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19 10月

聖さ:神を楽しむという召し   マイク・ビクル         2014年10月19日


聖さ:神を楽しむという召し

 

マイク・ビクル

 

多くの人は、「自分が聖くなることなど到底不可能だ」とか、 或いは「自分の努力で聖くならねばならない」と考えていますが、その考えはどちらも聖書が教えていることではありません。私たちが聖霊に助けを求め、聖霊から力を受け取るならば、聖霊ご自身が 私たちを強め聖い人生を送れるようにしてくださるのです。それでは聖さとはどのようなものでしょうか? それは神を楽しむという召しです。

すべての人は、神によって、或いは他の何かによって満たされ満足することを求めていますが、永遠のまことの喜びは私たちのために用意されていて、それは神のうちに見出す事ができます。詩編には、神が確かに私たちに心からの満たしと喜びを与えて下さる源であることが、溢れるように何度も書かれています。

詩編16:11「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」

詩編63:1-5「神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。..私のたましいは脂肪と髄に満ち足りるかのように、私のくちびるは喜びにあふれて賛美します。」

詩編36:7-9「神よ。あなたの恵みは、なんと尊いことでしょう。人の子らは御翼の陰に身を避けます。彼らはあなたの家の豊かさを心ゆくまで飲むでしょう。あなたの楽しみの流れを、あなたは彼らに飲ませなさいます。いのちの水はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。」

 

もし私たちが「真の魅惑が欠乏して何もない真空状態 facination vacuum」の中で生きているならば、一時の快楽の誘惑に打ち勝つことはできないでしょう。私たちはそれよりもっと優れた喜びで心が満たされていなければなりません。霊的に退屈しているクリスチャンには、サタンが心の扉を叩くとき、その誘惑に勝つことが困難なのです。それがキリストのからだの中でポルノが蔓延っている理由です。私はサタンが使う誘惑のリストを書こうとしているのではありませんが、現在、非常に多くのクリスチャンが肉的快楽のとりこになっているのは、彼らが霊的真空状態の中で生きているからであることを私は言いたいのです。彼らはのんびりと霊的に退屈している状態の中で生きることに慣れてしまい 、それで満足してしまっているのです。どうかそのような生き方に満足しないようにしてください。

 

誘惑に打ち勝つ鍵は、ただ単にイエスをぼんやりと愛して、罪を犯さないように望んでいるだけでは得られません。 霊的に強くしっかりと私たちの心を掴んでくれる何かが必要です。私たちは心を惹き付けられ魅惑されて facinated 生きなくてはなりません! 神に魅惑されるのです。それは聖書学校に行くとか、どこかへミッションに出かけるとか、伝道チームに入るとかいうことではありません。それよりはるかに私たちを捕らえるものが必要なのです。私たちの人生の秘密の場所で、イエスをもっと知り体験することです。ダビデの次の言葉を思い巡らすのはよいことだと思います。

詩編37:3-4「主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」

 

「聖さへの召し」とは、即ち、「神を楽しむことへの召し」です。聖さは「楽しいこと、愉快なことはもうできない」という召しではありません。確かに、私たちは罪深いことはもうできなくなりますが、私たちの心はそれを決して残念だとは思いません。罪深い行動は決してあなたを満足させませんし、あなたをリフレッシュすることもなく、あなたの人間関係を深くすることもありません。かえってあなたを傷つけ、孤立し断絶されたままの状態にするのです。

 

ジョン・パイパー師(John Piper)を知っておられる方は多いと思いますが、彼は今、キリストのからだの中で最も影響力のある一人だと思います。彼は「Future Grace : Its Purifying Power」という著書の中で、「罪とは、私たちの心が神に満ち足りていないときに犯すものである。」と言っています。又、神を楽しむことに関しては次にように言っています。「神を楽しむためには、私たちは神をはっきりと知らねばなりません。神を見ること(親密に知ること)は神を心から味合い楽しむことです。Seeing is savoring. もし神がぼんやりと霧がかかっているようにしか見えないならば、ほんの一時は神に惹き付けられるかもしれませんが、あなたが大きな喜びで満たされることはありません。なぜならば霧がはれたときに、自分が 深い谷間の絶壁の崖っぷちに立っているのを見つけるかもしれないからです。私たちは、神に従い神を喜ばせるときに自分自身の幸福を見出しますが、それと共に、私たちが神に最も満足しているときに、神は最も栄光を受けられると言うことも真実です。」

 

ですから、聖さを得るための戦いとは、実際には、義なること、義なるお方で心が一杯になるための戦いであることが分かります。聖さとは、単に正しいことをすることではありません。まず、私たちが何によって、誰によって心が一杯にされているのか、即ち、何が私たちの心と思いを惹き付けているかということです。私たちの心がイエスの麗しさでとりこになっているとき、私たちの言動はその心から流れ出します。私たちが神のうちに喜びを見出だすならば、私たちの人生を神が喜ばれるものにしたいという願いが、どんどん強くなっていくのがわかります。人間関係、会話、お金や時間の使い方、考え方など人生のすべての面において、聖さを求めていくようになるのです。

であるならば、私たちはパウロの次の祈りをいつも心がけるべきではないでしょうか。

「主にかなった歩みかたをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。」(コロサイ1:10)(終)


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