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12 9月

主の栄光を見上げつつ、主と同じ姿に変えられる 坂 達也 9月12日


主の栄光を見上げつつ主と同じ姿に変えられる


          坂  達 也       2014年9月12日


最近主から特に強く示されている御言葉があります。それは2コリント3:18です。但し、日本語訳の新改訳と新共同訳では一番重要なことが抜けている点を先ず指摘致します。それはどちらの訳も「鏡のように主の栄光を反映させながら」(新改訳)、あるいは「鏡のように主の栄光を映し出しながら」(新共同訳)と訳してはいますが、肝心な「見上げる、見る」
Beholding as in a mirror the glory of the Lord という言葉が抜けています。


そこで口語訳を見てみますと、「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」(二コリント3:18 口語訳)となっており、「見つつ」が適切に訳されています。
このみ言葉が今の最後の時代にいかに大切であるかということを今回は強調させていただきます。

なぜなら、ヨハネ17:22-24に「22またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。23 わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。・・・・・24 父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったもの(私たちクリスチャン)をわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが(いつも)見るようになるためです。」と書かれているからです。

上記から分かることは、第一に私たちは既に主の栄光を与えられていることです。すなわち、私たちは霊的には神の御子と同質であるのです。そして、主の栄光の力とは、ものすごい超能力の力であることを真に理解し確信し、納得する必要があります。それによって、私たちは今、その力を信仰で行使する時代に入ったのです。


次に、主が父に願ってそれが許されているように、私たちは今既に天の御座に主と共に座っているという事実をはっきり認識することが、今の私たちにとって最も重要なことの一つであるからです。主の栄光が与えられていなければ、私たちは主と共に父の右座に座ってなどおられません。私たちに主の栄光が与えられているということは、私たちはすること、なすことすべて主と同じになれると言うことであり、信仰でそうならなければならないのです。
言ってみれば、私たちには既に住まいとしてこの上ないすばらしいセカンドハウスを持っているのです。皆さんは、その天の別荘をいつも訪ねて主と共に過ごす時を楽しんでおられるでしょうか。私たちクリスチャンのそれぞれが「主の住まい」であるならば。主の天の住まいは私たちにとっての「住まい」であるはずです。

その天の住まいに行くことが、すなわち、私たちが「主を見上げ、見つめ、御顔を拝する」ことでなくて何でしょうか。それだけではありません。最近は霊の身体で天に行った人や、時々行ったり来たりしている人は意外に多いようですよ。

私たちが主の栄光を既にいただいているのなら、この世にない超自然のパワーを既にいただいていて、例えば、この三次元+時間の世界における「距離」は超越できるのです。ピリポが一瞬にして別の町に移されたように、私たちは天に瞬時に行ったり、あるいは地上で一瞬にしてある地点からある地点に移動できるのです。イエスが水の上を歩いて来て弟子たちの小船に乗り込んだら、あっという間に向こう岸の目的地に着いた―イエスが用いたその力が私たちにも使えます。

モーセはホレブの山で、水も飲まない40日断食を二回も続け、昼夜主を見上げて過ごしました。彼ほど主を見上げて時を過ごした人はいないと思います。そのモーセの顔は主の栄光が反射して輝いていました。まさに2コリント3:18に書いてある通りです。ですからこそ、モーセは内から変えられ(トランスフォームされ)何にでも耐えられるような、完全に自分に死んで主に100%仕える超人になったと思います。私たちもそうならねばなりません。そのためには主をもっともっと見上げればよいのです。

主に似た者になる

私たちの最終目標は「主に似た者になる」ことです。ところで、この主に似た者になるという言葉ほど曖昧で、誤解を招く言葉は他にないと思います。「似た者」とは「どれだけ似れば」よいのですか―恐らく宗教的な人たちは、私たち人間が全くキリストのような人になることはできない、そうなれると口にすることすら神への冒涜、不遜であると言うかもしれません。
しかし、上記の聖書に何と書いてありますか。「父と子、と私たちが一つとなる」ことが書かれています。一つとなると言うことは完全に同質、同じものが一体となることではないでしょうか。それには父と子は同質・完全一致であっても、私たちは多少でも、いやかなり「似てさえいればよい」のでしょうか。そうではないと思います。全く同じものにならなければならないと思いませんか。


そんなこと不可能だと思わないで下さい。確かに人間の力では不可能でしょう。しかし全知全能の神に不可能はありません。聖霊が私たちをそのように変えて下さると言うのですから、それに逆らわずに素直に信仰で信じれば、そうなれると主が言われるのです。
この2コリント3:18で「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」と書かれている部分は英語で to the same image of
the Lord で imageのギリシャ語はstrong #1504 eikonです。この場合、特にキリストと「同じイメージ」と言うのは
「似ている」というより 「全く同一」という意味のようです。

さて最後にもう一つ次の聖句をご覧下さい。
1ヨハネ4:15 「だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。16私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。17このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日(これから来る終末の時代)にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。

最後の下線部分の英語は because as he is, so are we in this life.です。ここでも私たちがキリストの在り姿と私たち一人ひとりの在るべき姿が全く同じであることを主は期待しておられることが分かります。しかもそれが「この世にあって」の話であることにご留意下さい。

以上のことから明らかなことは、私たちが主を心から愛をもって見上げる時、あるいは、御顔を拝することによって、私たちの内的な資質が主と同じ資質に変えられるということです。そうであれば、後は私たちがどれ程真剣に、熱烈なパッションを持って主を見上げ、追い求めるかに掛かっています。
ついては、主が一つだけ嫌われることがあります。それは、なまぬるい者、なまけ者は、主が口から吐き出したくなる程嫌われることです。

私たちは心から「・・・恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。」とパウロが言うように、主を益々愛し、賛美しつつ、毎日出来るだけ多くの時間を「主を見上げて、見つめる」ことに費やそうではありませんか。(終り)


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