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15 4月

「どうすれば神は私にもっと語ってくださるのか」    ジャック・ディーヤ Jack Deere        2013年4月15日


「どうすれば神は私にもっと語ってくださるのか」

 

ジャック・ディーヤ Jack Deere

 

 

私はこの掲題の質問を多くの人から聞かれます。そこで私はある時決心をして、真剣にこの質問への答えを探してみました。先ず私は、聖書に出てくる人の中で神の御声をよく聞くことで有名なすべての人たちについて、祈りながら熟考 meditateしてみました。次に、現代の人で御声を聞くことで知られている人たちに聞いてみました。そして最後に、自分自身の今までの経験をかえりみながら、神の御声がよく聞けた時と聞けなかった時について分析してみました。その結果、神の御声がよく聞ける状態になるのには、三つの本質的な特徴があることに気が付きました。

それは「いつも 神に仕えている、あるいは、その用意が出来ているかavailability」、それを「喜んでする気持ちがあるかwillingness」、そして、「神に対して本当にへりくだっているかhumility」 の三つです。

 

「いつも 神に仕えるているか availability」

 

誰よりも神の御声を聞かれたイエスの生涯を調べてみて、真っ先に感銘したことは、イエスはどんな時でも無条件に神に対して仕える用意が出来ていたことです。私がそのことを最初に気付いたのは、私がクリスチャンになって一年ぐらい経った時でした。マルコの1章を読んでいた時、イエスは町中の病人や悪霊につかれた人たちを夜遅くまでかけて癒しておられた(32-34節)にもかかわらず、翌朝は「まだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」(35節)とマルコが語っています。普通の人にとっては、夜遅くまでミニストリーをした翌朝ぐらいは多少の朝寝をするのはもっともであり仕方がないと思われるでしょうが、イエスは毎朝の日課である神を求めて祈ることをおろそかにはしませんでした。(ルカ4:42、5:16も参照)

私のクリスチャン生活の最初の頃、私はよくこの話をして「イエスは常に神に対して時間をつくっていた」ことを強調していましたが、今はそう言う見方をしなくなり、むしろ神の子が過ごした時間は、生涯を通して「すべて完全に父の時間そのものであった」と見るようになりました。イエスは決して急いでことをしたり、時間が足らないということはありませんでした。なぜなら主はご自分の時間は常に父の時間と同じと見ておられ、父がしておられることを見た通りに、それだけをご自分も行ったからです。(ヨハネ5:19)そうして、彼は天の父の望まれることを成し遂げるために、常に正しい場所に正しいタイミングでおられたのです。

イエスは何をされるときでもその態度は全く自然で四角張らないことに私は気付かされ、それに益々感銘を受けております。イエスは予期もしなかった五千人以上の群集を前に話された時も、山上の垂訓を語られた時も、井戸端で会った一人のサマリヤの女と話をされた時も、常に語ることが準備されており、正しく必要なことだけを話されました。イエスが説教のメッセージを作るのに苦労したことがあるなどとは想像することも出来ません。なぜなら彼の生き様そのものがメッセージであるからです。それは毎日の、天の父との深い交わり(コミュニオン)から溢れ出るものによってなされたからです。それはイエスがどんな時も常に御父に仕えていたからです。

 

私がこんなお話をするのは、毎日主と「静かな時」を持つことを力説しようとしていると思わないでください。それよりもずっと深いことを話しているつもりです。私は、毎朝5時半から聖書を読んで主と「静かな時」を過ごしながら、それでいて、毎日をゴミ捨て場をうろつく犬よりも惨めで(心の貧しい)人生を忙しく送っている人々を知っています。毎朝主との時を持ちながら、同時に神に仕える生活を全くしていないことはあり得るのです。毎朝の静かな時を主と過ごす日課をやりさえすれば、後は全く神のことなど忘れて一日中自分の生活に没頭する人たちと違って、神にいつも真に仕える人たちは自分の一日はすべて神のものであると考えているのです。そのような人たちは一日中主の臨在を経験しながら、主に喜んでいただくことだけをすることで満足する人たちです。

 

