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06 3月

宗教の霊に打ち勝つ ― その2          リック・ジョイナー           2013年3月6日


宗教の霊に打ち勝つ ― その2

 

リック・ジョイナー

 

大いなる惑わし

 

宗教の霊の惑わしの性質の中の最たるものの一つは、それが人々の神への熱心さを土台にして働くということです。私たちは「神への熱心さが悪いことなどあり得ない」と考えがちです。しかし、「私たちの神への熱心さは何が理由か」ということが実は問題なのです。

 

パウロはローマ10:2で「私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。」と言っています。パリサイ人ほど熱心に祈り、断食し、神に関することに熱心であった人たちは世界中探しても他にはいませんでした。しかし、神に対して、またメシアなるイエスが来られた時に、彼らほど激しく攻撃した者もいなかったのです。

タルソの若者サウロが神の教会を迫害していた時、彼は神への熱心さに突き動かされていました。 本当に熱心な者を止めるのは難しいものです。そのような者に対する敵の策略は、彼らが熱心さのあまり行き過ぎるようにさせることです。敵の策略の第一ステップは、彼らが自分の熱心さを誇るようにしむけることです。私たちに与えられた賜物や特質がいかにすばらしいものであっても、敵にそそのかされてそれを誇るならば、私たちは敵の手に落ち賜物を悪用するようになるのです。

 

主が地上におられた時、 主にとって悪霊は全く問題ではありませんでした。悪霊がイエスに出会うとすぐさま主の権威を認め、憐れみを乞うたのです。驚くべきことに主の最大の敵となったのは、熱心で保守的な宗教家たちのグループでした。神の御ことばに最も熱心であった者たちが、御ことばなるお方が肉体となって彼らの間に住まわれた時、御ことばを十字架につけたのです。今もそれと同じことが起こっています。

 

すべてのカルトや偽りの宗教を全部合わせたとしても、今までに教会内に侵入した宗教の霊ほどには神の働きに対して攻撃をしたり阻んだりはしませんでした。カルトや偽りの宗教は容易に識別が出来ます。しかし宗教の霊は、 今までに起こった恐らくすべてのリバイバルやムーブメントを邪魔したりその道を曲げて来ました。そして今も殆どの教会の中で大きな顔をして居座っているのです。

 

宗教の霊が足がかりとする土台

 

他の多くの敵の要塞と同じように、宗教の霊は基本的に二つの土台の上にその働きを建て上げます。即ち「恐れ」と「プライド」という土台です。私たちがイエスの十字架を通して神に承認され受け入れられるという道ではなく、主に承認されるために自分が働くようにと宗教の霊はクリスチャンをしむけるのです。ですから宗教の霊は私たちと神との関係を、キリストの十字架による生け贄によるのではなく、自分の努力によって築かせようとします。このように私たちを駆り立てる動機は、恐れ又はプライド、あるいは両者が合わさったものです。

恐れとプライドは、人類が罪に堕ちたことよって起こった二つの根本的結果であり、それから解放されるためには通常長いプロセスを要します。主がイザベルにさえ「悔い改める時(黙示録2:20−21)」を与えたのはそれが理由です。聖書の中のイザベル(アハブ王の妻)は非常に宗教熱心な女性でしたが、それは偽りの宗教でした。 彼女が悔い改めるための時を主が与えたのは、この霊の根が非常に深いからであり、完全に悔い改め解放されるには時間がかかるからでした。

 

しかしながら、主はイザベルに時間を与えはしましたが、テアテラの教会に対して、彼女をなすがままにさせていることを(20節)叱責しておられます。私たちが宗教の霊を持つ人たちに対して忍耐することはよいのですが、彼らが悔い改めをするのを待つ間、 彼らが私たちの中で働くのを放っておいてはいけないのです! もし、この霊に対して早急に対処することを怠るならば、それは他のどんな攻撃よりも、教会に、私たちのミニストリーに、家族に、又私たちの人生にダメージを与える可能性があるのです。

 

罪責感という土台

 

サムエルを育てた祭司エリは、罪責感を土台とした宗教の霊で神に仕えた人のよい例です。彼の主に対する熱心さは非常に激しかったので、契約の箱がペリシテ人によって奪われたことを知らされた時、ショックで倒れ息絶えたのでした。彼は一生の間、大祭司として主に仕えようと努力した人でした。サムエルが初めて預言を与えられた時、その預言は聖書の中で最も恐ろしいものの一つであり、しかもそれはエリに対するものでした。(1サムエル3:13−14)エリの主への熱心さは、彼が父親として無責任であったことの代償として生け贄や捧げものをするという形であらわれていました。罪責感は主への熱心さに拍車をかける作用をし、生け贄や捧げものは自分の失敗や罪を贖うためのものとなります。イエスの十字架のみが私たちの罪を贖うことができるのですから、これは十字架に対する侮辱です。このような熱心さは、たとえ 生け贄を永遠に捧げ続けたとしても、決して主に受け入れられるものではありません。

 

主はここで「エリの罪は赦されることはない」とは決して言っておられないことに私たちは注目せねばなりません。主はただエリが生け贄や捧げものをすることによって自分の罪を贖おうとする試みは絶対に成功することはない、と言われたのです。エリと同じように、 自分の罪や失敗、無責任な行動等を償おうと

することを土台とした主への熱心さをもつ多くの人々がいます。しかしながら、世界中すべての生け贄をもってしても、ほんの小さな失敗さえも贖うことはできません。

 

自分の生け贄によって神に受け入れられようとする試みは、宗教の霊にむかって大きく扉を開くことになります。なぜならばこのような奉仕はイエスの血潮を土台としておらず、自分で罪の贖いをしようとするからです。もちろんこれは私たちが主を喜ばせるために働いてはいけないという意味ではありません。しかし、主を喜ばせたいという私たちの動機は、それによって自分が受け入れられるためであってはならないのです。主が喜んでくださることだけを目的とすべきです。一方は神を中心とした動機であり、他方は自分を中心としています。これは十字架を回避しようとするものであり、自分中心の非常に破壊的行為です。(続く)


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