人生をシンプルに生きる 坂 達 也 2013年10月29日
人生をシンプルに生きる
坂 達 也
シンプル・ライフと言う言葉がありますが、私は新しい年に向かって(ヘブル暦では既に入っています)この言葉を改めて私の生活目標にしたいと思っております。それは毎日をシンプルに主の御心に適った生活をしたいと言う願いからです。この目標はずっと前からのものですが、残念ながら未だ完全には実行出来ておりません。
シンプル・ライフとは何かと言えば、クリスチャンなら誰でもよく知っているマルタとマリヤのお話しに例えるのがこの際一番適当であるように思います。いつも主の御心を知って生きる、―主の御心の中に住む abide in Him ―ためには、マリヤのように常に主の傍にいる以上のよい方法はないように思えるからです。ところが実際には。自分はマリヤを目標にして来たつもりが、やはり、マルタ的に生きてしまっていることに相も変わらず気が付かされております。しかし、そんな自分がマリヤに徹して生きることをもう一度初心に返って試みたい、そのためのカイロスの時を主が具えて下さっておられるという思いを今強く感じています。
主は忙しく仕えるマルタに言われました「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(ルカ10:41-42)
私は今までややもすれば多くのことを欲張って「し過ぎる」傾向が自分にはあることは前から知っておりました。勿論私の意図はマルタと同じで、すべて「主のために」出来るだけ多くの事をしたいと言う願いから出ているのでしょう。であるとすれば、それはみな「良いこと」であると言えます。皆さんの中にも、主のために「もっと何かをしなければ」といつも願っている方が多くおられるのではないでしょうか。しかしその思いがなかなか実現しないのは、もしかして、主がそうさせないようにしておられるからかもしれません。
御存知のように、主はそれぞれのクリスチャンにそれぞれに必要な訓練を、シーズンを決めて与えられます。私の場合は、最近、と言うより今年に入ってから「多くのことをすることが、必ずしも主のために生きることではない。むしろ、主が言われた、私にとっては少な過ぎると思える程のことだけを忠実に行なう」と言う訓練の中に私を置かれていることがやっと最近分りました。
ヨハネ15:1、2に「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」と書かれています。
ここで注目したいことは、天の父は実を結ばないものを取り除かれるだけでなく、「実を結ぶもの」すなわち「良い枝」の中からも多くの枝を剪定して取り除かれると言われることです。(口語訳では「手入れをしてきれいにされる」と訳しています。)これはどう言うことなのでしょうか。
私はぶどうの木のことはあまりよく知りませんが、多くの果樹では、たとえよい枝であっても多くの枝を取り除けば、選んで残した数少ない良い枝に特別大きくて、美味しい果実が実ることを知っております。もしそれをしなければ、小さくてあまり美味しくない果実が数多くは出来ても、本当によいものは実りません。特に日本の果物の栽培ではそうすることがよく知られています。
主がよい枝であるにもかかわらず、その多くを剪定されるのは、それら多くの「良いこと」が主からのものではなく、自分で考えた「良いこと」であるからではないでしょうか。
天の父は、私たちが父からいただいた賜物を十二分に使ってよい実をならすことを期待しておられますが、その実の数はそれ程多くはないように思います。主は、能力的にも時間的にも私たちが出来る範囲と言うものを私たち以上によく御存知ですから、私たちが多くのことをし過ぎないように、私たちがしたいと思うこと(枝)の多くを、切り捨てておられることに私は気が付きました。それと私が学んで来たことは、マルタのように、何でも「自分がやらなければ」と気負わないことです。そして主から言われたことだけをする、これが主に忠実なしもべであって、自分で主をさしおいて、勝手にあれもこれもと心を煩わせないことです。それは即ち、主を完全に信頼していない、すべてを委ねていないことをあらわしているようなものであるからです。
そこで私について申し上げれば、今年は主が私たち夫婦を日本の教会を訪れるミニストリーに遣わせない御計画であることがやっと最近はっきりして来ました。これは今までの17年間毎年少なくとも一度は訪ねて来た日本旅行ですから、私たちのミニストリーの最も重要なものであると信じて来ただけに、私自身驚いています。しかし主は、去年からの私たち夫婦の最重要ミッションはニューヨークに来ることであることを何度も念を押されました。
ニューヨークで主に仕えることとは、先ず家内が孫の面倒をみること、私がそれを助けることです。そして家族、特に息子夫婦を霊的に励ますことでした。それ以外のミニストリーとしては、WWGMのインターネット・ミニストリーに、今は時間的に参与出来ない家内に代わって私が今まで以上に専念すること、それに加えて、マンハッタンの街を祈って歩くことです。これだけで確かに私たち夫婦は、時間的にも体力的にも充分に忙しく、これ以上は出来ない限界に来ていることを主は色々な形で示して下さっております。
主は、私たちが出来ないような用事を決して命じられないと思います。むしろ、余裕をあり過ぎるぐらい与えて―それは祈りの時間を充分に取ることを考慮されておられるからと思いますが―主に忠実にしかも丁寧に愛と誠意を持って、決して急がずに出来るだけの仕事量を「これをしなさい」とおっしゃって与える主であると信じます。
最後に、御心を行なうことについて主が何と言われているかを見たいと思います。黙示録3:20に「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」と主はおっしゃいました。
終わりの時、特にこれからは今まで以上に主は私たちに声を掛けられることがこの聖句から窺われます。ここで主が言われる「食事」とは何を意味するのでしょうか。それについて主は「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」(ヨハネ 4:34新共同訳)と言われました。
主は私たちに主の御計画と御心を行なわせるために、私たちに声を掛けられます。そしてそれに応えて戸を開ける人には、主がその人の中に入って来られ「その人と共に食事をし、その人もわたしと共に食事をする」と言われたのです。
食事(食物)とは「父の御心を行い、その業をなし遂げる」ことであるなら、食事を共にする時、話をしない人はいないと思いますから、主イエスは「父の御心」について私たちに語られ、又私たちもそれをどのように遂行するかを主に聞いて、よくコミュニケーションをすることが絶対に必要です。
そして「わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし」と言うことは「主が私たちを使って主の目的を果たす」と言う意味であると思いますが、なさる(食事をする)のはあくまで主であり、しかし主は、主のしもべである私たちを使って主の目的を果たされるのです。一方「彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」は、私たちが主の御心をよく知った上で、実際に行動する(食事をする)のは私たちであることを意味していると思います。つまり主も私たちも同じように「共に食事をする」、即ち「父の御心を行なう」という共通の目的を持つ切っても切れない間柄である(一体である)ことを強調していると解釈したいと思います。
ヨハネは「あなたがたがわたし(主)におり、わたしがあなたがたにいる」と言うテーマを繰り返し述べております(ヨハネ14:20、15:4.5等)が、上記の「わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」の御言葉も全く同じ線でキリストと私たち花嫁の親密な一体の関係を強調しております。(終り)