多くのクリスチャンは、宗教的な義務を熱心に果たすことによって神に満足してもらえると思っているかもしれませんが、神が本当に喜ばれるのは、私たちが神と親しい「友人関係」になることです。(ヨハネ15:15)私たちの本当に親しい友人が困った時とか、助けが必要な時には、万難を排してでもその人のところに飛んで行って助ける気持ちになると思います。相互にそのような気持ちを持つ関係、それが真の友人関係です。すなわち、友人関係とはその人のためなら、いつでもその人のために尽くす用意がある関係、これがavailability です。天の父と私たちとの関係も同じです。神はご自分に最大限に尽くす用意のある人には、神もその人に最大限尽くされます。多くのクリスチャンは神がそのような方であるのは公平ではない、神はすべてのクリスチャンに対して、どのような時にもいつも誰にも公平に尽くされるべきだと考えがちです。そのように考える人たちは、神をまるで宇宙スケールのベル・ボーイ(使い走りの用足しをしてくれる人)とでも考えているのでしょうか。自分が神を必要としないときには、その人にとって神は何の関係もないのです。勿論そのような人は、神のめぐみと神との個人的関係を持つことの意味を全く誤解しています。神は豚に真珠を与えるようなことはしません。神を求める人が神を見いだすのです。(申命記4:29)

もし私たちが神と深い友人関係を持ちたいなら、私たちの過ごす時間はすべて神のものであり、私たちは常に神に仕えていると言う心構えを持っていることが非常に重要です。又、この気持ちで毎日を過ごすことの重要なのは、神は私たちが一番不用意で都合の悪い時に話し掛けられるからです。時として神は、ご自分の最もお気に入りのしもべを宣教の旅に出しておきながら、途中でその仕事を中断させ、別なところに行くように命じたりします。使徒行伝16:6-10に出てくるパウロたちがそうでした。神は彼らに時間と、お金、エネルギーを「無駄に使わせ」てから、彼らを別な方向に向かわせたのです。それは神が、あたかも私たちが本当に神に対して忠実に仕える気持ちが常にあるかどうか(彼らの時間は神の時間であることをいつも心得ているかどうか、又、自分のやり方でやるのではなく、神のやり方に従っているかどうか)をテストしておられるように思えます。

神は夜中の三時にぐっすり眠っているあなたに夢を与えて目を覚まさせ、忘れないようにそれをメモに書き取らせたりします。あなたがどんな時でも忠実に神に仕える用意があるなら、神もあなたに仕える(祈りに応えてお話しをする)用意があることを思い出してください。イエスが十二人の使徒を選ばれた時、先ず山に行かれて父に祈り一夜を明かされました。(ルカ6:12)そして明け方、ご自分の望まれる弟子たちを呼び寄せて、十二人の使徒を任命されました。(マルコ3:13-15)ここで明らかなことは、イエスが彼らを任命した目的は、彼らを世に遣わして福音を述べさせ、悪霊を追い出させることでした。しかしその前に、先ず使徒たちをイエスの身近に置かれました。彼らにミニストリーをさせるためには、彼らが常に神に仕える用意があるように習慣づけさせることが先決でした。イエスと親しく緊密な関係  intimacy を持つことがすべての主のミニストリーの基礎であるのです。福音を説くとか証をする場合に、その証しが、その人の持つ神との親しい関係から自然に溢れ出る時に、油注がれ、それを聞く相手の心を動かす力が伴います。常に神の傍に仕えていることが、ミニストリーをするに当たっての第一のプライオリティーであり、又、神の御声を聞くための第一の必要条件であるのです。

 

その仕え方には受動的な面と能動的な面があります。多くの場合に私たちは、ただ主を待ち望むことが必要ですが(エレミヤ42:1-7、イザヤ40:31)、その反面、能動的に何かを行なうことが必要な場合もあります。(マタイ6:33)どのくらい待てばよいのでしょうか。朝三十分、昼食後一時間、夜二時間位でしょうか。その正しい答えは、私たちは主が現れるまで求め続けることなのです。(ホセア10:12)多くの人は毎朝、三十分とか一時間、聖書を読んで祈り、たとえその時に主の臨在が現れなくても満足します。しかし同じ人が、その人の友人の一人と一時間話をして、もし相手の人が本当に聞いてくれていると言う反応がなかったら、恐らく満足しないでしょう。単に宗教的な義務感からディボーションを長年続けて来た人たちにとって、何十年もの間ほとんど神の臨在を経験したことがないために、神の反応がないままでも(それに慣れてしまって)満足してやり続けている人たちが意外に多くいるのです。(訳者注:宗教的な人たちです。)

 

ハバクク2:1で「私は、見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り、主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう。」と書かれているように、常に神に仕えている人は、神が話してくださることを当然のように期待します。そのような人の態度はいつでも神に対して「お話しください。しもべは聞いております。」(1サムエル3:10)であるのです。まさに「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」(ヤコブ4:8)ではないでしょうか。(続く)


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