新しいギター ダン・ポッター 2014年7月21日
新しいギター
ダン・ポッター(2014年5月9日モーニングスター カンファレンス)
これは私の新しいギターですが、これが私の手に入ったいきさつをお話します。私はある集会で急に話をするように頼まれました。 ビジネスマンの集会のメインスピーカーが急に来られなくなったので、私に話をしてくれと友人に頼まれたのです。「私は世界一駄目なビジネスマンだから、、、」と断ったのですが、友人は「それなら、ビジネスで失敗する方法を話してくれたらいい」というのです。確かに人生では失敗の仕方を知るのも大切ですし、私たち夫婦は何回も経済的危機に直面して来ましたが、こうやって今ちゃんと生活していますから、ある意味ではうまくやってきたわけでしょう。そこで私は引き受けることにしました。
その集会では女性のワーシップリーダーが借り物のあまり良くないギターでワーシップを導いたのですが、すばらしい主の臨在がありました。ワーシップの時間が終って私の出番になりましたが、私は話に入る前にそのギターをちょっと借りて演奏しました。私の話はまあまあ良かったようで、人々は感動したと言ってくれました。その時、若い夫婦が私のところに来て、「神様があなたにギターを買うように言われたと私たちは思います。」と言うのです。私は「これは私のギターではありません。間違わないでください。私は家にすばらしいギターを持っているのです。新しいギターを必要とはしていません。」と答えました。
けれでも、彼らは「神様はあなたに新しいギターを買うように言われたと確信しています。」と言い張ります。私は「私の家にあるギターは私に合うように特注した特別のすばらしいギターなのです。40年前から使っています。」と言いました。
私の考えでは、新しいギターは本当に全く必要ではなかったのです。そこで私はこの話はもう止めにしようと思い「私はちょっと頼まれて話にきただけの者ですから..」と言ってその場を去ろうとしたのですが、彼らは「私も妻も神からはっきり聞いたのです。あなたに新しいギターを買うようにと。」と言い続けるのです。私は心のなかで、「3万円くらいのギターなど、いらないよ。」と思っていました。私は「どんなギターのことを言っておられるのですか?」と聞くと、彼らは「マクファーソンのものを考えています。」と言うのです。私の頭は「マクファーソン、、、えっ、聞いたことがあるぞ、、、何だっけ、、、、」とぐるぐると回り始めました。
これはビル・ジョンソン師から聞いたことですが、マクファーソンは弓矢の弓を作る人です。彼はある日、神に「新しい弓のデザインを与えてください。」と祈りました。神は天から新しい弓のブループリンドを送ってくれました。それは今私たちが「コンパウンド・ボウ」と呼んでいるものでした。彼はそれを見て大喜びでその弓を作ったのです。それは狩りをするハンターの中では世界で一番有名な弓だと思います。彼は神の御前に再び出て、「神様、この弓のデザインを本当にありがとうございました。このデザインはとても成功しました。本当にうれしいです。」と申し上げました。すると神は「いや、感謝したいのはわたしです。わたしによく聞いてくれました。ありがとう。」と言われました。神に聞かないために私たちは多くの発明をのがしているのではないでしょうか。
彼はマシュー・マクファーソン(Mathew MacPherson)という名前なので、弓はマシューズ・ボウと呼ばれます。彼はギターも作っていて、それも又神から与えられたデザインだったのです。私はインターネットで彼のギターについて調べてみました。そしてそれが非常に高価であることがわかったので、私は例の人に連絡して、「あなたの言うギターがどれほど高価であるか、ご存知ですか?」と尋ねました。彼は「はい。知っています。私は2つ持っています。どうかあなたのために一つオーダーしてください。」と答えてきました。「会社に電話をして、あなたが望むサイズ、材質など、すべてあなたが望む通りのものをどうぞ注文してください。」というのです。「あなたが望むその通りのものを」と。
皆さん、私たちが望むものは月日が経つにしたがって変化していくことをご存知でしょうか。40年前に私にぴったりだったものも、今は合わないかもしれないのです。私の家にあるギターは本当にすばらしいものかもしれませんが、それは40年前に私のために作られたものです。私と同じで「年寄り」で、ちょっと疲れてきていました。だから私はそのギターに対して「そこで休んでいていいよ。一緒に沢山レコ—ドを作ったね。古い友達だね。」という感じで、あまり気にせずにそのまま過ごしていたのです。
私はマックファーソンのギターを注文しました。いろいろと難しい注文をつけましたが、すべて「大丈夫です、できます。」と引き受けてくれました。使用する材木も「はい、ありますよ。」という返事がすぐに返ってきました。
このギターは注文してから出来上がるまでに6ヶ月かかります。最初の3ヶ月はちょっと待ち遠しく感じましたが、その後はほとんどギターのことは忘れていました。するとある日、それが届きました。 説明によると、ギターが完成しますと、それに弦を張って一ヶ月そのまま壁に掛けておくのだそうです。そしてそれをじっと一ヶ月間観察するそうです。すべての細部が変形などせずに注文通りのままとどまるかどうかを見るのです。そしてもしも少しでも注文よりずれたならば、最初から作り直すそうです。興味がありますね。私は彼らの誠実さ、製品に対しての責任感に大変感動しました。
