静まること グラハム・クック 2014年10月12日
静まること
グラハム・クック
「静まること stillness」は、私たちと天とのコミュニケーションの回線を開きます。私たちは皆、自分の頭のバックグラウンドで聞こえる絶えまないおしゃべりを聞いています。私の友人であるイギリスの心理学者ジム・マクネイシュは、これを「頭の中の雑音
head noise」と呼んでいますが、それは頭の中で聞こえる声であり、私たちの人生に付けられたサウンドトラックのようなものです。それはDVDについているスペシャル機能のように、意識の流れに沿った絶え間ない一方的なおしゃべりで、私たちの人生の一瞬一瞬にコメントをつけるのです。
「静まること」は、どこか静かな場所に行くことではありません。それが助けになることもありますが、そうではなく、それは私たちの頭の中の声を静め黙らせることなのです。それを静めることはディサプリン(訓練)が必要ですが、それは大変重要なことであり、私たちは絶対にそれをせねばなりません。神が共にいてくださいますから、あなたには絶対出来ます。
しかし、もし私たちが、静まることなしに、性急にとりなしの祈りを始めてしまうと、自分の頭の中で最初に聞こえたこの「雑音」を、そのまま「祈り」にしてしまいます。なぜならば私たちは自分を静まらせていないので、自分の力で祈ってしまい、自分が直面している重荷を背負ったまま、パニック状態で神の扉の前に行ってしまうからです。私たちはぺちゃくちゃとよく話をし、静まることは非常に稀です。
これは実際のところ、神の話し方とはまるきり正反対です。
神は常に静まっておられ、滅多に話されません。「主が私の内で語られる the Lord speaking in me」ことと、「主が私に語られる the Lord speaking to
me」ことは違います。私たちは「ああ、神が私に語られた。」とよく言います。しかし、それは大抵の場合、私たちの霊の倉庫にすでに蓄えられていた言葉、考え、想い、会話、聖句の中から神が一つ選んで、あなたの意識に中に呼び覚ましてくださったものなのです。
コンピューターのファイルのように、私たちの中にすでに蓄えられていた宝を神は引き出してくださるのです。「ああ、そうだ。確かにうなずける。主が語っておられるに違いない。」と私たちは考えます。神は長い沈黙の間に、稀に言葉を入れられます。そして神が語られる時、それは大した出来事、大事件です。神があなたに語られるとき、何かが分与されます。神の深い臨在が顕れます。神が一度語られると全地が創造されたくらいなのですから。
神が語られると、何かが起り、何かが揺れ動き、何かが創造され生み出されます。主が私たちに語られる時、そこには必ず主の臨在のダイナミックな深い余韻が残り、それが「 確かに主が語られた」という証しとなります。
詩編46:10で神はダビデに次にように言われました。
「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる。」
この言葉は非常に困難な状況の中にあったダビデに語られ、非常に深い神の臨在をダビデにもたらしました。詩編46は地震の描写で始まり、「静まれbe still」で終っていることは興味深いことです。地震の最中に「静まれ」と語ることが出来るのは神だけです。あなたの人生のすべてが足元から揺らぐ時も、神だけは「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」と語ることが出来るのです。
神を知る知識は、平安と静まることを通して得られます。神は私たちを兵士として霊的戦場に送り出したいのですが、まずその前に私たちが静まることを知らなければ、戦いの中でどうやって平安を見つけることができるでしょうか?
敵に対して持つ私たちの最高の武器は安息です。なぜならば、安息することによって私たちは神の中の秘密の場所に隠れることができるからです。敵は私たちの想像を越えた憎悪と敵意をもってあなたを憎んでいますが、馬鹿ではありませんから、至聖所(神の臨在の真ん中)にまであなたを追ってはきません。もしそこに踏み込んだら、あなたではなく神ご自身と対面せねばならないことを敵は知っているからです。私たちは敵が来ることのできない私たちの避けどころ、砦、高き所、隠れ家である神の内に隠れる方法を学ばねばなりません。敵があなたを見つけることが出来ないならば、あなたを傷つけることもできません。神はご自分の中にあなたのための秘密の場所を備えていてくださるのです。
あなたが神と共に歩きたいと思うならば、パニックに陥る能力を無くさねばなりません。心配する能力も、案ずる能力も失わねばなりません。私たち一人ひとりのために秘密の隠れ家があるのです。神は愛です。何が起ころうとも、あなたが神の内に住む場所を、神は愛をもって必ず確保しておいてくださっているのです。
神はその場所がどこにあるのかを人びとに教えるのが大好きです。それは、神の子供たちが秘密の場所に入れば、人生を100%エンジョイできるからです。
どんなことが襲ってきたとしても、彼らはそれに立ち向かうことができるのです。
静まることなしには、私たちの神の経験は限られたものとなります。静まることは、主のうちに安息するための先達であり、絶えず神の臨在を体験する人生へと私たちを導く霊的訓練です。安息すること、静まること、そして神の秘密の場所を知ることこそが、神との途切れることのない交わりをもたらすのであり、また聖書が「絶え間ない祈りunceasing prayer」と呼んでいるものをもたらすのです。(終り)