそのようにして育ちました。
思い出せば、この三人でニューイヤーイブに賛美した最後の夜は16年前の1998年でしたが、それはサンノゼ市にある教会ででした。私は未だ21歳の学生でした。ちょうどその頃、父は私たちの家の大改築をしていた時で、私たち三人は丸一週間父の手伝いをしておりました。その夕方仕事を終えて家を出ようとすると、私の直ぐ下のヨシュアと言う弟が(彼は何でも思っていることは口に出す性質で、そんな彼でも今は牧師になっていますが)父に向かって「私たちはまるで奴隷のように一週間働いたのだからお金を支払って欲しい」と言いました。父は「あなた方は一生懸命働いたのではなくて、只家の中をうろついていただけなんだからお金を払う価値はないよ。」と答えました。こんな会話を聞いていた私は一番上の「マチュアー」な息子として二人の間に割り込み、先ず弟に「やめなさい!私たちはこの家の息子であり、この家に仕える者なのだから、お金を要求するのは間違っている。」と諫めました。そして次に父を指差して言いました。「あなたも間違っている。なぜなら私たちは昔のイスラエルの奴隷のように一生懸命働いたのです。」
急いでいたので、そう言い残して私たち三人は車に乗って家を出ました。車の中で私は言うべき正しいことを言ったのだという思いで得意になっていたのですが、それは45秒も続きませんでした。なぜなら「未だ21歳にしかならない者が父に向かって指を指して責めることは恥ずべきことである」と主から示されたのです。とたんに私は罪の呵責に責められ始め、教会に着くと直ぐ、父に電話をして心から自分の非を謝りました。そして弟にも謝まらせました。父は私たちを赦してくれました。
その夜の私たち三人のリードによる賛美は今までにない程主の臨在が溢れ、豊かな油注ぎがありました。私たちは何をするにしても先ず父の前で正しくあることが必要です。私が父親に言ったことが間違っていたのではなく、私が父に対して言い返したそのことが間違っていたのです。
そこで私は、今夜皆さんに、私たちクリスチャンのアイデンティティー(私たちは誰であるか)と性質・性格キャラクター(私たちの行いの現れ)の関係についてお話したいと思います。私がたとえ父親に向かってどんな馬鹿なことを言ったとしても、それによって私のアイデンティティーが変わる訳ではありません。しかしキャラクターとなれば、私の行いが私のアイデンティティーにふさわしい品性、まじめさ、誠実さとマッチしているかどうかが問われます。つまり、誠実さ integrity とはあなたのアイデンティティーとあなたの行いが一致する状態のことを言い、両者が互いにふさわしければよいのですが、矛盾していれば、あなたの誠実性に問題があるということになります。私が父を責めた時、私は咄嗟に平静を失って、私のアイデンティティーにふさわしくないことを口にしてしまったのです。実に恥ずかしいことでした。私たちがイエスを救い主なる主と認めた時から私たちは神の子どもとなったのであって、そのアイデンティティーは変わらないのです。5:3を見て下さい。「あなたがたの間では、聖徒にふさわしくない」行動をとってはいけないのです。言ってみれば、あなたの着物(行い)はあなたの身体(アイデンティティー)にぴったりフィットしていなければ、小さ過ぎても大き過ぎてもおかしいのと同じです。
私の(5歳の)娘は育ち盛りで靴でも着物でもすぐフィットしなくなります。それでも娘はお気に入りの靴があって、最近、それが小さくなったにもかかわらず無理してでも履こうとしたものですから、足が痛くなり歩けなくなってしまいました。娘はパパに新しい靴を買って欲しいと言うべきだったのです。今、2015年を迎えようとしています。しかし、この一年で私たちは一段と成長(霊的に)したのですからフィットしなくなった「古い着物とか靴」は捨てて、神に新しい年にふさわしい着物をもらい、それを着る準備をすべきではないでしょうか。そのことが5:4に書いてあります。「淫らなこと、愚かな話や下品な冗談」を脱いで、新しい年は「むしろ何事にも感謝する」という着物を着るべき年であるかもしれませんね。それを言えば、パウロは5:1で「神にならう(imitate する)者になりなさい」と言っています。
