弱い者に引き寄せられる神 ビル・ジョンソン(2014年12月7日礼拝説教からの抜粋)
弱い者に引き寄せられる神
ビル・ジョンソン(2014年12月7日礼拝説教からの抜粋)
クリスマスはすばらしいシーズンです。多分90%の人は一年で一番楽しい時だと思っているでしょう。でもそう思わない人たちにはそれぞれ理由があります。愛する人を失ったとか、挫折や失敗というような理由です。このシーズン、喜ぶ人と共に喜んではいるけれども、自分は喜んでいない人たちが私たちの周りにいます。主はそれをそのままにしていてはいけない、すべての家庭にブレークスルーが必要であると言っておられるように私は感じています。この教会のすべての人に職が与えられることを私は願います。「職が与えられないのは神からの試煉だ。」と言って済ますことをしたくないのです。確かに神はそのような状況を用いてはくださいますが、神が計画されたことではありません。神が用いられるけれども神のご計画ではないことは沢山あります。私たちは自分たちで天国にはない神学を作ってしまっていてはいけないのです。神はすべてのことを、命を与えるもの、目的のあるものとして作られました。私たちはそのように造られたのです。もしそうでないとすれば、私たちが罪を犯したからそうなったのではなく、未だ私たちがその(神の意図した)レベルに到達していないということであるからです。
神が約束してくださったすべてのことを理解し受け取るという訓練を現在私たちはしています。その訓練を受けるときに、私たちは神の満ち満ちたものを受け取ることができるようになっていく(成長して)のです。
今までの5、6週間、私の心にずっと一つのテーマがありました。神の物の見方は私たちの見方とは全く違うことを、皆さんはご存知ですね。神はいろいろなことに惹き付けられるお方です。その一つは「弱さ」にです。「あなたの弱さの中に私の力はあらわされる。」と言われました。実際、神は弱さに惹き付けられます。それは強さを嫌うという意味ではありません。これは神にとってとても大切なテーマなので、ヨエル3:10で「弱い者に『私は勇士だ。』と言わせよ。」と言っておられます。弱い者たちが天と同意し、ご自分と一致し、強い者になることを神は望んでおられます。それは天と地が一つになるためです。
聖書は、経済的に貧しい人は信仰が強いと言っています。信仰を強くするためにあなたは一文無しにならねばならない、と言われているのではなく、貧しいとあなたの気を逸らすものがないと言う意味でそう言われているように思います。マタイ13:22で、イエスは「富のまどわし」のことを話されました。それは信仰とお金が共存できないからではありません。もしあなたの心が正しいことへ向けられてないのであれば、多くのことがあなたの心を惹き付け誘惑して、あなたをいるべき場所からおびき出してしまうからです。ヤコブ1:9に「貧しい境遇にある兄弟は、自分の高い身分を誇りとしなさい。」とあります。神は、人間が何かに「不足」し、何かが「必要である」状態に目を着けられ(向けられ)そこに信仰を与えてくださるのです。
神は又、悲しみに引き寄せられると言われました。「悲しむものは幸いです。その人は慰められるからです。」とあります。神の名の一つは「慰め主」です。それは勿論、神が人間が喜ぶことを嫌っておられるからではありません。聖書は喜びの言葉で満ちています。しかし、神は人が悲しむとき、その悲しみに引き寄せられるのです。そのような人たちに神は慰めを与えられる方であるからです。
しかし、一番ショックなことと言えば、神は罪に惹き付けられることです。勿論神が罪を容認し認めるわけではありませんが、罪を見て怯む方ではありません。「罪が満ちるところに恵みも満ちあふれます。」地上で最も暗やみに被われている場所に福音の働き人を遣わす時に、そこに大いなるブレークスルーが起こることを私たちは経験しています。途方もない神の偉大な栄光がそこに現されます。神は地獄のような場所の罪を見て、どうしようかとおろおろする方ではありません。実のところ、神はそこにある罪に引き寄せられるのです。なぜなら、そこにいるすべての人が、罪が取り除かれることによって喜ぶことを神は見たい、そのような事態を現したいと思われ方だからです。
私たちが「良くない」とか「駄目だ」と思うことに、主は引き寄せられます。そして悲しみには慰めを、罪あるところには悔い改めと義を、弱いところには強さを、不足のあることころには充足をもたらしてくださいます。
