神の祝福を喜び祝う ビル・ジョンソン 2014年3月2日
神の祝福を喜び祝う
ビル・ジョンソン —- 2014年1月22日 於リバイバル・アライアンス
神の祝福の受け取り方
聖書には「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」とあります。教会はこの言葉が大好きで、人が主の御前でへりくだるときに喜びます。しかしその人が高くあげられた時はそれほどには喜ばないのです。聖書は「神の国と神の義とをまず第一に求めなさい。そうすればそれに加えて、これらのものはすべて与えられます。」と言います。私たちは人が神の国と義を求めるときには喜びます。しかしその人にすべてのものが与えられると、どう対応すればよいか分からないのです 。イエスは「あなたは施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば隠れた所で見ておられる父が、あなたに(人々の前で)報いてくださいます。」と言われました。 私たちは犠牲的な施しを極めて高く評価します。しかし、主がその人を公に報いるとき、私たちはどのように反応してよいか分からないのです。
神よりも人を愛すことが起こりえるでしょうか? そうです、イエスはそのような人はわたしにふさわしくないと言われましたね。では人々を愛することなしに神を愛することは可能でしょうか? できませんね。これはとても不思議なことです。私たちが神を第一とするとき、他のものは一切無価値となります。しかしその時神は「最も小さいものにすることはわたしにすることだ」と言われるのです。ですから、人々を充分に愛することなしに、神を充分に愛することはできません。
では私たちは神よりも財産を愛することがあるでしょうか?ありますね。では財産をうまく管理しこの世のために巧く運用することなしに、神を愛することができるでしょうか? 私はそうは思いません。キリストのからだの中に、神が自分によくしてくださったときに、何かそれに対して謝らねばならない、恥ずかしいと思わせるようなプレッシャー、雰囲気があります。私は経済的なことだけを言っているわけではありませんが、それも含みます。魂の繁栄はすべての面に反映するからです。私たちはこの世に対して2つのことを示し与える責務があります。それはまず神との出会いであり、次に祝福された人生です。ある人が神に良くしてもらった時、それを隠さねばならないとか、そのことを謝るのを見るのは、私にはとても辛いことです。誰かが新しい車を与えられた時、どのようにしてその車を神が与えてくださったかを詳しく説明するのをよく聞きます。あたかもまわりの私たちが「彼はそのような車を持つに値しない」と 思っているかのようにです。 ある人が隠れた所でなした良い業に対して神が人々の前で報いた場合、往々にして私たちはその人の「隠れた所での良い業」を知らないのです。
地の塩、世に光の役目とは
イエスは「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら何の役にも立たず、 人に踏みつけられるだけです。」と言われました。私は今まで「塩は保存剤、防腐剤である」と教えてきました。肉は塩づけにすることによって長期間保存できます。私たちの内にある御国の文化をこの世の中で腐らせないようにするのが塩です。私はその真理を信じています。しかし、イエスが「あなたがたは地の塩である」と言われたのは、そういう意味ではないのです。それはこの世の上に私たちがふりかけられるということだと思います。つまり、この世にあるものをもっと味よくしてその旨味を増すということです。私たちのまわりにあるすべてのものに、よい味、よい風味をつけるのです。経済システム、教育システム、政治システム等すべての分野において、神を知っている人たち、神によってその場に置かれた人たちが創造的能力を用いることによって御国がもたらされ、よい風味が付けられるのです。
イエスは又、私たちは世に光であると言われました。私は今まで「光はすべてのものを照らし出しあらわにするものである」と教えてきました。けれどもイエスはその後続けて「山の上にある町は隠れる事ができません。」と言われました。ですから町の役目は暗やみにあるものをあらわにすることではなく、失われた人たちがその光を見て道を見つけることです。主は町を人々に見えるところにおかれたからです。この光は人を引きつけ引寄せるものです。
旧約と新約の真理
次のシーズンに主が私たちを導こうとしておられることは、旧約の真理と新約の真理が一つになることです。或る事に関して聖書の中で一番最初に書かれている記述は、その後のすべてのそのことに関する記述の基礎、基準となり、それを正当化しサポートするものとなります。人の内に働く聖霊に関する最初の記述は出エジプト記35章30、31節にあります。
「見よ。主はユダ部族のフルの子であるウリの子ベツアルエルを名ざして召し出し、彼に知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たされた。」
