16 7月
ダビデの幕屋
リック・ジョイナー(2014年6月29日礼拝説教より抜粋)
聖書の中には主が住まわれる場所として基本的に7つがあげられています。それらは主の宮となるように召されている教会のあるべき姿でもあります。主の住まわれる場所になることこそが教会の目的です。生ける石によって建てられた宮になるのです。神は人々を用いて建て上げられるのであって、規則とか、組織とかの上に建てられるのではありません。最高の組織であってもその中に悪い人がいれば、悪い組織になってしまいますし、最悪の組織であっても偉大な人々がその中にいれば、偉大な組織になるのです。主は人々を用いて建て上げられるのです。システムとか法則とか哲学とかではありません。確かに神はこれらのものを使われますが、建て上げるのには人を用いられます。
主が住まわれる場所の中で一つだけ、主が「建て直す、回復される」と言われたものがあります。それは「ダビデの幕屋」です。使徒行伝15:16に「この後、わたしは帰ってきて」とありますが、それは即ち主が再び帰って来られるときのことです。そして「倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。大昔からこれらのことを知らせておられる主が、こう言われる。」と書かれています。すべての人々が主を求めるようになるために、主はダビデの幕屋を建て直すと言われるのです。
もし一番重要で主が建て直されるという御住まいについて理解するならば、そしてそれが主が来られる時というタイミングであることを理解するならば、私たちはダビデの幕屋について是非とも知る必要があります。ダビデの幕屋を理解するためには、ダビデについて理解せねばなりません。イエスもダビデの王座につかれたのです。ダビデについて多くのことを私たちは理解せねばなりません。それが今の時を理解することにもなります。
今という時を理解するためには、私たちはサタンがしていることの10倍以上主がしていることに注意を払わねばなりません。終末に関する資料、本、記事などは、サタンがしていること、しようとしていることに焦点が当てられていますが、それは間違いです。主はサタンよりもっと多くのことをしておられます。黙示録を見ても、最初の言葉は「イエス・キリストの黙示(啓示)」とあり、反キリストの啓示ではないのです。サタンのしていることはレーダースクリーンの本当に小さな点にすぎません。勿論私たちはサタンの策略に無知であってはなりません。私たちはそれらを知り、悟らねばなりません。それらは起こることです。しかしそれよりずっと重要なことは、神が何をしておられるかということ、そして私たちもその働きに入れられているということです。
神はその御住まいであるダビデの幕屋を建て直そうとしておられます。そこでダビデは神とお会いすることができました。仕切りの幕はありませんでした。神と人々とを隔てるものは何もなかったのです。誰でも主の前に出ることができました。あなたが祈るとき、あなたは文字通り万能の神の御座の部屋に入っていくのだということをご存知でしょうか。そこは私たちの理解を越えた栄光あるすばらしい場所です。もし私たちがそれを霊の目ではっきり見始めたらどうでしょうか。パウロが「あなたがたの目がはっきり見えるようになって...あなたがたが知ることができますように」とエペソ1:18、19で言っているのはこのことです。旧約の預言者たちは霊の目で大いなる主の栄光を見ました。天使の軍勢を見ました。私たちも今、そのような啓示へと向かっているのです。霊のリアリティーの中に入るのです。
あなたの人生でたったの一瞬でも全能なる主を喜ばせることができるのなら、その人生は価値あるものです。主の民が祈るとき、主は喜ばれます。今日、あなたは全能なる神に喜びをもたらすことができるのです。私たちが目には見えなくても信仰で御座の部屋に入っていくときに、主は更に喜ばれます。ですからこのようなすばらしい機会を無駄にしないでください。
ユダヤ人は常に知識と悟りを得ようとしてきました。ユダヤ教のラビの資格を得るためには、ものすごい訓練を通らねばなりません。トラーを全部暗記せねばなりません。イエスの時代のパリサイ人たちも聖書を全部暗記していました。もし空で暗唱できなければ、その箇所を知らないのだ、と人々はみなします。そしてユダヤ人が特に学んだのがモーセとダビデの二人についてでした。「ダビデはゴリアテを倒した」以上のことがダビデにはあります。ダビデの幕屋について知りたいならば、もっとダビデについて知るべきことがあります。
ゼカリヤ12:8、9には「その日、主は、エルサレムの住民をかばわれる。その日、彼らのうちのよろめき倒れた者(the one who is feeble)もダビデのようになり、ダビデの家は神のようになり、彼らの先頭に立つ主の使いのようになる。」とあります。今、主の家でもっとも弱い者たちがダビデのようになる時を私たちは迎えようとしています。ダビデは聖書の中で恐らく一番の勇者だったでしょう。彼はまた一番のワーシッパー(礼拝者)でした。私たちはこの両者が一つになるのを見ると思います。勿論、私たちの戦いは人々を征服するのではなく、人々を解放する戦いです。殺すことではなく、癒すことです。ものすごいワーシッパーと勇者が出てくるのです。
