マンハッタンを祈って歩く (その2) ー 神と共に歩くとはどういうことなのか ー 坂 達 也 2013年8月25日
マンハッタンを祈って歩く (その2)
神と共に歩くとはどういうことなのか
坂 達 也
前回、主と共に歩いた人としてエノクのことに触れましたが、エノクの他には誰がいるでしょうか。聖書で次に出て来る人はノアです。そのノアの歴史を語るに当たって、聖書は「ノアは神と共に歩んだ人」として紹介しています。
「これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」(創世記6:9)
上記でいう「その時代・・・」とは、「地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になって」心を痛められた主が「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」と言われたような時代でした。(6、7節)
しかし、ノアだけは、主の心にかなっていました。そこで神はノアに「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている」(創世記6:13)と語られました。
そこで神は、皆様よく御存知のように、唯一人の「全き人」ノアとその家族だけを生存させるために、ノアに巨大な箱舟を作らせ、彼らの家族8人と、後はすべての生き物の中からそれぞれの種類の雄と雌一つがいを選んで舟に乗せるように命じました。そして神は、地球上に前代未聞の大洪水を起こし、悪を極めた人類の残りすべてと生き物を全滅させたのです。
当時の人々は、陸の上で巨大な箱舟を造りながら人々に世の終わりが来ると警告し続けたノアをからかい嘲笑するばかりで、洪水が押し寄せ箱舟のドアが閉じるその瞬間までノアの言うことを信ぜずに死んで行きました。
このノアの洪水と箱舟の話は決して単なるおとぎ話ではなく、本当に起った恐ろしい話です。神はこの世の終わりに、頑なに真の神を拒否し続けるノアの時代と同じような不信仰な人間に対して「最後の裁き」の審判を下すことが聖書では明確に預言されています。
さてここで、私が問題にしたいのは、ノアのどこが正しく、全き人であったかと言うことです。私はノアがすべてにおいて神の言われることに聞き従い、それを忠実に実行したことによって神の目に「正しく、全き人」であったのであると思います。
しかも驚くべきことに、ほとんどノア一人と後は家族数人だけで、全長132メートル、横幅22メートル、高さ13メートルの巨大な何万トンクラスの木造船をこつこつ作り上げたのです。恐らく百年以上掛ったことでしょう。材料の原木を山で伐採して海辺まで運び込み、それを製材機械で加工して、正確に組み合わせて造ったのですから、その方法と製材道具、それに精密な舟の設計図、造船技術に至るまでのあらゆることを、どうして経験のない素人のノアが考え付くことが出来たのか、想像を絶します。
考えられることは唯一つ、ノアは毎時毎分すべてを神に聞いて、神はそれに綿密に答えてノアを指導しながら建造して行ったということです。これは本当に驚くべき神とのチームワークであったと信じます。
私はここに「神と共に歩く」意味があると思います。念のためと思い、私はヘブル語で「歩く」と言う原語を調べてみました。そして分ったことは、この歩くという動詞は、ほとんどの場合、文字通り身体を動かして行く、来る、歩く、旅をすることを指しており、比喩的に使われているとしても、「人が身体を動かしている時は、いつも神と共に、神の御前で、神の御心に従って行動をする」ことを意味しているのです。
と言うことは、私たちが朝起きて寝るまでの間、身体を動かしている時間は、ノアのように、いつも神に聞き耳を立て、分からないことはすべて神に聞いて神の言うことに従うことが「神と共に歩む」ことであると言うことになります。その結果が神が喜ばれる「正しい人」で「全き人」になる訳です。
そこでもう一人の例を見てみましょう。それはアブラハムです。神は彼にノアと同じことを要求しました。
「アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現れ、こう仰せられた。『わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。』」(創世記 17:1)
新共同訳では、主が言われた部分を「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。」と訳されています。
エノクは300年間神と共に歩き、生きたまま天に取られました。それはエノクが神と親密に話し合いながら、言われたことを忠実に実行したから「正しい人で全き人」と言われ、神に喜ばれていたからです。(ヘブル11:5)
リック・ジョイナー師は天で色々な人に出会った中で、エノクと言う人は最もハッピーな(喜びに満ちた)人であったと言っています。それほど「主と共に歩く人」の人生は最高にすばらしい人生となるのです。
主のしもべ Bond servant になる
もう二十年も前になりますが、私は17世紀に生きたブラザー・ローレンスと言う人の本を読んで心を打たれました。彼は、何をしていてもいつも主のことを思い、主を喜ばすこと以外には何もしない人であったと言うのです。主と絶え間なく会話をしながら、主の臨在の中で主と二十四時間共に語り合いながら生きる人でした。夜は4-5時間必ず主と時間を共に過ごしました。
ブラザー・ローレンスを知った後で、私は同じくフランス人で17世紀に生きたマダム・ガイヨンの本を読みました。そして、彼女のように本当にすべてのことを神の手に委ねる決意をしようと思いました。彼女が提案する「主に完全に所有される、possessされたい」と思ったのです。