士師記20章を見て下さい。ベニヤミン族の者たちがレビ人のそばめに暴行を加えて殺しましましたが、ベニヤミン族の人たちは自分の部族の男たちがした恥ずかしい行いに対して特に悪いと思わず悔い改めませんでした。そこでそばめの主人であるレビ人は、そばめの死体を12に切り分けて、イスラエルの各部族に送りました。18節から28節までを読んでみましょう。
ベニヤミン族に報復を加えることにした他の全イスラエル部族の人たちは、ベテルに上り神に伺って「私たちのために、だれが最初に行って、ベニヤミン族と戦うべきでしょうか。」と伺うと、主は「ユダが最初だ。」仰せられたので、イスラエル軍はベニヤミン族のギブアの町に対して陣を敷きました。そのとき、ベニヤミン族はギブアから出て来て、その日、イスラエル人二万ニ千人をその場で殺しました。しかし、イスラエル人はひるまずに奮い立ち、初めの日に陣を敷いた場所で、再び戦いの備えをしました。そして主の前で夕方まで泣き「私たちは再び、私たちの兄弟ベニヤミン族と戦うべきでしょうか。」と主に伺うと、主は「攻め上れ。」と仰せられました。そこで、イスラエル軍は次の日、ベニヤミン族に攻め寄せたのですが、ベニヤミン族は彼らを迎え撃ち、再びイスラエル軍のうち一万八千人の剣を使う者をその場で殺しました。
そこでイスラエル軍は、全民こぞってベテルに上って行って、泣き、その所で主の前にすわり、その日は、夕方まで断食をして、全焼のいけにえと和解のいけにえを主の前にささげました。(当時、神の契約の箱はそこにあり、アロンの子エリアザルの子ピネハスが、御前に仕えていた。)そして「私はまた、出て行って、私の兄弟ベニヤミン族と戦うべきでしょうか。それともやめるべきでしょうか。」とうかがうと「攻め上れ。あす、彼らをあなたがたの手に渡す。」主は仰せられました。
これはとても奇妙な話です。神はイスラエル人を2回の負け戦さに行くように仰せられたのです。この時、神はイスラエル軍に何の落ち度も見つけませんでした。ヨシュアがアイを攻めて敗北したときには、キャンプの中に罪があったことがその敗因でした。聖書の中にはイスラエル軍が敗北した戦いのことが多く書かれていますが、そのすべてに敗北した原因があり、神はそれを咎め正されました。
しかし、この戦いの時、彼らは攻め上るべきかどうかを主に伺い、しかもユダが最初の行くようにという指示も受けました。ユダは「賛美」という意味があります。私たちは戦いに行くときは賛美を先頭にして行きます。士師記1:2でも主はまずユダが最初に上っていかねばならないと仰せられました。私たちの霊的戦いはサタンに焦点を当てるのではなく、神に焦点を当てるべきであるからです。又,別の聖書箇所では、聖歌隊がまず最初に進みました。まず第一に主に仕えることが勝利への鍵だからです。彼らはここで、「だれが最初に上っていくのでしょうか」と尋ね、主は「ユダが最初だ。」と答えられました。イスラエル人は主の言葉に従い、すべてのことを主の言われる通りに行ったにもかかわらず、その日ニ万ニ千人が殺されたのです。
彼らは陣に戻りもう一度奮い立って、神の御前に出て、泣いたのです。「再び戦うべきでしょうか。」と神に伺い、神は「もう一度攻め上れ。」と言われました。彼らは攻め上り、その結果一万八千人が戦死しました。彼らは又主の前に座りましたが、主からの咎めは何もありませんでした。彼らは「再び攻め上るべきでしょうか。それとももう止めるべきでしょうか。」と主に伺いました。主は「攻め上れ。今度は必ず勝利を与える。」と言われました。
ここがポイントです。私たちは通常、回りの悪い状況にチャレンジして、それを変えることが出来たときが「勝利」であると考えます。しかし神は、あなたが敗北したにもかかわらず再び神に祈ることこそ「勝利」であると考えられるのです。イスラエル軍は敗北しましたが、神からの咎めはありませんでした。彼らは又祈り、そして従いました。2日間の戦いで四万人の死者を出したにもかかわらず、3日目にも彼らは主に従って戦う用意が出来ていました。それによって自分も命を落とすかもしれないのにです。
私たちは回りの悪い状況を変えることに力を尽くしますし、従ってそれが戦いの究極的な目的となります。しかし、主は主の御こころと目的をしっかりと胸に抱くことができる民を建て上げておられるのです。
神の御こころは多次元です。「御心が天で行われるようにこの地でも行われますように」というのは、私たちの人生のすべての面で完成されるべきことです。それはおろそかにすることではなく、先延ばしにするべきでもなく、すべて主に従う者たちが実行すべきことーそれが究極的なレベルの神の御心です。しかし、神の御こころのレベルをどれほど喜べるかは、私たちの霊的成熟度によります。どうしてでしょうか?