ヘブル12:13には「また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。足なえの人も関節をはずすことのないため、いやむしろ、いやされるためです。」とあります。レオナルド・ラビンヒル牧師を私がよく訪ねたときのことを思い出します。彼はその時代の多く信仰者のメンターでした。デイビット・ウイルカーソンも彼に薫陶を受けましたし、キース・グリーンなどもそうでした。彼の家に行くと、多種多様な人たちが集まっていましたが、彼は訪れる人のズポンをたくし上げてその人の膝を調べるのです。それは多くの時間を祈りに割いているかどうかをチェックしたわけです。
私は今膝を痛めています。野球の捕手をしていた時に痛めたことと、モーターサイクルの事故でもっと酷くなりました。でも主はそれを
完全に癒してくださいました。ちょっとした階段も上れなくなって手術をしなければならないと思ったとき、主は瞬時に癒してくださったのです。それから5年経ちましたが、もう一度主に触れていただかねばなりません。でも私はこの膝よりも、霊的な膝が欲しいのです。私たちが主に膝をかがめるのは、主の前に遜るだけではなく、祈るということです。聖書の中でダビデに関してもっとも多く書かれていることは、「ダビデは主に伺った」ということです。
サウロは人々が散り始めたときに自分で生け贄を捧げてしまいました。彼は回りからのプレッシャーに負けてしまいました。彼はレビ人ではありませんでしたから、生け贄を捧げる資格はなかったのです。それが原因で彼は王国を失うことになりました。彼はその後も長く王座に即いてはいましたが、神の御国での役割はその時終ったのです。彼は神よりも人々や回りの状況を恐れたのです。
ダビデはその反対でした。彼は極限の状況の中に置かれました。あまり人が経験しないほどのものすごいプレッシャーを受けました。自分の家族、子供たちが連れ去られ、自分の忠実な部下たちの家族も連れ去られ、怒った部下たちが石を投げて彼を殺そうとしました。大変な時でした。しかしダビデはその時、馬に飛び乗って「敵の後を追いかけて家族をとりもどそう!」とは言いませんでした。そのようなプレッシャーの中でも「ダビデは彼の神、主によって奮い立った He strengthened himself in the Lord his God(第一サムエル30:6)」のです。そして8節にあるようにダビデは主に伺いました。これがダビデとサウロの重要な違いの一つだと私は思います。
主が今私たちを導こうとしておられる祈りのレベルは、ものすごいレベルです。私たちが本当にそれを理解し始めるならば、私たちは神の御座の部屋の中にいるのです。そしてあなた自身がどこにいるのか分からなくても、御座の部屋にいるものたちはあなたを見ることができます。そこに私たちはしもべとして入るのではなく、王の息子、娘として入るのです。王の家族として入るのです。大胆に入っていくように私たちは教えられています。神の恵みの御座の前に大胆に行くようにと言われています。私たちはそのような者となり、そのときかつてなかったほどの影響力を持つ者になると私は信じます。
ヘブル10:35に「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。」とあるように、確信は私たちに報いを与えてくれます。確信と傲慢の違いを知る必要があります。多くの人は高慢、傲慢になるのを恐れて確信を持たないことがあります。神は遜るものに恵みを与えてくださいますが、聖書の中で最も偉大な恵みを受けたのは
ダビデだと思います。しかしダビデは高慢だと思われていました。彼の兄弟たちさえ彼がうぬぼれていると言いました。しかし、ダビデはそのような批判に怯まず、確信を持って巨人を倒しました。人々はゴリアテを「大きな巨人」として見ましたが、ダビデは彼を「大きな標的」と見て、絶対に当たる、と考えたのです。彼は王のよろいをつけましたが、自分の身体に合わないといって脱ぎ捨てました。私たちはダビデのように高慢にならずに確信を持つ事を学ばねばならないと思います。
どのような分野においても確信、自信は重要です。スポーツチームのことを考えて見てください。確かに高慢になったときにそのチームは倒れてしまいます。しかし確信をもたずに勝つことは絶対できません。リーダーを信頼して確信を持ち、作戦に確信を持ち、チームメイトに確信を持つ必要があります。確信には様々なレベルがあり、私たちはそれを理解する必要があります。何よりも主に信頼し確信を持つことが大切です。ダビデは自分の王がどのようなお方であるかを知っていました。クリスチャンはこの世の誰よりも確信をもって人生を送るべきだと思います。恐れをもって人生を歩んではいけません。信仰をもって生きるのです。
