ポール・キース・デイビス師: 終末の時代に必要な「空飛ぶわし」の油注ぎ (その2) 坂 達 也 2013年9月24日
ポール・キース・デイビス師:
終末の時代に必要な「空飛ぶわし」の油注ぎ (その2)
坂 達 也
「主を見つめて待つ」祈り
私はデイビス師がコンテンプレィティブ・プレイヤー contemplative prayer の実践者であることが分り、大変励まされております。中世のカトリックの修道僧が始めたと言われるこの「祈り方」をぜひ日本の皆様にも実行していただきたいと言う願いから、私は2003年に「主を見つめて待つ」と言う本を書いて出版しました。その本の中で、この祈り方が日本語で何と呼ばれているのか私には分りませんでしたので、私は勝手に「主を見つめて待つ祈り」と言う名前をつけました。
この祈りの特徴は、主の御前に出て、自分からは全く何も祈らず、一方的に主が語られるのを待つことにあります。そのためには、自分の心を無にすることが最も重要なキーとなります。空っぽの心で静かに主を見上げて待っていますと、内住の聖霊と私たちの霊の間で一種の霊的オスモーシス(浸透)と言う現象が起きて、神の霊の命、愛、知識とか、その時に主が私たちに語りたい生きた御言葉が私たちの霊に伝達されると言われます。但し、このプロセスは私たちの魂の活動とは無関係に行なわれます。従って、その間私たちは何も感じないことが多いのですが、ある時は主が語られることを受け取った私たちの霊が、その場で私たちの心に伝える場合もあり、その時はその内容が知覚出来ます。そうでない時でも、主から受けたものはすべて私たちの霊の中に蓄積されると言われます。私はこの祈りを曲がりなりにも一日一時間をモットーに、20年近く続けて来ました。
デイビス師はこの祈りをWaiting on God「主を待つこと」と呼んでいます。師は、これから入ろうとしている今のシーズンへの霊的準備として、個人的に毎日この「主に向き合う時間」を持つことは、特に西洋に住むクリスチャンにとって今最も必要な霊的鍛錬 discipline であると主が語られたそうです。
彼は昨年秋に一定の期間中、一日3-4時間この祈りを実行した時の経験を話していましたが、心が空でまるで鉄のようになった時、目が覚めているのにはっきりとした夢を見ることを経験したそうです。彼は、魂の活動を停止させマインドを静めることは、人生で経験することの中で最も難しいことの一つであることを認めています。しかし師は、もしあなたがこれを一日1時間、一月間続けたらあなたの人生、霊的な生活が一変するでしょうと言います。そして、「空飛ぶわし」の油注ぎがこの祈りをより深いものとしてくれると付け加えております。
主の御顔を拝する
モーセはシナイ山上で40日間、神に対面して神と話した後に麓で待っている民のところに戻って来ましたが、その時、モーセの顔の肌は神の栄光を受けて眩しく輝いていました。会見の天幕に入って神と対面して出て来た時もそうでした。ですから、モーセはその後、主と会見する時以外はベールを被るようになりました。
よく考えてみますと、残念なことですが、現代のクリスチャンでモーセのように主の栄光で顔があまりも輝いているためベールを被らなければならないような人は見当たりません。
出エジプト 33:11に「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。」と書かれています。又、民数記 12:8では、神が「彼(モーセ)とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、主の姿を仰ぎ見ている。」と言われました。これを見ればモーセがどれ程神と親しい関係にあったかが分ります。そして、モーセには、彼が未だよみがえった身体ではない時に、既に霊の目でかなりはっきりと主が見えていたと思われます。
ところで主は、上記の民数記12:8で「彼(モーセ)はまた、主の姿を仰ぎ見ている」と言われました。私は「主を仰ぎ見ること」がモーセをして顔と顔を合わせて主と話す間柄にさせた理由ではないかと思うのです。と言うことは「主を見つめて待つ祈り」contemplative prayerを多くすることが、もしかすればモーセのように「主の姿を仰ぎ見る」結果を生み出すのではないかと、私はかねがね思って来たのですがいかがでしょうか。
多くのクリスチャンが旧約聖書に書いてあることは律法主義の下にあるものであり、聖霊が下った後の今の聖霊時代には必要のないものとして、悪く言えば、見下げている傾向があるのを私は本当に残念に思います。ですから旧約聖書をほとんど読まないクリスチャンもいる程です。しかし、2コリント10:11で「(旧約聖書に書かれている)これらのことが彼ら(イスラエル人)に起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」とパウロが言っていることに御注目下さい。特に「世の終わりに臨んでいる私たち」こそ、旧約聖書をもっと心して読み、そこから多くの教訓を受け取らねばならないとパウロが訴えているのです。その一つが、主の姿を仰ぎ見続けたモーセの姿です。
モーセに率いられて40年間荒野を歩いたイスラエルの民は、テント生活をしながら移動しましたが、その集団生活の中心に神ご自身が臨在され、民と共に移動されました。この神のための「会見の幕屋」は、初め宿営の外の静かなところに設置されましたが、後に正式な神の住まいとして契約の箱を安置して造られた「聖所の幕屋」に代わり、その聖所は民の宿営テント群の中心に置かれました。
