24 3月
宗教の霊に打ち勝つ - その3
リック・ジョイナー
宗教の霊が用いるプライドという土台
宗教の霊が偽装する姿の中で最も偽り深く破壊的なものの一つに理想主義があります。理想主義は ヒューマニズムのとる一つの形であり、人間に端を発しているものです。一見それは、最高の水準を求め神の栄光を追求しているように見えます。しかし理想主義は恐らく、真の啓示と真の恵みに対して最大の毒をもつ敵なのです。それは、人々が神の恵みと知恵の中へと成長することを阻み、神の栄光を追い求めつつもまだそこまで到達していない人々が立っている土台を攻撃し破壊してしまうからです。
私たちが理想主義を掲げるならば、神が人に求めているもの、又それを達成するためにその時点で与えておられる恵み以上の水準を、その人に対して押しつけてしまうのです。 このような宗教の霊に支配されている人は、例えば、自分と同じように一日に2時間祈らない人を断罪してしまう可能性があります。人がそのくらい祈るのは神の御こころかもしれませんが、どのようにしてそこまでに達するかが、実は一番重要なのです。神の恵みは まず一日に10分祈るように私たちを招かれるかもしれません。やがて私たちはそれによって主の臨在で大いに祝福され、更にもっと主と共に時を過ごしたいと思うようになり、10分、そして1時間が過ぎても祈りを止めたくなるのです。そしてついに2時間祈るようになったとき、それは私たちが祈りを愛し主の臨在を愛するからであり、恐れとプライドからではないのです。
理想主義に根ざした宗教の霊を持つ人は、通常、「完全な教会」を探します。そしてそれ以下の教会に参加することを拒みます。他方、聖霊に導かれる人も又、教会に対しては高い望みを持つかもしれませんが、どのように小さな仕事にも自分を捧げ、その奉仕によってその教会のヴィジョンと成熟度が増すように助けようとします。聖霊は「助け主 helper (ヨハネ14:26)」と呼ばれます。聖霊によって真に導かれる人は、ただ高い所から教会を批判するのではなく、 自分が手伝えることはないかと常に探します。
宗教の霊がプライドを土台としている場合、それは完全主義によってはっきり証明されます。完全主義はすべての事柄を黒か白かに区別したいのです。ついには、すべてのもの(人、教え等々)は、100%正しいか100%間違っているという極端な判断をするようになります。もしそのような基準を人々や或いは自分自身に課するならば、私たちは重大な惑わしに落ち込むことになります。
宗教の霊を持つ者は、非常に正確に或る事に関しての問題点を指摘することが出来ますが、それはすべて建て上げられたものを崩すだけのものであり、 殆どの場合問題に対する解決策はもってはいません。すでに存在するものの進歩を止め、将来の発展を阻む失望落胆の種を蒔くのが、敵の策略です。これは「もし山頂まで登れないのなら、最初から登らない方がよいのだ。ただ自分に死ねばよいのだ」というメンタリティーに人々を陥らせるのです。しかしこの「死」は神が求めておられる「日々自分の十字架を負う」というものではなく、それを曲解し歪められたものなのです。
完全主義者は、自分にも他者にも、真の成熟と成長の息の根を止めてしまうような基準を課すのです。真の神の恵みは、山頂まで私たちを一歩一歩導いてくれるものです。神は私たちが登っていくとき、何回かつまずいたからといって 私たちを断罪されたりはしません。神は恵み深く、憐れみ深く、私たちを立ち上がらせてくださり、私たちが又進んでいけるように励ましてくださるのです。私たちは勿論頂上まで行き着くというヴィジョンを持たねばなりませんが、それと同時に、登り続けている限り、まだ頂上に達していないことで自分を断罪するべきではありません。
ヤコブは「私たちはみな、多くの点で失敗するものです。(ヤコブ3:2)」と言っています。 主のために働くためには私たちは完全になるまで待たねばならないとしたら、誰一人としてミニストリーをする資格のできる者はいないでしょう。完全なる従順と悟りを常に私たちの目標とするべきではありますが、それは決して私たちのうちに見つけられるものではなく、「完全なるお方」の中に私たちが完全にとどまることによってのみ可能なのです。
私たちは今「ぼんやり映るもの(第一コリント13:12)」や部分的にしか物事を見ていないのですが、信仰や教えに関して更に正確に知ることに対しては常に心を開いていなければなりません。すべての惑わしの中で最も大いなる惑わしの一つは、「自分はすでに理解において完璧である」とか「自分は物の考え方、認識、行動において100%正しい」と思ってしまうことです。宗教の霊を持つ人は、通常、「自分は更なる理解に対してオープンである」と言い張るのですが、殆どの場合、それは彼らの教えに対して人々をオープンにするためであり、自分は他の考えに対して頑に心を閉ざしたままでいるのです。
主の弟子養成のスタイルは、「私に従う者はしばしば間違いを犯すが、その間違いから学ぶ機会を私は与える」というもののようです。もし自分の子供がまだ小さいのに完全に成熟することを要求するとすれば、その子が成長する道を阻み窒息させてしまいます。教会においても同じなのです。私たちは確かに間違いは正さねばなりませんが(それによって学ぶのですから)、その方法はその人を励まし自由を与えるような矯正でなければならず、罪に定めてその人の芽を摘んでしまうようなものであってはなりません。
恐れとプライド
宗教の霊が、恐れとプライドの両方を土台として働くときは、最もパワフルで人を大きく惑わす霊となります。このような宗教の霊に縛られている者は、失敗をした時は深く落ち込み後悔の時を過ごしますが、これは偽りの悔い改めでしかなく、更なる自己卑下という結果を生み、自分は主に受け入れられるためにもっと生け贄を捧げねばならないと思い込むのです。又彼らは、往々にして、次にはその逆の反応を示し、自分が他のクリスチャンよりも優れていると信じ込み、他の意見、教えを受け入れなくなります。又、人からの勧告も聞くことができなくなります。彼らの意見、立場のよりどころは、真の信念からというよりは外からのプレッシャーによります。
この種の宗教の霊は非常に巧妙で捉えにくく、それに対処、言及、対決しようとするあらゆる試みからすりぬけてしまいます。プライドに対して言及すると、恐れ、不安の念がその人のうちに起り、同情をひこうとしてきます。恐れに対して言及すると、信仰のふりをした宗教のプライドが頭をもたげます。
偽の「霊の見分けの賜物」
宗教の霊は通常、偽の「霊の見分けの賜物」を人に与えます。この偽の賜物は、ある人に対する神の御こころを知りその人を助ける道を与えるのではなく、その人の悪いところを見つけて喜びそれによって力を得るのです。これこそまさに宗教の霊が教会に最大の打撃を与える方法の一つなのです。宗教の霊によるミニストリーは、癒しや和解ではなく、分裂やダメージを教会に与えるのです。宗教の霊の知恵は善悪を知る木に根ざすものであり、その言うところは真理かもしれませんが、それは人を殺す霊をもって人に作用するのです。
この偽の「霊の見分けの賜物」は、疑いと恐れを原動力とします。 疑いは自分は拒否されたという思い、自分の縄張りを守りたい思い、不安感、自信のなさ等に根ざしています。真の見分けの賜物は、愛によってのみ機能するのであり、愛以外のすべての動機は、霊の見分けを歪めてしまいます。誰かがある人、又はあるグループに対して裁きや批判をする場合は、いつでも私たちは(その人が裁いている相手に対して愛し仕えていたことを知っている時は別として)その言葉を無視せねばなりません。(続く)