私たちは「圧倒的な勝利者 more than conquers」となるべきです。この世の偉大な勝利者たちを思い出してください。私たちはそれらの者を越えた勝利者であると言われています。今人生で起こっていることは、すべて私たちが勝利するための機会、チャンスであると考えるべきです。征服する機会なのです。すべての試煉、すべてのテスト、今直面しているすべての問題を見て、勇士たちは勇み立ち興奮するのです。私たちは勝利を得たいと思いますが、戦わずに勝利を得ることはできません。大きな勝利を得たいならば、大きな戦いをせねばなりません。真の勇者たちは戦いのラッパが聞こえたときに逃げるのではなく、ラッパの音に向かっていくのです。「もう一つ試煉がきたぞ。問題が起きたぞ。」と言ってわくわくするのです。使徒行伝14:22でパウロは「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない。」と言っています。即ち、すべての苦難、すべての試煉は私たちが天国へ入る門だということです。ヤコブが「私の兄弟たち。さまざまな試煉に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」と言っているのはこのことです。これからそのような勇者たちが起こされてくると思います。彼らは凱旋、勝利を見ます。そして圧倒的な勝利者になるのです。
第二コリント2:14に「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。」とあります。私たちは「いつでも」勝利に導かれるのです。ローマ8:37には「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことにあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」と書かれています。勝利を確信して歩む人々が起こされてきます。敗北などはありません。
詩編18:28、29でダビデは「あなたは私のともしびをともされ、主、私の神は、私のやみを照らされます。あなたによって私は軍勢に襲いかかり、私の神によって私は城壁を飛び越えます。」と言っています。第二テモテ1:7には「神が私たちの与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みの霊です。」と書かれています。正義は獅子のように勇敢です。私たちは獅子の子ですから、私たちも獅子なのです。
モーニングスター教会は7月は安息の月で、すべての礼拝、集会は休みになります。家族の礼拝や、個人的に主と交わる時を持つためです。
祈ります。「主よ、どうか皆があなたに近づくための時間を持つ事ができますように。どうか天との邂逅がありますように。どうか夢を、幻をお与えください。天使の訪れをお願いいたします。どうか私たちを引き上げてくださり、あなたの御座を見せてください。あなたを仰ぎ見てあなたの栄光を見ることができますように。どうかあなたの民から臆病さを取り去ってください。自分にばかり目を向けていることから抜け出して、御座におられる方に目を向けることができますように。上にあるものに私たちの目を注ぐことができますように。何よりもあなたに目を注ぐことができますように。あなたがどのようなお方であり、どこに座しておられる方かを知ることができますように。どうかあなたの栄光を見せてください。ただの教義を知識として知るだけではなく、この真理の中を生きて歩むことができますように。そして私たちが召された者へと変えられていきますように。どうか自分の失敗からくる恥を取り除いてください。私たちは皆失敗し、間違いを犯しました。どうかすべての恥をあなたの十字架の力によって取り除いてください。あなたの十字架がその代価を払うのに充分であることを悟らせてください。あなたの贖いの生け贄により代価は支払われたので、私たちの罪がどれほど深く悪いものであっても、大胆にあなたの御座の前に進み、恵みを頂くことができることを信じます。自分ではできません。あなたの恵みが必要です。私たちがあなたの恵みを頂いていることを心から感謝いたします。圧倒的な勝利者となるための恵みを頂いたことを感謝いたします。自分を見て何とかしようとすることを止めて、自分の足りなさではなく、あなたの勝利を見てあなたの安息に入ることができますように。あなたの義が私たちの義であることを、あなたが成し遂げられたことは充分であることを、自分の失敗ではなくあなたの勝利を見て栄光から栄光へと変えられていきますように。死んだ自分を墓から掘り返して生き返らせようとするのではなく、それは埋めたままにして前進して行くことができますように。私たちには新しい命があり、新しく造られた者であり、私たちの命はキリストとともに神のうちに隠されているのです。私たちはあなたの中に隠されているのですから、新しい創造としてのいのちを生き始めさせてください。もはや古い創造の足かせにつながれることがありませんように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン(終)