私は届いたギターを弾き始めました。「うーん、私にぴったりだ、すごい、音もすごくいい、どうしてこんなにいいんだろう。」という感じがしました。他のギターでは弾ききれなかったことが出来るのです。気がつくと私は歯を食いしばるのを止めていました。最近私が買ったいくつかのギターを弾くときは、私はどうしても歯ぎしりをしてしまっていたのです。それで私は歯を3本割ってしまいました。そして奥歯も抜かねばなりませんでした。過去17年間、自分に合わないギターを弾くために歯を食いしばっていたからです。
私はそれらのギターに自分を合わせるのにあまりにも忙しかったのです。自分に合ったものを作ってもらえるとは思いも付かなかったのです。主はそれから私を取り扱われたので、私はいろいろなことに気が付き始めました。私はずっと自分を回りの状況に合わせて順応する、その場所に合わせて適応する、ということばかりして来たのです。それはその場所で自分は価値があるということを示したかった、感じたかったからです。しかし神は「今はあなたが人生に適応するのではなく、あなたに合った、あなたにぴったりフィットした人生を、あなたのためにわたしが与えます。」と言われました。
神があなたにそのように言われたときに「わたしは結構です。そんなことはしないでください。私には必要ないと思います。」と言う人が皆さんの中にいるでしょうか?
あなたには何が必要なのでしょうか? 私はギターを弾くときには、聖霊を聞きたいのです。私の手のために作られていないギターを弾くと、(ネックの長さ、フレットの間の長さ等、すべての細部がとても重要です)それを長く弾けば弾くほど自分に合っていないことがわかります。あまりうまく出来ていないギターは精密、正確に作られていないので、自分の手の位置をいつも目で見てチェックしながら弾かねばならなくなります。その度に私は聖霊の臨在の中から後退してしまいます。 自分がどこにいるのか見失ってしまうのです。
私たちは「自分にはこれが必要なのだ」と自分が思い込んだものにフィットし適合しようと一生懸命努力しながら生活しているのです。つまりあなたは聖霊からいつも自分を遠のかせているのです。あなたはその人生に適合しようとしていましたが、それはあなたにフィットする人生ではなかったのです。私は自分のミニストリーに自分をフィットさせよう、適合させようと努力し続けていました。
私は新しいギターを弾き始めて、だんだんハッピーになりました。いろいろな弾き方が楽にできました。私は主に「どうしてこのギターだととても楽に弾けるのですか?」と訊きました。主は「それがあなたにフィットしているからだよ。」と言われました。
この中で何かとずっと戦って来られた人がいますか?あまりにも長く戦って来たので、自分が戦っていることさえわからなくなっていることがあるでしょうか。あなたは奥歯をぎゅっと噛み締め,歯ぎしりをしながら歯(人間関係)を壊して来たのです。それはあなたが自分を何かに一生懸命に合わせようとしてあまりにも忙しかったからです。
私はミュージシャンですから、いつもフィットすることに気を付けてきました。自分の嫌いな曲を弾くのは本当に嫌なものです。自分の内にある何かが、それをどうしても弾かせようとしません。ある時主が、「あなたは罪という言葉の意味を知っていますか」と訊かれました。そこで私は改めて調べてみました。多分皆さんもよくご存知だと思いますが、まず「的を外す」という意味が出てきました。でもその次に「to feel you do not have a share 自分には分け前、取り分がないと感じること」というのがありました。罪の定義としては少し変わっていると思いませんか。
まず私たちは「この中に私はフィットしてうまく適合していこう」と考え、次に「私は自分を変えて努力して適合したのだから、分け前をもらうべきだ。私はここの一員で、ここに属していると感じたい」と考えるのではないでしょうか? もしそうでないと、自分はここにフィットしていない、私の居場所はない、私の受けるべき取り分はない、と感じてしまうのです。
この新しいギターをもらったことは感謝を通りこしていました。自分の足にぴったりフィットした履き心地のよい靴のようなものです。私はギターの送り主にメールをしました。「本当にすばらしギターです。なんとお礼を言っていいかわかりません。ありがとうございました。あなたは神から私にギターを贈れと本当にお聞きになったのですねえ。」と。
では神は何故私が必要とは思っていなかったギターを、どうしても私に持たせたいと思われたのでしょうか。このギターは後ろと横はローズウッドで、表はシトカ・スプルースという非常に希有で高価な木で出来ています。このように木目の細かいものは滅多にないです。その表面はすこし丸くカーブになっていますが、そうするためにはとても高度の技術が必要です。ネックは本体に直接は触れていないので、本体は完全に響くようになっています。その他目に見えない部分も完璧にできています。内側もキチンと仕上げられています。それは見えない部分なのですが、外側と同じように美しいのです。あなたは自分の内側を外側と同じように美しくしますか? それはイエス様が考えておられることですね。地上の人は決して見ることがない隠された場所を美しくすることです。ネックの幅、すべてのフレットの位置は完璧です。神様はどうしてこのようなギターを私に下さったのでしょうか?
