主のご臨在と共に生きる 坂 達 也 2014年8月12日
主のご臨在と共に生きる
坂 達 也
私は今、この二、三年程休んでいた「創造者の神とイスラエル」(仮名)と言う本の原稿を仕上げることに集中しております。祈っては、主から示されたことを書いて行くのですが、ある時、突然主が「おられないこと」に気が付いて慌ててしまいました。そして何か必死で主の臨在を「感じさせていただく」ことをお願いしたのです。
私にとって、ものを書いている時ほど主の臨在と油注ぎを必要とする時はありません。と言いますのは、私は元々書くのがとても遅く、特に最近は年のせいか、益々書けなくなっているからです。そして願わくば、私の書くことのすべてを、その一語一句まで主の「ことば」をいただいて、その通りに書かせていただくことが私の切なる願いです。
憐れみ深い主は、私の願いに答えて毎日私に必要なことを示して下さいます。それには確信があり心から感謝しております。
しかし、私の信仰の至らなさから、いただいたものを書いているつもりでも、それを書いているうちに、つい自分で勝手に書いているのではないかと言う不安が出てきます。そんな時、主が傍にいて下さるという、出来れば圧倒的な「臨在感」が欲しいのです。しかしそれがない時は、まるで母親を見失った小さな子供のように一瞬不安な気持ちになってしまいます。
勿論、そう思うのは私の間違いです。主は、私が自分の感情で主の臨在を感じようが感じまいが、必ず私と共にいて下さることは確かな事実ですし、それは私も充分に心得ている積もりです。又、不安を持つことも信仰で生きることの一部であることも承知しています。
さて、そんな時に思い出したのがモーセの言葉です。モーセの生き方は私にとって座右の銘、いつも感銘し、励まされております。出エジプト記33章で、モーセは主のご臨在がどうしても必要であることを主に嘆願しました。
モーセはその時、主から「あなたは上って行きなさい。しかし、わたしはあなたたちと共には行かない。」と言われたのです。その理由は、大変な罪を犯した民に対する怒りからでした。そこでモーセは神にとりなすために「臨在の幕屋」に一人で入りました。
モーセは主に「もし、あなた御自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください。・・・ 一体何によって、わたしとあなたの民に御好意を示してくださることが分かるでしょうか。あなたがわたしたちと共に行ってくださることによってではありませんか。・・・」これを聞いた主はモーセの要請を受け入れて「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう・・・わたしは、あなたのこの願いもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである。」と答えられました。
主とモーセの関係は本当にすばらしいですね。「 主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。」と書かれています。本当にモーセほど主がご好意を示し、主の信任を得ている人はいませんね。神とモーセは「・・・口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、主の姿を仰ぎ見ている。・・・」とも言われます。
ここで主ご自身が「彼はまた、主の姿を仰ぎ見ている」とモーセを称えているところが一層すばらしいですね。私はモーセほど主の栄光を仰ぎ見ている人はいないと思います。しかしそのモーセが、主から「あなたと共に行く」と約束されたにもかかわらず、それだけでは満足せず、重ねて「どうか、あなたの栄光をお示しください」と主にお願いしています。
すると、主はこの申し出も受け入れて下さいました。そして、主は仰せられました。「わたし自身、わたしのあらゆる善 (goodness) をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」(出エジプト33:19)これは実に深いことばです。
ここで主がモーセに見せたかった「主の栄光」とは「神のすべての愛、めぐみ、あわれみ」であったのです。それは外見上のまばゆく光輝く「栄光」以上に、主の内面のすべてを表す「愛・あわれみ」と言う霊的な栄光でありました。
それと、モーセが主の栄光を見せて欲しいと言ったのは、主の言われた「ことばでの約束」を少しでも疑ったからではありません。その御ことばを聞いたモーセは本当にうれしかったと思います。しかし、彼はもっともっと主のことばを聞きたかった、もっともっと主の栄光を見たかったのではないでしょうか。すばらしい主の臨在―その中で主の御ことばを聞けば聞くほど、もっと聞きたくなりませんか。そして主の栄光の姿を誰よりも見ているモーセこそ、もっともっと主の栄光を拝したかったのであると思います。