キャラクターとは立ち止まった時の状態 ではなく、歩いて(行動して)いる時の状態であることを理解しなくてはなりません。すなわち、神の前に立っている状態と、神と共に歩いている時の状態とは違うのです。神の前に出て立つ時、それは、神の臨在の中で、神を礼拝している時の状態ですが、それはあなたのアイデンティティーであって、あなたの現実の霊的状態 ではありません。あなたの今の霊的状態を知りたいですか。それはあなたが突然火の中に放り込まれたような試練に会う時に分かります。高速道路で突然車があなたの前に強引に割り込んで来た時とか、激しい夫婦喧嘩をした時とかに分かるのです。夫婦喧嘩が加熱するとあなたは大概つまずきませんか。そのような時の相手に対する反応、それがあなたの現実の霊的状態を表します。神はあなたに色々な試練を与え、あなたの霊性とキャラクターのどこかに隠れたひびが入っていないかをテストされます。主は私たちの日常の生活の中で歩いている時に、私たちの行いが私たちのアイデンティティーと合致しているかどうかを知らせてくれます。
昨夜私は娘を三日ぶりにお風呂に入れました。(妻が韓国に帰っていました)娘はダンスがとても好きでバスタブ中でも踊ります。私も嫌いではないので一緒になって音楽に合わせてダンスパーテイーになり、楽しくはしゃいでおりました。ところが調子に乗り過ぎた娘は着物を着たままの私に足で水を掛け始めました。私は止めなさいと静かに娘に言うのですが、娘は面白がってなかなか止めません。五分程はよかったのですがその後娘が突然又水を私の方に足で蹴るので、私はとっさに大声で怒鳴ったのです。自分でもびっくりするような声でした。娘は泣き出し、パーテイーは終わりました。その後私は静かに娘を諭し、娘はもう水を掛けなくなりました。しかしそこで気が付いたことは、私が大声で怒鳴ったその瞬間、私の霊の歩みと私の立っているアイデンティティーとがイコールではなくなったことです。ことばを換えれば、私は霊で歩いてはいなかったのです。私がしたと同じように神が私たちを怒鳴ることなどあなたは想像できますか。もしそれが起こったのなら、私が存在しなくなるだけでなく、世の中は終わりになります。私はその瞬間に私の天の父がどのようなお方であるかを忘れた行いをしてしまったのです。天の父は私たちに対して決してそのようには行動されません。神は私たちに「愛は寛容であり、親切である」と教えて下さいますが、それを忍耐をもって教えて下さる方です。確かに私も娘に教えようとし、それは正しいことでしたが、忍耐に欠けていました。その意味は、私はその瞬間に霊の中を歩むことから自分自身を放り出したのです。これはとても大切なことです。
私たちはよく「解放 」を求めますが、解放されると言うことは(聖霊と共に)霊の中を歩くようになることであり、縛りとは肉の中を歩むことです。しかしあなたは肉の中を歩んでいる時に肉から解放されることはないのです。悪魔を追い出すことは出来ても、自分の肉を追い出すことは出来ません。肉は十字架につけるしかないからです。その上に、あなたは肉の中を歩まないと決意しなければなりません。
霊の中を歩くためには、先ず、あなたの過去においてあなたを霊の流れから追い出してしまった経験とかその状況を具体的に思い出し、それを取り扱うことを決意することです。2015年にはそれをすることを提唱します。
私のゴールは、何とか自分を訓練して、20分以上神を呼ばずに時間を過ごすことがないようにしたいのです。多くの人は、霊的になるには多くの時間を神と共に過ごさねばならないと言います。しかし、世の中には毎日何時間も神に祈る時間がない人が大勢います。このことを私はスミス・ウイグルウオースから学びました。彼は「私は20分以上は祈りません。しかし私は、祈ることなしに20分以上の時間を過ごすこともありません。」と言いました。私は2015年にはそうなりたいのです。たとえ私のワイフとどのような口論になっていても、あるいは娘によって私の堪忍袋の緒が切れそうになっていても、私は何とかして霊の流れの中に留まりたいのです。
どうしたら、霊に留まりつつワイフと口論することが出来るのでしょうか。それには、どのように口論すればよいのでしょうか。「霊の人」とは、どのように物事にリアクトする(肉でない反応をする)のでしょうか。とにかく私の願いはいつも霊に留まりたいのです。どんな危機に面しても、聖霊の支配の下に自分を置きたいのです。私はそれを学びたいーそれが私の目標です。
それは取りも直さず、私たちが神との親しい関係 を四六時中常に保つことを意味していると私は信じます。神はこの一つのことの為に、私たちが2015年により大きな着物を着ることを願っておられると信じます。それは 霊をフルに着ると言うことです。
