宗教の霊に打ち勝つーその4 リック・ジョイナー 2013年3月31日
宗教の霊に打ち勝つ その4
リック・ジョイナー
光の天使
パウロがコリントのクリスチャンに「宗教の霊で働く者たちを警戒せよ」と言いましたが、それは始ったばかりの教会に律法主義というくびきを負わせようとする者たちに対する警告でした。彼は次にように説明しています。
「こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。ですから、サタンの手下どもが義のしもべに変装したとしても、格別なことはありません。彼らの最後はそのしわざにふさわしいものとなります。」(第二コリント11:13−15)
「光の御使い」という言葉は「真理のメッセンジャー」とも解することができます。最も偽り深く恐ろしい変装は、義のしもべになりすまし、 真理を破壊することを目的に 用いることです。サタンは聖書を引用し知恵を用いることに長けていますが、その知恵は知識の木の知恵であり、人を殺すものなのです。彼は人の欠点や落ち度を的確に指摘することが出来ますが、それはその人に解放といのちを与えるのではなく、その人をズタズタにしてしまうようなやり方でするのです。
宗教の霊から力を得た「光の御使い」は、まず最初に人の正しいところではなく間違っているところを探そうとします。この霊は通常、羊を守り真理や主の栄光を守るようなふりをしてやってきますが、実は邪悪で批判的な霊であり、常に分裂や破壊という結果を招くのです。
批判とか批評は一見知恵のように見えますが、実は最も卑劣なプライドの一つなのです。私たちが誰かを批判する時、本当のところは「自分は彼よりは良い」と宣言しているのです。私たちはある面では他の人よりまさっているかもしれません。もしそうだとすれば、それはただ神の恵みによるのです。真の神の恵みを理解するクリスチャンは、決して人を見下すような道を探すことはせず、むしろ人を建て上げる方法を探すのです。
宗教の霊と殺人
アダムとイブが善悪の知識によって生きることを選びとったとき、彼らは宗教の霊を受けたのです。その最初のあらわれは「自分中心」でした。即ち彼らは自分自身を見始めたのです。彼らがこの実を食べたあとカインが生まれましたが、カインは聖書の中で宗教の霊によって支配された者の最初のモデルです。
カインは「地を耕すもの(創世記4:2)」でした。彼の思いは「地」にあったのです。宗教の霊は、私たちを天の領域ではなく地の領域に焦点をおくように常に企むのです。「カインの子孫」は目に見えるものによって物事を判断し、「目に見えない方を見るようにして忍び通す者(ヘブル11:27)」を理解することができません。
黙示録13章には二番目のけものが「地から上って来た」とありますが、これはカインの霊の子孫は地を耕す者であるからです。「地に思いをおく、地のことだけを考える」ことは、歴史上最も邪悪なけものの一つを生み出すのです。
カインは又、自分の労働の実を主に捧げようとしました。主はその生け贄を拒絶し、アベルの血の生け贄は受け取られました。私たちの労働の実は、決して主への捧げものとして受け入れられることはできません。神が小羊の血だけを生け贄として受け入れられることは始めからの神の御こころでした。カインは訓戒を受け入れて悔い改めることをせず、アベルを嫉妬し殺害しました。自分の働きによって生きようと試みる者は、往々にして、小羊の義により頼む者に対して激しい怒りを抱くものです。
パリサイ人の中のパリサイ人であったタルソのサウロが、クリスチャンに対して怒り狂ったのはこの理由によります。パリサイ人が人生をかけて築き上げてきたものを最大限に脅かす者、それがクリスチャンだったのです。それ故にパリサイ人たちはクリスチャンの存在に耐えることができなかったのです。自分の業を土台にしている宗教は、いとも簡単に暴力化するのです。キリスト教と称するセクトで、キリストの十字架の業を自分の業に置き換えてしまった教義をもつものも、これと同じです。
主は、兄弟を憎むならばそれは殺人と同じであると言われました。(マタイ5:21−22参照)宗教の霊によって駆り立てられる者が、人を実際に殺す以外の方法でその人を滅ぼそうとすることはありがちなのです。教会やミニストリーに対して浴びせられる批判、非難の多くは、カインにアベルを殺害させたと同じ霊が怒り狂う結果なのです。
真のメッセンジャーのテスト
エゼキエル37章で、エゼキエルは乾いた骨の谷に連れていかれ、これらが生きることができるか、と主に訊かれました。次に主は「骨にむかって預言せよ」と命じられました。彼が預言すると、骨は集まってきて生き、大いなる軍隊となりました。これは真のミニストリーが合格せねばならない重要なテストです。真の預言者は、乾涸びた骨の中にさえ偉大な軍隊を見ることができねばならないのです。エゼキエルは骨にむかっていのちを預言し、骨がいのちを得て軍隊になるまで預言し続けたのです。宗教の霊を持つ偽りの預言者は、骨にむかって「お前たちはどれほど乾涸びているか」を告げ、彼らを罪に定め絶望させるだけであり、彼らにいのちを与えるとか、今の状況から抜け出す力を与えたりはしないのです。
使徒と預言者は、「建て上げ、また崩す権威」を与えられています。しかし、まず建て上げることをしないならば、崩す権利はないのです。霊的に人々を養い、建て上げてきた人以外には、私たちに責任のある人たちを正す権威を与えてはなりません。「預言者」と言われている人であっても、人々を建て上げる心を持たないならば、その人はミニストリーから取り除かれるべきだと私は思います。
しかしながら、エリの悲惨な例に見るように、羊を養い世話はしても彼らの間違いを正さないならば、その牧者はわざわいです。真の神の恵みは、「人のあら探しをする不義」と「(神が罪と定めたものを承認してしまう)聖ではないあわれみ」という両極端の中間にあるのです。この両極端のどちらもが、宗教の霊の結果である可能性があるのです。(続く)