モーセが心から主の臨在を願ったのは、主がいつも傍にいて下さるのでなければ、彼は神から与えられた仕事を忠実に遂行することは不可能であることを強く感じていたからであると思います。
私はクリスチャンとしてモーセに与えられた仕事ほど辛い仕事はなかったと思います。人間が神から受けた命令の中で最も厳しい、最も報われない、耐えることが不可能なほど辛い仕事でした。彼は神の民イスラエルを引率してエジプトを出て、彼らを約束の地まで届けるのが仕事でした。彼は自分を全く無にして超人的に主に仕えました。朝から晩まで立ち続けて民の言うことを聞き、民を指導しました。そして民が主にそむくような事があるたびに全身全霊で主にとりなしたのです。その民は結局40年間荒野をさまようことになりましたが、最初から最後まで神にそむき逆らい通しでした。(申命記9:7、24)そんな民の第一世代が荒野で死に絶えるのを見届けるのが彼の仕事であったのです。
しかも彼はその仕事が報われない仕事であることを知っていたのです。彼は、主が大半のイスラエルの民を救われないようにするために、神が初めから民に「悟る心」と霊的に「見る目」と「聞く耳」を与えずに「かたくな」にするご計画を持っておられることを知っていたのです。(申命記29:3、ロマ11:8))それはパウロが言うように、救いが異邦人に先に及ぶために、自分の民を救われないようにしたからです。(ロマ書11:11)
こんなやりきれない辛い仕事が他にあるでしょうか。彼はそのような仕事に40年間耐え続けました。それでも彼は不忠実で不平ばかり言う民を愛し、その民のためなら自分の名を「いのちの書」から消し去ってもらってもよいとまで、主に嘆願しました。(申命記32:32)私はそのようなモーセの犠牲的な愛に本当に頭が下がります。
ここまで主に仕えたモーセにとって唯一の慰めとよりどころは主ご自身のご臨在であったと思うのです。主がいつも傍におられることを感じ、主のお話を聞き、必要な時に主の栄光のお姿を見ないではやっていけなかったと思います。
しかし、このようなモーセでも最後に一つだけ主に逆らう罪を犯す時が来ました。それは水源地区のカデシュに着いた時、そこにはいつものようには水がなかったので、民はモーセとアロンに逆って彼らをののしりました。モーセは烈火のように怒りましたが、二人は会見の天幕の入り口で主の前にひれ伏しました。主は「杖を取れ。会衆を集めて、彼らの前で岩に命じれば岩は水を出す。」と言われました。しかし、モーセは長い間の民に対する堪忍袋の緒が遂に切れたのか、岩に向かって話すかわりに、民に向かって「反逆者たちよ」と叫び、主から言われて持ち出した杖(多くの奇跡を起こさせた権威のある杖です)を振り上げ、性急に怒りをもって岩を二度打ってしまったのです。水は出ましたが、彼は初めて主の命令に背いたのです。
前にも同じことが起きましたが、その時は主に言われた通りに岩を杖で一度打って水が出ました。神はモーセのこの一つの罪のために、彼とアロンが約束の地を目の前にしながら、神は彼らを入れなかったのです。
この話から学べることは、モーセがつい腹を立てて、そんなつもりはなかったと思いますが、主に代わって(主の言うこと、やり方に従わないで)自分の権威(杖)で岩を打ったことです。神は確かに杖を取れといいましたが、岩にはことばで命令しなさいと言われたのです。私たちは、特に教職者、あるいはミニストリーのリーダーとして立つ者は自分のポジションとか権威で命令しがちですが、神のパワーはあくまでその時その時に主が語る「ことば」にあることを、いかなる場合でも忘れてはならないと言うことではないでしょうか。これは霊的に高いレベルに達した人たちへの教訓であると思いますが、私たちは高い権威の立場に着けば着くほど、よほど注意してへりくだらなければならないと思います。
私たちがモーセのように、いかに主を慕い求める者であっても、いや、そうであればある程、主はこれからもっと多くの艱難の中をくぐらせ、一見報いは少ないような、あるいは、やりたくないような「辛い仕事」を与えられる可能性は充分にあると思います。それは私たちを訓練される愛の主であるからです。そのような時には、主の臨在と脂注ぎだけが私たちを励まし、その時に必要なスーパーナチュラルなめぐみの力を与えて下さると信じます。そしてどんな状況下でも、自分の感情に左右されることなく、忠実に主の御言葉にだけ仕えることの大切さを私たちは学ばなければならないと思います。(終わり)