終末の艱難時代が目前に迫る(1) 坂 達 也 2014年12月15日
終末の艱難時代が目前に迫る(1)
坂 達 也
2014年もいよいよ年末が迫って参りました。この時期に今年一年間(あるいはここ数年間)に世界で起こっていることを振り返って見ることは、大きな意義があるように思います。最近私がひしひしと感じることは「いよいよ終末の時代に入った」ということです。そう感じるのは私だけでしょうか。
「収穫とはこの世の終りのことです」とマタイ13:39に書いてあります。
収穫とは英語でハーベスト、すなわち、成熟したものを刈り取ることです。但し、成熟するのは良いものだけでなく、悪いものも成熟します。と言うことは世の終わりには、良いものの実りの収穫である大リバイバルが起こると同時に、悪いものも成熟の頂点に達しますから、これも刈り取らねばなりません。そのことがどのようにして起こるかーーそれが詳しく書かれているのが、使徒ヨハネによる聖書の最後の書「黙示録」です。
しかし、その黙示録に入る前に、世の終わりに起こることを適切に説明してくれている箇所にマタイによる福音書24章がありますので、それを先ず、手短に見てみたいと思います。この福音書に書かれていることが、実は今非常に現実味を帯びて来ているように私には感じられます。例えば6−13節には次のように書かれています。
「戦争と戦争のうわさとを聞く・・・しかし、それは起らねばならないが、まだ終りではない。 民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。・・・あちこちに、ききんが起り、また地震が起こる。すべてこれらは産みの苦しみの初めである・・・人々は、あなたがた(クリスチャン)を苦しみにあわせ、また殺す・・・わたしの名のゆえにすべての民に憎まれる・・・多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合う・・・多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わす・・・不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える・・・ しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」
その後の21−24節に次にように書かれています。
「その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起る・・・もしその期間が縮められないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選民のためには、その期間が縮められる・・・キリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとする。」
この部分はいわゆる大艱難 Great Tribulation と言われる最後の三年半の期間です。そして、その後にキリストの再臨があることになります。それが29−31節に次のように書かれています。
「・・・その時に起る患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。そのとき、人の子のしるしが天に現れる・・・地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見る・・・彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。」
さて終末の時代の推移として現時点がどの辺りかと言えば、今は上記で言う「産みの苦しみ(艱難)の初め」に位置していると思うのですがいかがでしょうか。
以上は前置きでしたが、これから「黙示録」に入りたいと思います。皆さんは既に黙示録を何度もお読みになろうとされたことと思いますが、奇異で耳慣れないことばが仰々しく書かれていて何かよく分からない、一言で言えば複雑多技で難解な書であると思いませんか。
一つはっきりしていることは、世の終わりには前述の通り、悪魔とその業も成熟することです。その長年の悪魔の非情きわまりない悪行が頂点に達する時点で、神はその「実」を刈り取って火で焼いてしまう、すなわち、この世の悪いもの一切に対し最終的なさばきを宣告し、それを処分すると言う劇的な壊滅の「幕開け」であることです。この「さばき」は大変厳しく、そのプロセスは壮絶、これ以上ない恐ろしい惨事になることがこの黙示録で詳しく書かれています。
但し誤解してはならないことは、この「神のさばき」はあくまで悪魔とその業の実りに対してであって、神を信じ神に従う者へのさばきではないことです。
ところがこの世の中は、人間が罪を犯すようになって以来、悪魔が支配して来ましたから、悪魔の業が成熟すると言うことは、この世の中が考えられない程ひどく悪くなることです。しかも悪魔は神の国イスラエルとクリスチャンを徹底的に憎み迫害して来たのです。それも頂点に達します。
