ポール・ポール・キース・デイビス師: 終末の時代に必要な「空飛ぶわし」の油注ぎ 坂 達 也 2013年9月14日
ポール・キース・デイビス師:
終末の時代に必要な「空飛ぶわし」の油注ぎ
坂 達 也
私たちが今生かされている時代が、キリストの再臨をまじかに控えた「最後の時代」であると信じるクリスチャンにとって、聖書の最後に書かれている「黙示録」に関心の無い人はいないと思います。しかしこの「黙示録」は聖書の中で最も難解な書の一つと言われるように、その解釈についての見解は、歴史的に見ても本当に多義多様に分かれております。
その中で私は最近、ポール・キース・デイビス師の考え方に非常に興味を持ち、目下師のインターネット・ウエビナーのシリーズを聞き始めておりますが、その一部を私の考えと共に御紹介したいと思います。
この「黙示録」は、皆さんがよくご存知のように、その著者である使徒ヨハネが、当時のアジア・マイナーと呼ばれる地域(現在のトルコ)に実在した「七つの教会」に向けてこの書簡を送ると言う形で書かれております。
デイビス師はこの「七つの教会」を、キリスト教の約二千年の歴史上において、それぞれの教会が広い意味で「七つの時代」を代表していると言う見解の元に、その区分について詳しく述べていますが、今の時代は、七つ目で最後の教会である「ラデオキヤの教会の時代」であると言います。
そこで、この最後の教会時代の特徴を一言で言い表すならば、それは霊的に「なまぬるい」時代であることです。それは主御自身がこの教会に対して「あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう」(黙示3:16)と言われたことばに象徴されます。
つまり、最後の時代のクリスチャンは、霊的にあまりにも「なまぬるい」ので口から吐き出したくなるようだ、と主がおっしゃるっているのです。
私自身も、今の時代がラオデキヤの教会のような時代であることに関しては、デイビス師と全く同意見ですが、主が言われるように、私たちは「霊的になまぬるくなっている」ことを抜本的に反省し悔い改めなければならないと思います。
なぜ現存のクリスチャンの多くがそうなったのでしょうか。それは今が最後の収穫の時であるからであると思います。収穫の時とは、良いものも悪いものも実る、すなわち、良いものも究極の形で実りますが、悪魔の働きも究極の頂点に達する時です。ですから人間の不信仰と反キリストの霊が最も強まり、悪魔の「惑わし」が最大限に横行する時となります。そのことは聖書の多くの箇所に書かれています。
黙示3:17、18に、ラオデキヤの教会がいかに惑わされていたかがこう書かれています。「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」
この「なまぬるさ」に完全に打ち勝つにはどうしたらよいのか、それをポール・キース・デイビス師は「黙示録4:7に書かれている天の御座の中央とその回りにいる四つの生き物のうちの四番目の生き物である『空飛ぶわし』の油注ぎを受けるしかない」と言います。そして一度この油注ぎを受けた人は、いかなる形でも「霊的になまぬるい」状態にいることは絶対に我慢できなくなる、それはちょうど光と闇が絶対に交じり合うことがないのと同じであると言い切ります。
聖書には、その後の黙示録6章で、白い馬、赤い馬、黒い馬、青ざめた馬と言う四つの馬が出てきます。この馬が4章に書かれている前述の四つの生き物とそれぞれ対応していることが分ります。
その四つ目の生き物「空飛ぶわし」が出てくる時が「青ざめた馬」の時です。「青ざめた馬に乗っている者の名は『死』といい、その後にはハデスがつき従った。彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた。」(黙示6:8)と書かれているように、まさにこれからの時代は、世界中が戦争と飢饉と死病で多くの人が死ぬことが預言されている時代です。その中に生きる「なまぬるい」クリスチャンが最も必要とするものが「空飛ぶわし」の油注ぎを受けることであると師は言われるのです。
「空飛ぶわし」の油注ぎ
最後の時代とは、地上における悪魔と勝敗を決する最後の対決、総決算の時です。敵は最後の青ざめた馬を解き放つことを許されます。そのような戦いにおいては、単に人間の知識とか魂のレベルの知恵ではもはや絶対に勝ち目はありません。従って私たちは、鷲のように天の領域まで高く飛び、天の領域に私たちのために用意されているあらゆる霊的な情報と神の指示を得ることが絶対に必要であると師は言われるのです。
この終末に用意されている特別の油注ぎは、単に賜物と言う以上の、霊によるインスピレーション、啓示、夢、ビジョン、解き明かしが与えられ、これ等を通して神との密接なコミュニケーションを得ることが出来るのです。
そこでこの油注ぎですが、それを心から求めるクリスチャンであれば、誰でも得られるものであると師は言われます。勿論、特別の使命を受けている使徒とか預言者は、より多くの啓示が示されるかもしれませんが、基本的には、主を心から信じ、聖霊に満たされ、主の御心を求め、主と親しく交わり、とことんそれを願うクリスチャであるならば誰でもいただけるものであるのです。
ただ私たちは、それを熱心に desperately 死に物狂いで求めなさいと師は言われます。主の賜物にしても、力にしても並みの程度では満足しないで、究極のものを執拗に求めること、そのことが神からの最高の賜物の一つであると師は言います。