私はクリスチャンや、教会の中で起きてしまっていることがあるように思うのです。神は私たちに完璧にフィットする何かを私たちに与えようとしておられるのです。でも私たちは「謙虚であるのに忙しくて」それに気がつかなかったのです。教会の中で誰かが教えてくれた「クリスチャンのあるべき型」、「キリスト教のあるべき型」にはまることに忙しかったのです。「ここがあなたがフィットする場所ですよ。あなたはこのようにフィットすればいいのですよ。」という具合に教えられたのです。でももし、私たちが教会にフィットするのではなく、教会が私たちにフィットするように意図されていたとしたらどうでしょうか。そんなことが可能でしょうか? 安息日は私たちのために造られたのはないでしょうか? 主よ、教会は私たちにために造られたのですか? 私たちのために、私たちに合うように、フィットするように神は造られたのではないでしょうか?
このギターはすべての音が正確です、ギターを弾くのが又楽しくて仕方がなくなり、何時間でも弾いていられ、少しも疲れないのです。 「あなたにフィットしている時はそうなのですよ。」と主は言われました。
私たちは日曜日に教会に来て、持っている愛を2時間の間に使い果たすのです。そして空っぽになって「もう家に帰ります。もう愛がなくなりました。もう愛せません。」と言って帰るのです。私たちは自分で何かを作りだそうと一生懸命するのです。私たちは礼拝の場所に来て、祝福されるよりも苦しみに来ているのではないでしょうか。事が巧く行かない方が落ち着くみたいなところがあります。あるギターを弾き始めて18分後にその難点を見つけて、「オッケー、ここはちょっと調節して弾かなくちゃ、、」と首を曲げたり腕を曲げたりしながら弾くのです。私の背中は痛くなり、歯は割れて身体がぼろぼろになります。それは私が自分に合わないものにフィットしよう、適合しようとするからです。
でも神は「わたしがあなたの回りに、あなたの手のサイズに合ったものを、あなたに合ったものを、『キリストの愛』と呼ばれるものを形造ろうとしているのだよ。」と言われます。あなたはその中で歩み、生き、一日中その中で楽しむのです。あなたはそんなにも完璧にフィットするものから離れたくないからです。
今私はこの新しいギターでいろんな弾き方を試しています。知らない間に止めてしまっていた弾き方が沢山あったのです。それによって今までなかったこと、今まで届いたことのない境地に私は到達することができるのです。自分にフィットしているものに対する確信があるからです。フィットしないものでは考えも及ばなかったところまであなたは行けるのです。これが「自由」の真の意味です。
クリスチャンは今まで何世紀も、この世の人々がある日目覚めて教会に来るのを待っているのですが、主は「そうではないよ。あなたがフィットする場所に彼らもフィットするようにわたしは彼らを造ったのです。わたしは教会をすべての人にフィットするように造ったのです。」と言われます。私たちはそのような教会をつくることができます。その時この世の人々もそこに来始めるのです。そこが彼らにもフィットするように造られた安全な場所であることを彼らも知るからです。
祈りましょう。「父よ、私たちは今までどうにかして自分を適応させてフィットしようとして来ました。そしてあたかも適応したかのように見せかけていました。しかし、私たちは教会を、又すべてのものを私たちにフィットさせるのです。私たちが合わせるのではなく、それを私たちに合わせるのです。今まで自分が適応しようとして数えきれないほどの無益な試みをしてきたことを赦してください。私たちの救い主を被っていた衣、 縫い目がなく、裂かれることもなく一つに保たれた衣のように私たちも一つにされるのです。それはあなたが私たちをそのようにされたからなのです。あなたは今教会を私たちにフィットしたものとしてくださいます。私たちはまさに『この時のために』生かされているのです。ここから退きません。どうか私たちの祈りを聞き、今までの無益な努力をお赦しくださいますように。イエスの御名において祈ります。アーメン」(終わり)