08 7月
信仰の歩みの中で起こる疑い
キャシー•ペルトン
「もしかして〜だったら」
この「もしかして私の思っていたことが〜間違いだったとしたら?」というような否定的な疑いの思いが浮かんでくることがありますが、それをたとえてみれば、肥沃な信仰の土壌に埋められた恐ろしい地雷のようなものと言えそうです。それは信仰深いクリスチャンがまさに眠りにつこうとしている時とか、或いは何か新しいことを信仰で始めようとする時に、サタンが最も好んで投げつける疑いの言葉の一つです。あなたが主の麗しさや慈しみを享受しつつ、希望と平安を感じ始めたまさにその時、この「もしかして...」という言葉は、あたかもあなたの動脈に突然、氷水が注入されたかのように、あなたをゾクッと身震いさせたことがないでしょうか。
「もしかして私が聞いたと思ったのは神の御声ではなかったとすれば、、、」
「もしかしてうまくいかないで失敗してしまったら、、、」
「もしかして私が見たと思ったヴィジョンは、神からのものでなく、ただの想像だったとすれば、、、」
「もしかして神が言ったと信じたことが実は神が言わなかったとすれば、、、」
氷水!
ちょっと待ってください。これは聞いたことがあるような言葉ですね!聖書の中に最初に出てくる蛇の話はこうです。
「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。『あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、本当に言われたのですか。』」(創世記3:1)
これが私たちにとって、最初の「もしかして、、、」であったのです。
私は最近そのような経験をしました。一晩中「もしかして...?」という否定的な思いで悶々と過ごしたのです。実は私たちの家族全員が(すでに結婚している子供たちとその伴侶も含めて)別の州に引っ越すという大きな出来事があったところでした。この引っ越しは私たちが「神の声を聞いたから」と信じたことに100%基づいていました。この引っ越しを正当化する目に見えるしるしは何もありませんでした。引っ越し先には仕事の保証もなく、友人や知人もなく、何の招きも約束されたチャンスもなかったのです。
私たちは主からの言葉を聞きました。ですから、主の御声と信じる信仰によってのみ、その声に従ったのです。「神はほんとうにそう言われたのかしら?」という疑いが私を一晩中攻撃したとき、私はタイタニック号が氷山に衝突した時のように感じました。「信仰で水の上を歩いていた」のに、一瞬にして真っ暗な氷の海に沈んでいったのです。しかも速く。
敵は人を恐れさす質問で矢継ぎ早に攻めてきます。それは従順なクリスチャンを心(信仰)から頭(理性)へと素早く後退させるのです。「もしかして...」という思いは、クリスチャンの頭の中で機関銃のように鳴り響きます。感情の地雷が炸裂し始め、信仰の防御壁をずたずたに切り崩します。
もしあなたがこのようなことを経験したことがあるとすれば、安心してください。というのは、もしあなたが本当に主の御声を聞いていないのならば、敵がこのような質問で攻めてくることはほとんどないからです!
あなたが実際に神の御声を聞いて、それに従う時に、敵は「神は本当にそう言われたのですか?」という攻撃を始めると考えて間違いないでしょう。
それはする価値のあることです!
私にとってこのことだけは確信があります。即ち、神の御声を聞いてからあなたが取るすべてのリスクに対しては、神が「物質的な必要を十分に満たしてくれること」とあなたの行く手には「驚くような機会に通じて開かれる扉」で満ちているということです。敵が「もしかして〜だったら」とか「神は本当にそう言われたのか?」と言ってあなたを恐れさす時には、ただ一つの答えかあります。それはこれです。
それは、「もし私が神の御声を聞いたのではなくて、御こころではない計画を自分で立ててしまったとしても、その計画の中で神は私の歩みを正しい方向へと導いてくださる」ということです!
