生きている殉教者になる ウエイド・テイラー 2013年6月22日
生きている殉教者になる
ウエイド・テイラー
ガラテヤ2:20「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」
「私は生きている、しかし私が生きているのではない。I live; yet not I」という言葉は、自分を完全に主に明け渡した人ならば、心の奥深いところで共感すると思います。
キリストと一つになることが、 このように高い次元で日常的に実現するためには、私たちは一つのプロセスを通る必要があります。イエスが主の御からだ(私たち)のかしらとしてはっきりと顕され、私たちは透明となって(見えなくなり)、人々はただ主だけを見るようになります。その時、主は私たちの人生を通してご自分のいのちを生き始められるのです。これが終末における「証人」であり、この世に大いに影響を与えるものとなります。
使徒行伝1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして...わたしの証人となります。」
「証人 witness」と訳されている言葉は、原語であるギリシャ語では「殉教者 martyr」を表しています。私たちは自己中心の、自分で生きるいのち(生き方)に死ねば死ぬほど、イエスのいのち(生き方)を表すものとなります。私たちはこの証人となるべき者であるのです。私たちがイエスとの個人的関係に入り、自分の意図と目的が主と一つになるときに、私たちの人生を通して主のいのちが人々に見えて来ます。
殉教者として(肉の)いのちを捧げる機会を与えられるものは多くはないでしょう。しかし私たちは皆生きている殉教者になることはできます。 「私は生きているが私ではない I live; but not I」という人生の証人となれるように、神は私たちを デザインし造ってくださいました。
いかにして主の証人になるか
「神は人をご自分のかたちimageに創造されました。」(創世記1:27)
しかし人は罪を犯すことによって、神のかたちimage(私たちの霊)を失いました。キリストの贖いの業により私たちの霊は回復されましたが、私たちはそれを育み霊的成熟を遂げねばなりません。
ローマ8:29「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。」
「同じ姿にされる to be conformed」という言葉は、そのプロセスに私たちが服さねばならないものであることを示しています。
ピリピ3:13−14「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえれたなどとは考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前にものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」とありますが、この「上に召してくださる神の栄冠を得る press toward the mark for the high calling of God」という機会を与えられても、すべてのクリスチャンがそれに応答するわけではありません。それには条件があり、私たちのあがないに反対する敵によって強い攻撃を受けるからです。しかし、私たちがひたむきに前のものに向かって進み続け、すべての反対を押し切るならば、私たちは「勝利者 overcomer」となるのです。
創世記2:7「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は、生き物(living soul)となった。」
主はアダムの中に「(複数の)いのち」の息を吹き込まれました。それは人が地上のいのちと天上のいのちという二つのレベルのいのちで生きるように創造されたからです。原語ではここの「いのち」という言葉は複数です。人は「形造られ」(soul)、次に「息(spirit)を吹き込まれ」ました。人は神に依存して生きるように造られたので、見守られ保護された環境の中に置かれたのです。
アダムが「依存する」ことを選びとるためには、「依存しないで独立する」ことを選ぶチャンスも与えられねばなりませんでした。神に依存する状態にとどまることによって、彼の霊は主と交わることができ、それこそが主の意図されたことであり、又、願いでした。アダムが善悪を知る木の実を食べたとき、アダムの「霊」の部分が死にました。アダムの罪の結果として、人はただの「ちり(soul)」となり、はじめに人に吹き込まれた霊の「分与」なしには、誰にも、また何にも堅く結びつくことができなくなりました。 そして創造主の購いの業なしには、人は自分が創造された神の意図、目的には入っていくことはできないのです。
私たちが悔い改めイエスを自分の救い主として受け入れた時、アダムが失ったもの(霊)が回復され、私たちのうちで機能し始めます。
神の栄光を身に纏う
第一ペテロ2:2「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。」
霊的な乳飲み子である私たちの中に回復された霊の部分は、成長、成熟していかねばなりません。購いの業によって「新生」を経験した私たちには、二つの領域に対する 認識、自覚が初めて与えられます。即ち地上(魂の領域)と天上(霊的領域)です。前者は私たちの肉的ないのちのことです。
第一コリント15:49前半「私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように...」とあるように、私たちは簡単に地上の領域に対応し、その中で機能することができます。それは私たちの自然な環境であり生活です。しかし私たちの創造は地上の領域で存在するものと言うだけで終るのではありません。「二つのいのち(地上の魂のいのちと天上の霊のいのち)」が人の中に吹き込まれたからです。
そして第一コリント15:49後半「私たちは天上のかたちをも持つのです。」とあるように、私たちは「霊の領域」でも機能するように創造されたのです。しかし、私たちを魂の領域である地上に縛られたままにしておこうと暗躍する敵がいます。ですから、私たちが天上の領域で機能するためには主に依存する者にならねばなりません。そこにおいて私たちは主との関係をますます深めることができるのです。これは本当にすばらしことです。有限なもの(人間)が天の領域で無限な方(神)と親しく交わるのです。霊的ないのちという更に崇高な領域で霊的に成熟することによって、 イエスのいのちとミニストリーをこの世の人々に見える形で具現する「表現expression」に私たちはなれるのです。キリストのからだであるクリスチャンが皆で(ひとりの)イエスとなり、御父の栄光を具現し、神の千年王国を建設していくのです。
山上の変貌の際にイエスは、ご自分のうちにあるシャカイナの栄光を表されました。しかしその時はまだその栄光は私たちには与えられていませんでした。今、主の復活と昇天により、幕が裂かれ、私たちが主のシャカイナの栄光の中に入って主と一つになって共に輝く道が開かれました。最早「炎の剣」(創世記3:24)は私たちが主の栄光を経験するための妨げではなくなったのです。
アダムは自分が裸であるのを恥じて主の臨在から隠れたのだと言いました。この「裸」は衣服とは全く関係がなく、主の臨在の中に入り主と語りあうことを可能にしていた「シャカイナの被い」が失われたことを意味しています。
そこで主は彼らに別の「被い」を与えるためにけものを殺しました。それは過ぎ越しの小羊となり、そしてイエスの血潮となりました。私たちはイエスが与えてくださった罪の「被い」の中にとどまり主の赦しを受けることが出来ますが、アダム(私たち)が失った主の栄光で被われるまでには至っていないのです。
エペソ1:18「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか...あなたがたが知ることができますように。」
多くの人は、イエスの十字架の購いによる救いの被いを受けただけで満足し、居心地よくそこにとどまってしまいます。主は私たちが失ったもの、主のシャカイナの栄光をすべて完全に回復したいと願う人々を求めておられます。
第二テサロ二ケ1:10「その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け...」
イエスは栄光のうちに天に上られ、栄光のうちにもどって来られます。主の変貌の栄光を受けようと更に求める者たちは、終末において栄光の主の証人となり、彼らを通して、イエスご自身の大いなる臨在と力がこの世に表されるでしょう。
イザヤ60:1−3「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ、やみが地をおおい、暗やみが諸国のたみをおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」(終り)