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15 2月

生ける水の泉       リック・ジョイナー         2014年2月16日


生ける水の泉

 

リック・ジョイナー

 

羊飼いのいない羊を見て憐れみを感じた主は、彼らの羊飼いになられました。又、暗やみに住む人々を憐れまれたとき、主は彼らの教師となられました。まことの霊的権威はすべて愛を土台としています。  神の愛が自分の心に溢れ発露したと知るとき、私たちは自分の召しと果たすべき使命の場所を知るのです。

神は私たちをこの世の基が据えられる前に創造されたお方です。ですから、私たちの内に心からの真の願いを入れられたのは神です。イエスは生ける水が「その人の心の奥底から流れ出る」言われました。ですから私たちが神によって創造された目的は、私たちの心の一番深い願いと結びついているのです。私たちの中にある一番深い願いを認識することは、神が私たちの内に設けられた生ける水の泉を開くためには非常に大切で不可欠なことです。この泉は一度開かれたならばその流れは止むことはありません。

 

しばしば私は人々から相談にのったり指導するメンターになってほしいと頼まれます。私はそのように頼まれることは感謝しますし、名誉なことだと思います。しかしながら、その人に対する特別な愛を主から受け取らない限り、  そのような役目を決して引き受けません。私がその人のために出すべき生ける水は、私の「心の奥底」から湧き出なければなりません。そうでないと私がその人に与えられるものは、単に原則的なものだけになってしまいます。原則的な教えを示すことは助けにはなるかもしれませんが、イエスの大宣教命令が示唆する弟子訓練を指導することには遙に及ばないものです。

 

私たちは自分の子どもたちを心から愛するので、  自分自身が達成した域以上に子どもたちが育って秀でたときには大変喜びます。そして、そうなることを彼らのために心から祈ります。霊的な子供たちに対してはそれと同じか、むしろそれ以上でなければなりません。もし私が誰かのメンターになるならば、  その人が私が達した域を越えてより成熟することを心から願います。もし私が自分の仕事の一つとして(本当の主の愛持たないで)メンターになるならば、私はただの雇われ人にすぎません。

 

 ある一つの国を弟子訓練するように召されたときも同じことが言えます。その国に対する主の愛を私たちがしっかり持ったとき、主が私たちをその国のために召しておられることがわかります。しかし、主の愛は人間的な愛を越えるものであることを私たちははっきり理解する必要があります。その違いは何であり、どのようにして区別できるのでしょうか? もしそのような質問を私たちが持たねばならないとすれば、そのこと事態がまだ主の愛を充分にいただいてないことを示していると思ってよいでしょう。主の愛とは人間的な同情とか魅力、親しさとは違います。なんとか言葉でそれを伝えようとしても私にはうまく言い表すことができません。それは経験しなければわからないものです。

 

それではどうすれば経験できるのでしょうか? まず第一にそれを願うことです。ヨハネ17章で、主イエスは「御父がイエスを愛された愛が私たちの中にあるように」と祈られました。神の御子の祈りは必ず聞かれることを私たちは確信できます。御父と同じ愛でイエスを愛するキリストの弟子たちが地上を歩く日が来ることを私たちは知っています。ですから、私たちはそのような弟子の一人となれるように絶えず願うべきであると思います。(終)


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