もし、与えられない人がいるとすれば、それはクリスチャンとは名ばかりで、あくまで主を親しく知ろうとしない「宗教的な」人たちであると師は言います。なぜなら、主と個人的な親しい関係に入っていない人、主と一つとなっていないクリスチャンは「なまぬるいクリスチャン」であって、主が吐き出したくなる人たちであるからです。
主を熱心に求める人
熱心に心から主を求める人には主がこの特別の「油注ぎ」を与えることが、ラオデキヤの教会に向かって次のように書かれていることからも分ります。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」(黙示3:20-22)
今は特別の時です。主があなたのところに来て、あるいは預言者を通して、あなたに御声をかけられるのです。その時にあなたは目を覚ましていて、すかさずそれに答え、あなたの心のドアを開かねばなりません。そうすれば、それ以降あなたは、入って来られる主と親しく話し合い、いつも食事をする親密な関係に入るのです。
ここで大事なことが書かれています。それは主が言われる「勝利を得る者」という言葉です。この「勝利を得る者」と言う言葉を、主は黙示録の2-3章で七回も繰り返しておられることに御注目下さい。その意味は、クリスチャンは最終的に完全なる「勝利を得る者」にならねばならないからです。それには悪霊や病気との闘いに完全に勝利することを含みます。
多くのクリスチャンが「主を心から信じていればそれでよい。悪魔との闘いとか、癒し手にならなくてもよい」と言いますが、そのような人は、主が最終的に期待しているクリスチャンではありません。
特に師は「今の時代に病気が癒されないで死んで行くクリスチャンがあまりにも多いことに私は耐えられない、クリスチャンなら皆病気から癒されるのは当然であり、そのような癒し手たちがこれからどんどん現われる」と言います。なぜなら、クリスチャンがそうならなければ、天で主と共に主の御座に着くことが出来ないからです。主は、「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。」とおっしゃっています。
私は最近このデイビス師の言うことに特に注目しているのですが、師はものごとを、特に聖書に書かれていることを、今の時代においては曖昧にせず、言うべきことはきちんとはっきり教えるべきであると言います。さもなければ、本当の真理をはっきり教えないばかりに、よいクリスチャンをも惑わす結果になりかねないからです。
その一つの例として、師は、「キリストの花嫁」になる人は、「しみもしわもない」完全にきよくなることを目標としているクリスチャンであって、クリスチャンであれば皆が「キリストの花嫁」になれるのではないことをはっきり指摘すべきであると言います。終末の時代には、たとえ人間的な常識では不可能と思われることでも、聖書が約束していることはすべて、必ず実現すると師ははっきり言っています。そのために神は、そのような「完全な」人になりたいと死に物狂いに望み、真剣にそれを目指す人を求めておられるのです。このようなクリスチャンが、最後の時代に出て来る良い方の究極の域に達する人たちです。
私自身も、過去においてそのことに触れたことがありますが、例えばエペソ4:13-16に書いてある「 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」を例にとってみれば、パウロが大真面目に言うように、ここに書かれていることは、主が来られる前に必ず実現すると信じて疑いません。しかし多くのクリスチャンは、その域に達するとは思いもせず望みもしないので、その領域に達しないのではないでしょうか。
そのような「完全におとなに成熟した神の息子・娘たち(ギリシャ語で fuios )」がこれからの御国で主に用いられる人々です。そのためにこの「空飛ぶわし」の油注ぎが不可欠であることを師は何度も強調しています。そして、そのような人のために、天には特別のドアが開かれていて、いつでも天に入って行ける時が来ると言われます。
間も無くこの世に帰って来られる主の元で効果的な御国の働きをするには、「神が何をされているのか」を知り(ヨハネ5:19,20)、天の「御国の見方を知る」ことが肝要であり、主と一致していないのでは決してよい仕事が出来ないことは明白です。本当に「なまぬるい霊」に打ち勝つにはこれしかないのです。
「空飛ぶわし」の油注ぎは「霊的に見る目と、聞く耳と、それを理解する心を」与えるものである、と師は指摘します。
この「霊的な目と耳と、心」を持つか持たないか、あるいは与えられるか与えられないかは、神への信仰に関して、聖書を通じての最大の課題の一つであると私は信じております。この問題については、旧約、新約聖書を通してモーセ(申命記29:4)、イザヤ(イザヤ6:9,10)、イエスご自身(マタイ13:13、マルコ4:12、ルカ8:10、ヨハネ12:40))パウロ(使徒28:26、ロマ11:8))を含む、少なくとも八回も取り沙汰されていることから見てもその重要性が理解できます。特にイスラエルの多くの民にそれが与えられなかったことが問題となっているのですが、デイビス師は、終末の最後の時代のクリスチャン(全部ではありません)にそれが与えられると言われるのです。(続く)