ベツアルエルは神殿を建てるために必要な創造的な知恵と英知を主から与えられました。新約では、聖霊の全きあらわれは力であると言われています。主が新しい真理を顕されるとき、それがそれ以前の真理を無効にすることは決してありません。実際、前の真理は、次の真理のためのセッティングのようです。ダイヤモンドの指輪のセッティングがまず用意され、次にその上にダイヤモンドがおかれ、しっかりと固定されるのです。旧約の啓示は宝石がはめられる場所を用意することであり、それがあるからこそ宝石はしっかりとはめ込まれるのです。旧約は第一段目の真理の基礎を築いています。ですから聖霊の全き顕れは、まず知恵として顕れねばなりません。そして聖霊の傾注によりその中に力が注がれます。この二つが一つになることが、私たちにリバイバルのチャンスを与えるばかりでなく、改革の知恵を与えるのであると思います。知恵という文脈の中でこそ、天にある型どおりの家庭、ビジネス、地域社会、国家など、すべてのものに形が与えられ、どのような文化の中にあっても神の力が顕されるのです。
真のリーダーの役目
リーダーは人が与えられている力をすべて発揮できるようにと導く人のことです。もし私が御国の真のリーダーであるならば、 人々は私が与えるものによってより恵まれるはずです。彼らは神の意図された人生へとより近くなるのです。私たちが地の塩としていろいろなシステムに振りかけられるならば、社会全般において人々をより味のあるよい働きをする者に変革してゆくことができるはずです。神がその人のために意図された人生から、敵が多くの人を迷い出させていますが、私たちはそれと逆に人々を神が意図された人生へと導くのです。
知恵が力と一つとなって物事を本来あるべき姿に引き戻します。興味深いことに、 「塩けを無くす」という言葉は、 「愚か foolish」と同じ言葉なのです。即ち、塩けのない塩は「愚か」ということです。聖書の中でそれは知恵の反義語です。
パンと種の違い
エペソ3:10に「これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって」とあります。教会は今、神の知恵をこの世の主権、力に対して示すと書かれているのです。天にあるものを地でもあらわすのです。それは私たちがどのように生きるか、どのように人間関係を築くか、どのように財産をマネージするか、どのようにパンと種を区別するのかという知恵です。自分の種を食べてしまうのは愚かなことです、種は将来の収穫のために蒔くべきものだからです。パンと種を与えてくださるのは主です。種を食べるのは愚かなことであると同時に、パンを蒔くのも愚かなことです。
私たち夫婦は常に20%主に献げてきました。献げることが私たちの人生の重要な要素でした。しかし最近、私はこのことに関して学ばされています。と言うのは主が私に「あなたは自分のパンを蒔こうとしている。」と言われたのです。
例話をお話しましょう。私の誕生日は7月ですが、その日私は自分の3人の息子とその妻たち、9人の孫に私がプレゼントを上げるます。父の愛がどのようなものであるかを示すチャンスは他にないからです。私の誕生日の一ヶ月ほど前に二人の孫が「おじいちゃんの誕生日に何を買ってもらうの?」という会話をしていたのを耳にしました。(笑)私は常日頃、子供や孫、そして友人たちがどのような願いや夢を持っているのかを注意深く聞いているのですが、それはとても楽しいことです。彼らの顔がどんな時に輝くのか、うれしそうにするのかを注意して見ているのです。どんな香水が好きかとか、どんな料理道具が好きだとかを聞くと、それを心に留めておきます。それが私の人生の喜びの一つです。
私の息子のブライアンはワーシップのミニストリーをしています。今から話すことは本当のことではなく、ただ仮にそうであったらという話です。私がブライアンのために特注のギターを注文したいと思ったとします。私はいつも彼の言うことを注意深く聞いていて、彼はどんな色が好きか、どんな木が好きか、サイズやデザイン、すべてのことを長年の間に書きとめてきました。そしてやっと息子にぴったりの完璧なギターを作れる職人を見つけたとします。そこに行って「私の誕生日が7月に来るのですが、このようなギターを息子のために作ってくれますか」と頼んだとします。すると彼はその通りのギターを作ってくれました。私の誕生日が来て一人ひとりが私からのプレゼントを受け取りました。ブライアンの番になり、彼はギターを見て大喜びをし、私もすごくうれしかったのです。さて、次の日曜日、私は何を見ているでしょうか。彼がそのギターを使って演奏しているかどうかです。でも彼を見ると、そのギターを使っていません。まあ、何か不都合があったのだろうと自分を納得させます。次の日曜日も、そして次の日曜日も、彼はそのギターを使っていないのです。3週間くらいたって私は礼拝後ブラリアンに「すばらしいワーシップだったよ・・・ところで、私があげたギターを使っていないようだけど・・・」と聞くと、彼は「お父さん、本当にすばらしいギターをありがとう。誰それがギターを必要としていたから、その人にあげたんだよ。」と言うのです。さて、父としてはどういう気持になるでしょうか? 父はギターを息子に「蒔くべき種」としてではなく、「息子が 食べるパン」として上げました。父(天の父)の喜びは息子がそのギターを喜んで弾くのを見ることだったのです。
私たち教会は今、持ち物、財産、経済に関して、ある解放を必要としていると私は感じています。信仰があれば財産が増えるという考えは、馬鹿げています。でもその誤った考えに対しての反動が大き過ぎると、それも又誤りとなります。今はこの問題に関して教会は混乱していますが、しばらくすればこの世と天、即ち物質世界と霊的世界とを御国として調和させることができる世代が生まれてくると信じます。私たちが物質世界でどのように物事を扱うかをこの世はじっと観察しています。それを通して私たちは 御国の生活方法をこの世に伝えることができるのです。(続く)