驚くべきことに、この「会見の幕屋」へはモーセだけでなく、神にお伺いを立てたい者は誰でも中に入って神と時間を過ごすことが出来たのです。これは私たちのために神が造られた神と神の民との関係を表す、特に終りの時代に住むクリスチャンに神が示しておられる御国の住まい方の「型」であると信じます。
なぜなら今の私たちには神がもっと近づかれ、私たち一人ひとりの中に入って来られているからです。問題は、そのように神と霊的に密接な関係にあるべき今の私たちが、当時のイスラエル人のように、神を中心として神と共に毎日の生活を送っているでしょうか。そうすることが聖霊時代に生きるクリスチャンの基本であるのです。そのためにイスラエルの歴史が私たちにその型をはっきり示していることを忘れてはならないと思います。
コロサイ 3:1-3 に、キリストを信じる私たちは「キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。」と書かれております。そうであれば私たちが毎日、主を見上げながら主と過ごす多くの時間を持つことが絶対に必要であることは明瞭であると思います。
そして、その後の3:4に「あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(新共同訳)と書かれています。これはキリストの再臨の時のことを指していて、私たちはその時、よみがえりのからだに変えられますから、栄光に顔も身体も包まれていると言うのです。しかし、それではむしろ遅すぎる、キリストの再臨の前の今から、私たちはモーセのように顔が輝いていて当然であると私には思えるのです。
そこで、1ヨハネ 3:2 をご覧下さい。「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき(主の再臨の時、私たちはよみがえりのからだに変えられていて)、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。」(新共同訳)
上記のみ言葉についてデイビス師は、上記の最後の部分「そのとき御子をありのままに見るからです。」を「その時まで私たちは御子を見続けて来た」と過去完了形で解釈していることに私は気が付きました。すなわち師は、再臨の主と会う時だけでなく、その以前から日頃いつも主を見上げる結果として、御霊の働きによって私たちの内側が霊的に変えられて行き、「主に似た者」になっていると共に、主とお会いする時までに、主のより深い内面を見ることが出来るようになっているべきだと言われるのです。
そのことは、2コリント3:18 で「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」と言う御言葉が説明してくれます。
又、Ⅰコリント 13:12では 「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時(再臨時)には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」と書かれていることも参考になると思います。
しかしそれでは、皆様は多分、長い間この祈りをして来たと言う私の顔が、今もモーセのように輝いていないのはなぜかとお聞きになりたいかと思います。その答えは、マタイ5:8に書かれています。「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」
正直なところ、今の私は上を見上げても栄光の主の御顔が未だはっきりと見えません。それは私がモーセほど主を見上げていないからであり、その結果として、私の心が未だモーセのようにきよくなっていないからです。ですから、上記に挙げた1ヨハネ3:2の御ことばに続く3:3に「キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。」と言うみ言葉を私はもっと心掛けねばならないと思っております。
デイビス師は、そのことについて、バプテスマのヨハネが荒野を住まいとし、「らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった」と書かれていること、彼はイエスご自身がぶどう酒を飲んでいる時に、お酒を口にすることもせず、全くこの世と無縁の生活をしていたことを挙げます。そして、私たちも世にどっぷり浸かる生活の中で、例えば、ゴルフをすることは罪ではありませんが、そのゴルフをして3-4時間つぶす時間に(師はゴルフをします)contemplative prayerをすることを思い立つてゴルフを少し控えるとか、テレビを見るのを控えるとか、何かで自分を自制して、率先してこの世をエンジョイする生活を控えることは「霊的になることに役立つと思います」と言われます。但し宗教の霊からそう言っているのではないことを重ねて断っておられます。確かに霊的な人として知られる人の多くは spiritual disciplineをされていることに気がつきます。
そして、これからの世の終わりの時代に生きるクリスチャンは、格別の自制により「自分を清くする」ことに努力する人が主の栄光から栄光へと変えられ「キリストに似た者」になるとデイビス師は言われています。(終り)