彼女は言います。「それは全面的に自分の存在を放棄し、神に手渡すことです。具体的に言えば、あなたの人生で起こるすべての事、あなたの身に毎時毎分起っている事の総ては神の御心か、あるいは神の許可を得て起こっていることを心から信じるのです。総てが神から出たもので、総てがあなたに必要なことであると信じなければなりません。」
マダム・ガイヨンは「あなたが主に対してそこまでの信仰が持てるようになれば、あなたの身にどんなことが起ってもそれを安心して受け入れることが出来るようになります。」と言います。これは大変重要なことであると思います。それでなければ、何が起こっても、「いつも喜んでいなさい。」「すべてのことに感謝しなさい。」と言う聖書の言葉はうそになります。
ガイヨン夫人は問いかけます。「あなたは真に心から全面的に神に自己放棄することを願いますか。これがあなたの生涯を通しての心構えでなければなりません。そうすれば、あなたは神によって完全に覆われ、神の支配下に入ります。」
「あなたが何かしたいという思いが来たら、その思いがどんなによいと思っても、自分からの欲望ならばそれを拒否して下さい。これを徹底的に行うことによって、自分には全く無関心にならねばなりません。 本当にそれを実行すれば、考えられないほどすばらしいことが起き始めます。その結果は自分から完全に解放され、後は主の御心だけを熱望するようになります。」「そうなると主があなたを離さなくなり、主と深い深い愛の関係に入ります。」とマダム・ガイヨンは言います。
私自身の話にもどりますが、私は当時、自分を主に完全に放棄することが、自分を主の十字架につけることであると信じました。
そして、私はそれを実行しようと一度は決意をしたのですが、長続きはしませんでした。その後幾度か決心をし直しながら、自分のふがいなさをその都度主に悔い改める年月が過ぎて行きました。つまり、毎日毎時毎分「主と共に歩く」ことはとても出来ないことが分ったのです。
今年になってからも神に possessされたいという思いが私にもどって来ました。そして、徐々に自分がその決意を曲がりなりにも実行出来る日が近づきつつあることを今、感じております。少しづつその目標に向かって主が私を変えてきてくださったからです。
私が主に全面的にpossessされたいと言う願いは、実は新しい考えでも特に崇高な考えでもありません。昔から聖書に書かれていることです。それは「主のしもべになる」ことです。旧約聖書に出て来るモーセとかダビデ、あるいは新約の使徒たちは皆、自分たちを「主のしもべ」、すなわち英語で言うBond servant と呼びました。旧約の時代の古い昔から「奴隷」と言う身分の使用人とか労働者が多くいて、その人たちはお金で売買されていました。
クリスチャンはまさにイエス・キリストが主人であり、クリスチャンになった時にキリストが御自分の血潮で代価を支払うことによって私たちを買われた結果、私たちはキリストの「持ち物」となったのです。自分の一生を主人の持ち物possession として捧げる、自分には何も権利がない、すべて主の命令に従う「しもべ」になることを自らの意思で喜んでなったのです。その代わり主がそのしもべの生活の一切の面倒を見て下さいます。
奴隷は主の命令で「死ね」と言われればそれに従わねばなりません。給料も支払われず、一定期間食べさせてもらって働くだけです。しかし、その義務期間が終了したとき、もしその奴隷が終生その主人に仕えることを自らの意思で選ぶならば、その奴隷は家族共々一生その主人に仕える者となります。その時、その家の門柱にその人の耳を錐で刺して穴が開けられBond servant となります。(詳しくは出エジプト21:5-6を参照下さい。)
御国の時代
今までの時代は、特別の賜物を持つ限られた人がミニストリーをしていた「教会時代」であったとすれば、これからは「御国の時代」に入り、キリストに似た者が100%主の方法でミニストリーをする時代になる、と今多くの使徒的・預言的な方々が言っています。
ある人は、自分に死んで主に100%委ねている人には、聖霊に加えてイエスご自身が霊の形で入って来られ、主が直接業をされると言います。これが主によって完全にpossess された形であるのかもしれません。
これからは使徒行伝に書かれているような、奇跡と癒し、死人をよみがえらせる業ですら日常茶飯事のように起ることが期待されます。
そこで皆さん、御国の業が出来る人になる第一の資格は何だと思いますか。実に簡単なことです。それはイエスが山上の垂訓で最初に言われた「心の貧しい者」になることです。それは真の主のBond servantとなることに等しいと私は思います。主は「天の御国はその人たちのものだから。」と言われました。
これはどう言う意味でしょうか。それは洗礼を受けたクリスチャンが「よみがえって霊で生きる」ことを本当に実行しようとする時に、最初に気付いて、「主よ、私の中には何もありません。何を始めることも出来ません。」と主に告白することです。
「霊に生きようとしても自分の霊の中には何もない、あるものはみな無益無用 futility なものばかりである」と気付く人です。これは Oswald Chambers 師が言われたことばです。
そのような人は主にすがりつき100%主に頼ります。
これからのミニストリーはこう言う人たちで行なわれると言われます。皆さん、大勢の成長しないベービーばかり作るのが主のお望みではありません。病人が来ればすべての人を癒されたイエス・キリストに似た「弟子」を作り、その人たちが、主以上の奇跡を起こす時代になるのであると信じます。そのために教会の中身と仕事の方法が、これから主によって抜本的に変革されるでしょう。
私はこれから来る世の終わりのさばきの時、あるいは刈入れの時には、ちょうど洪水のさばきの折に「主と共に歩く」ノアだけが用いられたように、やはり「主と共に歩く」すなわち、主の完全な持ち物になっている「全き人」だけが用いられる可能性が充分あると信じます。従って真に御国を「主と共に歩く」皆さんに大いに期待しております。(終り)