このことを裏付ける聖書箇所があります。
「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。』(箴言16:9)
私は主の御声を聞く自分の能力を信頼しているのではありせん。私は主を信頼しているのです!神は信頼に足る私のお父さんであり、信頼すると私を救い出して確かな道へと私の歩みを導いてくださるのです。私は神は信頼できる父であることを知っています。私の歩みと計画を神にすべて委ねるとき、神は私を確かな道に歩ませてくださるのです。私たちは自分の賜物や自分が聞いたこと、或いは自分の従順さにさえも信頼しないで、むしろ、私たちが愚かな人間であるにもかかわらず、神は忠実で誠実な父であるという事実に信頼を置くのです。それは、私たちが神のために捧げるすべての愛の小さな始まりを、神は尊重し喜んでくださることを知っているからです。
あなたのするすべてのことを主への礼拝の行為として行ってください。私たちが先月引っ越しをした時は重労働でしたので疲れ果てました。その時、痛い足で歩く一歩一歩を、荷物をつめる一箱一箱を、かかる費用の一ドル一ドルを、主を礼拝する行為とすることに私は決めたのです。それがどれほど仕事をはかどらせたかは言い表せないほどです。
主の御声に従う道はいつも簡単であるとは限りません。しかし、それは常に最良の道です。昔私たち家族が異国に移り住んで、すべてを神に頼るという信仰で生活していた頃、まだ小さかった子供の一人がひどいホームシックにかかったときのことを思い出します。子供たちをこれほどに悲しませてまで他国に来る価値はあったのかと、私は悩みました。その日曜日に私たちの教会のワーシップチームがリタ•スプリンガーの「Worth
It All することのすべてに価値がある」という歌を歌い始めました。その瞬間、御声に従う事によって直面するすべての苦しみ、疑いの声に打ち勝つためのすべての戦いには価値があることを私は悟ったのでした。今の新たな信仰の旅路を後になって振り返るならば、私はきっと同じことを言うに違いないと思います。しかし、私は信仰によって今「これをすることには充分な価値がある!」と宣言します。
「もしかして...」を逆転させる
先月、疑いや迷いと戦っているとき、私は友人から素晴らしい励ましの言葉を受け取りました。それは否定的な「もしかして...」を肯定的な「もしかして...」に変えたらどうか、という提案でした。あなたが前進しようとする時、もし敵に「もしかして...」という言葉で攻撃されたならば、地雷の原っぱを夢の野原へと変えるのです。次のように考えてみてください。
もしかして私がずっと望んでいたことが成就するのかも...」
「もしかして私は失敗するのでなくて飛躍するのかも...」
「もしかして神の御計画は私の夢や期待を遥かに越えているかも...」
「もしかしてこれが私の人生最高の旅になるかも...」
「もしかして私の想像を越えた素晴らしいことが起こるかも...」
「もしかして私の行く手にはいつも恵みがあるかも...」
どうか神と一緒に夢見てください。あなたのしようとしていることはする価値のあることです!
私は子供たちが夢や願いを話してくれるのを聞くのは大好きです。私は彼らの夢や願いを否定することなど絶対しません。大きな夢を描くように励まします。彼らの夢が叶うのを一緒に見ることが出来るのは本当にうれしいものです。もし私が子供たちの夢を愛するとすれば、神は私たちの夢をそれよりもっと愛しておられるに違いありません。すべての夢はリスクを伴いますし、すべてのリスクは戦いを伴います。人生はリスクに満ちていますが、あなたが主からの御ことばを持っているならば、「リスク」は「保証」に変えられます(アップ・グレードされます)。
「信仰は望んでいることがらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)
ヘブル11:1には、信仰に伴う約束が書かれています。この約束によりあなたは、敵が疑問を投げ掛けたとき保証と確信をもって答えることができるのです。あなたが望んだことすべてが叶えられるという保証の中を、信仰をもって前進してください。あなたを決して離れず見捨てないお方から目を離さないでください。主は誠実なお方です。(終わり)
Kathi Pelton
Oceans In The Desert
Email: jkpelton@sbcglobal.net
Website: oceansinthedesert.co