パウロはこのことを5章全体で語っています。18節に「酒に酔ってはいけません。」と書かれていますが、ここで彼は単にアルコール飲料についての神学を語ろうとしているのではありません。この世で聖霊以外の一切の異物を指して、そのようなものに酔っていてはいけない、それより聖霊に充たされ、聖霊に酔いなさいと言っているのです。私が娘に対して怒鳴った時、私は「辛抱と忍耐のないこと(或はそう言う自分に)」に酔っていたのです。
私は今朝ヨシュア記5章、6章を読んでいました。そびえ立つ高い要塞の城門の壁に囲まれたエリコを打ち破って勝ち取る話です。エリコは私たちが究極のデスティニーに向かうときに出会う最初の障碍物とも言えます。目の前に立ちはだかる壁をヨシュアは一人でつぶさに調べて見たでしょう。しかしそこには何の脆さ、突破口もありませんでした。それと同じで、皆さんの中には霊の中に入りたくても大きな壁があってどうしても入れないと感じた経験はありませんか。私はよくそれを感じます。自分が一瞬カッとなって、自らを「聖霊の流れ」の外に放り出した時何とかして戻りたいと思っても、直にはもどれない大きな壁のことです。そこにはいらいらする自分はあっても聖霊はおられません。
考えてもみてください。私たちクリスチャンの中には神の聖霊が住んでいるのです。そうであるのに、どうして私たちはスーパー・パワフルな霊のいのちと力をいつも感じることが出来ないのでしょうか。神の栄光と、もの凄い力にどうして充たされないのでしょうか。私と霊のいのちの間に立ちはだかる壁があるのを感じます。そのために何時間も祈るとか、例えば8時間かけて聖書を読んでメディテーションすればよいのか・・・そうではありません。その壁は自分の力では取り除くことは出来ないのです。
ヨシュアの前に一人の抜き身の剣を持った御使いが現れました。そこでヨシュアは彼に「あなたは私たちの味方ですか敵ですか」と尋ねました。私はそれに対する御使いの答えが大好きです。彼は先ずそのどちらでもない「ノーである」と答えました。そして、「あなたは誤解している。私は、どちらのためでもない、主のための主の軍の司令官として来ているのだ。」と告げました。それで理解したヨシュアは「主の御ことば(命令)は何でしょうか」と平伏して尋ねました。その答えは「あなたの立っているところが聖なる場所であることをわきまえるために、先ず履物を脱ぎなさい。」でした。御使いはそう答えてから主の克明な作戦をヨシュアに伝えました。すべてのことにおいて神の方法しか解決策はないことがこれでよく分かります。
主は御使いを派遣し、エリコの厚い壁を打ち破るためのブレークスルーの方法をヨシュアに伝えたのでした。
同時に主が御使いを通してイスラエルの戦士に伝えていることは、彼らが自分のアイデンティティーにふさわしい行動を取らねばならないと言うことでした。ですから主の戦術の第一は、敵である城壁の周りを主の霊と共に「歩く」ことであったのです。そして第二は「プレーズ&ワーシップする」ことでした。これがそのまま私たちの2015年における戦術であると信じます。
私たちは皆、今打破らなければならない何らかの壁を持っています。あなたの壁となっているのは、夫か妻であるか、あるいは子どもたちであるかもしれません。又、仕事そのものであるか、仕事上での人間関係であるかもしれません。それらの壁があなたの「霊の歩み」をさせないようにしています。しかし「歩いて、礼拝する」あるいは「礼拝して、歩く」こよによって、主が遣わす御使いがその壁を打ち破ってくれます。
2015年は壁が崩れ落ちる時です。それは教会での礼拝中に起こるのではなく、歩いている時に起こるのです。そのためにパウロは、エペソ4:1で「主の囚人である私はあなたがたに薦めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。」と言います。私たちは日曜日に教会に来て神の力を受け、月曜からの一週間における主との歩みの中で敵の要塞の壁に打ち勝つのです。
(時計を見て)今年はいよいよ後二分残るだけとなりました。ここで皆さん新年に向かって大声を上げて主の御名を礼拝しましょう。・・・声が小さいです。もっと大きな声で。・・・新しい年に着る一回り大きな着物を今着ましょう。・・・そしてエリコでイスラエルが七日目の最後にしたように、ここに集まる人全員で今、ときの声をあげましょう。大声で。・・・・(終わり)