神の御こころが地上でなされるためには、奇蹟が必要であることは皆さん同意されますね。悪霊の圧迫からの解放、罪から義へと人生が変えられる、癒し等、すべて天国で存在するものがこの地に現れねばなりません。天国にあるのと同じ霊的領域を神が人びとの上に解き放つのです。それには奇蹟が必要です。奇蹟が起ると何が起るのでしょうか。ヨハネ2:11に「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現された。」とあります。すべての奇蹟は「栄光を現すもの」であるのです。神の栄光には重みがあります。
神というお方の重み、契約の重み、臨在の重み、顕在の重みという「栄光の重み」が、奇蹟が起る時には必ず現されます。この重みがそれを支えるだけの徳を持たない人の上に下ったときにはどうなるでしょうか。その人を祝福するための神の栄光が、実際にはその人を滅ぼしてしまいます。ですから、神は私たちへの憐れみのゆえに、ご自分の栄光に覆いをかけてくださるのです。栄光を出し惜しみしておられるのではありません。
神が「NO」と言われるのは、もっとよい「YES」が用意されているからです。神が「待て」と言われる理由は、その人が神からの答えを十分に受け取れる力を増し加えて下さるためにです。神はどうして神の民を訓戒されるのでしょうか。それは神が私たちに罰を下すのではなく、神の祝福が私たちを滅ぼさないためであるのです。ヨハネ16:12でイエスは「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。」と言われました。弟子たちは重みを受け止める力がまだなかったからです。
神が話される時はいつでも、その実質のリアリティーが解き放たれます。神は言葉だけを話されることはありません。イエスはヨハネ6:63で「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」と言われました。イエスが話されるとき、聖霊が解き放たれ、神の栄光の重さを持ってその場所でミニストリーをされるのです。イエスは多くのことを話したいが、今は彼らにはそれは耐えられないと言われました。ですからイエスはほんの少しだけ現してくださったのです。ブレークスルーをあそこで少し、ここで少し、という具合にです。それによって不思議を行われるお方に私たちが心惹かれるようにされたのです。私たちの中に神の栄光の重さの中で生きる力を養ってくださっているのです。それは神の臨在の栄光の中で生きていく力です。神はそれをすべての人に持って欲しいからです。今は神の憐れみのゆえに、少しずつ与えてくださいます。
私は祈りの答えを「種」の形で受け取ることがあります。神は樫の木を与えてくださる代わりに、ドングリを下さいます。それを私たちが管理して大きな木に、即ち私たちが願ったものに育てていくためです。種を管理して育てて行くときに、私たちの中に徳と力が増し加わり、元の祈りが最終的にかなえられたときには、それを巧く用いる力が私たちの中に育っているのです。結果は価値あるものですが、神は結果よりもそこに辿りつくまでの過程、プロセスに価値を置いて大切にされます。私たちを形作るのはそのプロセスにあるのです。
士師記の話では、神がイスラエルを2度の敗戦に導かれましたが、神はそれを勝利と考えられました。戦いに破れた後もイスラエルは神の御前にもどり、神に祈り、神に従ったからです。皆さんの中には、神が言われたと信じて従った結果、厳しい状況に置かれている方がいると思います。本当に危機に面している方もおられると思います。ある人の場合は神がそのような指示を与えられたでしょうし、又、ある人の場合は神ではなかったでしょう。でも大丈夫です。神はそれでも面倒をみてくださいます。神からの指示だと思って、馬鹿なことをしてしまった人はおられませんか? 私たちはみなそのような経験があります。
神は私たちをあることに導かれます。その結果、ある人たちはひどい破船にあって、やっぱりあれは神ではなかったのだと、考えます。でもあなたがその時、再び神の御前に出て祈るとき、神はそれを尊んでくださいます。結果は悪く出てあなたが望んだことではなくても、神の目にはあなたは勝利したのです。今日、神はここにいる方々にブレークスルーを与えてくださると信じます。神に従って失敗をしたことを神は逆転させてくださいます。(終)