あなたは疲れ果てそうになってはいませんか フランシス・フランジペン 2013年11月30日
あなたは疲れ果てそうになってはいませんか
フランシス・フランジペン Francis Frangipane
預言者ダニエルは、悪魔がいと高き方の聖徒たちを疲れ果てさせてしまう時が来ることを警告しています。(ダニエル書7:25参照)終りの時代の最後の時にそれがどのように起るかは実際に見るまでは分りませんが、しかし既にその戦いは現実に起っております。神の預言(個人的なものも含め)の実現が限りなく遅れているかのように見えるので、それによって信者は完全に疲れ果てているのです。
皆さんの廻りに、その(執拗に攻めて来る)敵との戦いに疲れを感じている人がおられませんか。あなた自身はいかがでしょうか。もう何ヶ月、あるいは何年も前に解決されているはずの状態に、未だに閉じ込められている多くの人たちを私は知っています。彼等は神を愛する人たちですが、多くの場合、悪魔の妨害に出会って、彼らの計画の前進と彼ら自身の成熟が阻まれています。絶え間ない悪魔の妨害に出会う結果、多くのクリスチャンが徐々にですが、彼らの魂に圧し掛かってくる重圧に耐えられなくなり、ついにはそれに屈してしまうのです。
この闘いの多くは、自分の子供たちや伴侶との間に起る家庭内の不和や争いに根ざすもの、或いは彼らの属する教会内に分裂があり、それを引き起こした問題を未解決のまま引きずっているとか、もしくは仕事場での確執・争い、又は健康上の問題で長期の闘いが続行している状態などであり、それらが信者を疲れ果てさせます。このような長期の戦いが私たちから喜びや力、又クリスチャンとしての情熱を奪っているのですが、多くの者は何を奪われたのか、又どれ程奪われたのかさえ気付かずにいるのです。
又個人の生活環境だけではなく、大きなスケールで言えば世界中に色々な戦いが存在します。国と国や民族間に、ある場合には何世代にもわたる確執・闘争が続いております。
ですから、クリスチャンによるすばらしいワーシップとかプレイズの最中でさえ、天においては祭壇の下に集まる聖徒たちが常に「聖なる、真実な主よ。いつまで・・・・」(黙示録 6:10)と叫ぶことが理解できます。聖書では、初めから終りまでの間に58回も、待つのに疲れた人たちが「主よ、いつまでですか?」と同じようにを叫んでいます。
神の御計画の成就の遅延は、私たちの完全な信仰と人格の成熟のために時には神が敢えてそうされます。しかし一方、悪魔が事の成就を阻止しようとして私たちが疲れ果てて諦めるまで攻撃や邪魔をし続けることもあります。悪魔は別の名をドラゴン dragon と呼ばれ、その目的は戦いを引き延ばす(ドラグ-オン drag on)ことによってクリスチャンの力を消耗させるのです。悪魔は私たちが疲れ果て、諦め、ついには祈ることをも止めてしまうまで執拗に攻める手を緩めません。加えて、戦いの結末を予想以上に遅らせることによって、魂の疲れと苛立ちがその人を肉的に過度の反応を引き起こさせて、以前より悪い状態に追いやりかねないのです。私たちはそのような状態になると忍耐を失い、敵の攻撃に勝利することよりも、自分の肉的な苦しみから解放されることを求めてしまいます。その結果、神が期待するクリスチャンが保つべき高い標準とかその意識を現実と妥協することによって低くしてしまうことになりかねません。
忍耐強さ
聖書の黙示録にはこの perseverance 「忍耐」と言う言葉が七回も使われているのには理由があります。何度も何度もこの「忍耐する」とか「打ち勝つた」という言葉が出て来ます。又、「ビジョンを持つ」とか「聖なる動機を持つ」ことは重要ではあっても、それだけでは私たちの目標を達成することは出来ません。私たちはがまん強く忍耐しなければならないのです。がまん強さという言葉の元は severe 厳しい、ひどい、という言葉です。私たちが勝利するためには、厳しい試練の中を通らねばならないと言う事実に目をつぶるわけにはいきません。ヘブル書 10:36にあるよう、私たちが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なものは厳しい忍耐です。ヤコブ書1:2-4にこう書いてあります。
「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。 その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」
多くの困難と試練を通してこそ忍耐強さや不動の信仰が育まれます。そして「キリストに似た者となる」品格が磨かれ、その教義が毎日のライフスタイルそのものになって行くのです。すなわち上記の「忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」が実現し、それが私たちに必要な真の霊的成熟です。
打ち破りが来る前に到達すべき品格
ダニエルが預言者の一人として、「終末に至って悪魔が聖徒を疲れ果てさせる計画を持つ」と前に述べましたが、神は彼に次のようなビジョンを与えました。「 私が見ていると、その角は、聖徒たちに戦いをいどんで、彼らに打ち勝った。」(ダニエル書 7:21)
これがその戦いがどんな内容のものであるかを物語っています。その戦いは、時には私たちは敵の攻撃で圧倒されそうになるように感じますが、それは次の22節に書かれている時までです。「しかし、それは年を経た方が来られるまでのことであって、いと高き方の聖徒たちのために、さばきが行われ、聖徒たちが国を受け継ぐ時が来た。」
ここに一つの原則があります。一度それを理解して従うならば、私たちはその戦いの勝利へと導かれるのです。もし私たちが忍耐をもって耐え抜き、もし私たちがそれによって神の高みに到達し、もし私たちが神を信じて委ね通すならば、「年を経た方」が来られ、私たちのために戦いに介入して下さる時が来ます。そして私たちが忍耐を通して強く錬られた人格を持つ者とされたことをご覧になる時、「あなたたちがここまで成熟するのをわたしは待っていた」と言われ、私たちの味方となってくださり、敵を裁かれるのです。
どのような戦いであっても―それがあなたの国のために祈ることであっても、あるいは子供たちのために堅く立つこと、あるは魂の救いのため、あるいは個人的な争いを和解に至らせることであっても、忘れないで下さい。私たちは単によい種を蒔き、あるいはよい土壌を持つことだけでは充分ではありません。刈り取らなければならないのです。―「わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。」(ガラテヤ 6:9)【口語訳】の御言葉の通りです。(終り)
= 以上は Frangipane 師の著書This Day We Fight からの抜粋です。=