そんな世の中に神を愛するクリスチャンも生きている訳ですから、悪魔の仕業で世の中が極端に悪くなるにつれ、クリスチャンもその巻き添えとなって、大変な苦しみの中を通らされると言うことを覚悟しなければなりません。この終わりの時代に起こる艱難時代(今までは7年と言われていたが、最近では3年半と言われる)は神学的に「大艱難時代」と呼ばれれています。
大艱難期前・携挙説と、大艱難期後・携挙説
ついてはこの「大艱難時代」をクリスチャンが通るのか、あるいはその前に天に挙げられて通らないで済むのか、昔から大別してこの二説が大きな神学論争の的となって来たことは皆さんよくご存知の通りです。
私の理解では19世紀以前はほとんどのクリスチャンが大艱難を通った後に携挙されると言う考え方を信じていたと言われます。しかし、20世紀に入って以降、大艱難を通る前に挙げられると言う考え方が強くなり、今ではアメリカでも日本でも後者を信じる人が大半であると言われます。皆さんはどちらを信じますか。
そこで最近私が気が付いたことは、この二つの考え方がクリスチャンの最終目標である「霊的成熟」を育成するか、あるいは阻むかの重要な分かれ目になると言うことです。その理由を申し上げます。
霊的成長の最終目標とは、クリスチャンが「イエスに似て、イエスに等しい」程、父なる神に徹底して従順な 「息子・娘 Fuios 」 になることです。しかも私たちへの神の期待は、私たちの想像を超えたものであることです。しかしそれ以上に私たちの想像を遥かに超えているのは、私たちに内住する聖霊の力の偉大さです。人間の思いでは、神の力は想像ができないのです。
主イエスは「・・・あなたがたは天の父が完全なように、完全でありなさい。」(マタイ5:48)と言い、「あなたがたのからだを父に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。」(ロマ書12:1)と命令しています。そして、 ヤコブ1:3、4で「信仰が試されると忍耐が生じる・・・その忍耐を完全に働かせなさい。そうすればあなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた完全な者 となります。」とまで言われるように、父の要求度は非常に高いのです。神は、私たちに実現不可能なことを要求する方ではありません。聖霊による訓練によって私たちはそうなれる、従って、そうならなければならないのです。実はこの域に達することが大宣教命令でイエスが「あらゆる国の人々を弟子としなさい。・・」と言われた「イエスの弟子訓練」の意図するものであるのです。そうであるなら、並大抵なことではそうなれないけれども、不可能はないと神が言われるのですから、私たちが一大決意をし情熱を傾注するならば、そうなれるのです。
そこまで覚悟する時、「この大艱難の中をクリスチャンに通らせる」ことが、私たちに最も必要な霊的訓練のための、はっきりとした主のご計画であることが見えて来ないでしょうか。ところが人間の考える神学では、神は罪人に対するさばき(神の怒り)である大艱難をクリスチャンに通らせるはずはないと考えるようになったのです。私はこの考えは終わりの時代に於けるサタンの惑わしであると信じます。
なぜなら、クリスチャンが最後の艱難に会わずに天国に挙げられると言うことになれば、ほとんどのクリスチャンがなまぬるい「肉の思い」を持ったままイージーゴーイングの考え方を変えないからです。少なくとも私は、人間の「罪の思いと言う深い根」は尋常なことでは断ち切れないことを嫌という程味わって来ましたから、それが断ち切られるのであれば、たとえ何度死ぬ目に遭い、最悪の辛い試練を通らせられるとしても私にはそれが必要であると思っています。そして実際に大艱難の中をほとんどのクリスチャンは通されると信じます。そうであれば、今からそのようなへりくだった心の準備をしておく必要があると思うのです。さもなければ、実際に大艱難が来た時には慌てふためくだけで霊的準備不足が悔やまれると危惧します。
ところで、黙示録には「悔い改めなさい」と言う言葉が多く出て来ます。それはマタイ伝でイエスが宣教を開始した時の最初のことばが「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ4:17)と言われましたが、それと同じ意味です。
この言葉の原語は本来「考え方を変えなさい」と言う意味です。終わりの時にクリスチャンに(未信者にだけではありません)とって一番必要な言葉がこれです。人間はクリスチャンであっても、主に聞くことをせず、つい何事も自分で考え、知らぬ間に人間的な罪の考えに落ち込んでしまいます。特に終わりの時には悪魔がクリスチャンを執拗に惑わそうとしますから余計にそうです。それをご存知の主は開口一番「人間的な考え方を捨て、御国の考え方、神の御心が何であるかを常に心しなさい」と警鐘を鳴らして下さっているのです。御国のクリスチャンが常に悔い改める生き方(自分の考え方を常に神の考え方に合わせるライフスタイル)をする必要があるのがこれでよく分かります。(続く)