終りの日の勝利者(1-2) ポール・キース・デイビス Paul Keith Davis 2013年1月27日
このメッセージはモーニングスター・ミニストリーの「ニューイヤーズ・コンフェレンス」の二日目、12月30日(日曜日)朝のメッセージです。
終りの日の勝利者(1-2)
ポール・キース・デイビス Paul Keith Davis
本朝は、何かが起ると信じております。天が開いて主がここに降りて来られるのを期待します。私の願いは天が開いてヨハネが見たように主を見ることです。私はそのことを一日も欠かさず毎日祈っています。
私は、七つの金の燭台の真ん中に立たれ、足までたれた衣を着て金の帯を締め、その髪の毛は白い羊毛のように、雪のように白く、燃える火のような目を持つ・・・そのような主を見たいのです。その主は、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は太陽のように光り輝くお姿、その右手には神のメッセンジャー(御使い)を抱えておられます。(黙示録1:13-17)皆さんもそのような主を見たいと思いませんか。しかしそのような主を見る前に、私は先ず変えられ整えられ(トランスフォームされ)たいのです。今私たちは、そのような「天の領域」を実際に経験する人たちを生み出すシーズンに入りつつあると信じます。ですから、私たちは今、そのような最も大事な場所と時代(タイミング)に生かされている訳ですから、それを実際に経験出来ると信じるのです。
さて、リックと知り合ってから丁度20年になりますが、これまでボブ・ジョーンズも交えて多くの預言の話をして参りました。ところが今までは、いただいた多くの預言が実現するのを信じてそれを信仰で言い続けて来たのですが、多くの預言が実現には至りませんでした。しかし今の時は、それらの預言が成就するシーズンに入ったように思えます。
特に、御国の御子が立ち上がられなすべきことを実行し始める、そしてキリストの花嫁が栄光に輝き、聖められ、七つの霊で油注がれて主と同じ業をするようになる、と言うような重要な預言が実現する、そのブレーク・スルーの時、待ちに待ったカイロス・モーメントが来つつあるのです。
今私たち、特にリーダーの人たちは、信仰の弱い人、真にへりくだっていない人、自己満足と安易な「なまぬるい」信仰生活を送っているラオデキヤの霊に陥っている人々―主はそう言う人を口から吐き出すと言われる通り、クリスチャンがなまぬるいことを最も嫌われます。―そのような人たちを戒め、さとし、整えることによって、主にふさわしい「キリストのからだ」にすることを委任されていると信じます。と言うことで、今朝は黙示録21章を見てみたいと思います。
「 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。』
すると、御座に着いておられる方が言われた。『見よ。わたしは、すべてを新しくする。』また言われた。『書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。』また言われた。『事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。
しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。』」(黙示21:2-8)(この聖句を読んだ後に祈りが続く。)
2010年の終りに、私は自分のやって来たミニストリーの過去を振り返ってみる気持ちになりました。その2年前に私の妻が、夢の中で「あなたがこれから何をするにしても、既に勝利した姿勢ですべてのことを行ないなさい」と言う主の御声を聞きました。いろいろな終末に関する神学がありますが、私たちがすべてにおいて、主にあって既に勝利したことを前提とする信仰の姿勢を持たなければならないと私は信じるに至りました。クリスチャンの信仰の歴史を振り返ってみると、確かに脱落者が出てアポスタシー(背教)が起り中世のダークエイジを通りました。しかしその後に発展的に信仰の回復と(宗教)改革が起り、20世紀の初めに至って著しい聖霊のアウトポアリングを見るに至りました。それが使徒の時代の回復を示す顕著な癒しのミニストリーの再現をもたらしたのです。その癒しのミニストリーの再興に寄与した人の一人にアレキサンダー・ダウイーがおります。私が今回の集会でメッセージを取り次ぐことが決まった時は一週間程しか準備の時間がなく、私は何を話すべきかを主にお伺いしたところ、「アレキサンダー・ダウイーが癒しのミニストリーを開始した時の神による就任式の話をしなさい」とはっきりと言われました。
ダウイーは1875年に28歳で120人程の小さな組合教会の牧師に就任したのですが、その翌年に大きな疫病がその地方を襲い、一年で40回の葬式を出すという事態になりました。死者40人のうち30人が彼の教区のメンバーで、その40人目の葬式を終えて帰宅したダウイーの心は悲しみで引き裂かれ、涙ながらに主の前にひざまずきました。その時彼に使徒10:38が示され、聖書を見るとその箇所が輝いて見えたと書かれています。病を起こすのはサタンであっても、それをすべて癒されたのはイエスである、そのイエスは昨日も今日も、永遠に変わることがないことをはっきりと啓示されたのです。それは彼にとってのカイロスの時となりました。主から電撃的な啓示を得たダウイーには大きな信仰の力が沸いて来ました。その時誰かが玄関をノックするのが聞こえたので出てみると、もう一人の病人が死にかけているから直ぐ来て欲しいとの知らせでした。駆けつけたダウイーは死にかけている少女を前にして、医者に部屋を出て行くように命じ、少女を祈りによって瞬時に完全回復させたのでした。その後は死人は一人も出ず、葬式もありませんでした。
私はこの話を二日ほど前に読んだのですが、昨日もう一度読むように主にうながされて、読み返してみて気が付いたことがあります。それが起ったのは何とニュータウンと言う名の町であったのです。私は忘れていました。勿論ダウイーの場所は違う国、オーストラリヤの町でしたが、つい最近起ったコネチカット州で惨事が起きた町と同じ名前であることを見過ごした私に、主が気付かせて下さったのです。一体それは何を意味するのでしょうか。もしかして、それはダウイーが使徒の時代の遺産を啓示によって改めて受け継いだように、今度は私たちがダウイーのミニストリーの遺産を主の新たな啓示によって受け継ぎ、信仰によって今の危機の火中に飛び込む、そのような新たな信仰に燃える私たちを通してイエスがあらわされる時が来ようとしているのではないでしょうか。当時癒しの使徒と言われたダウイーは20世紀の初頭にアメリカの癒しのミニストリーのパイオニアとなりましたが、同じようにアメリカでニュータウンの名前が浮上した今、新たな使徒のミニストリーを主がこれから起こされようとして、その啓示を与えようとしておられるのかもしれません。
ここで先程言いかけた2010年の終りに、私のミニストリーを振り返り考えてみた時の話にもどりますが、私は当時、過去に自分がして来たミニストリーでは信仰による奇跡とか、主からの啓示を受けることの大切さをいくら強調してもそのようなことに興味を示さない人たちが大勢いる、それよりも(個人)預言を中心とする預言的ミニストリーに転向した方がよいのではないかと言う思いが横切ったのです。それは勿論、単なる私の考えであって、本気でそうする積もりも又その能力もないことは分っていました。
その時私は御声を聞いたのです。主は「もしわたしが『 ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たち(の信仰の行い)についても話すならば、時が足りないでしょう。彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。』これがあなたの召しである。」(太字部分はヘブル書11:32-34)と私に語られたのです。ですから今私が読んだような「ライオンの口をふさぎ」「火の勢いを消し」「他国の陣営を陥れる」ことと同等の、信仰による大きな奇跡をこれからする人たちが既にこの世に存在することを私は知っています。その目的を持って、この時のために生まれて来た人たちがいることを私は疑いません。そこで私は、「それらの人たちをどうすればよいのですか」と主に聞きました。
すると主は「あなたの旗印を挙げなさい、すなわち、あなたのメッセージを語りなさい。そうすればあなたと同じDNAを持つ民がメッセージに惹かれて集まるでしょう。メッセージそのものがその人たちを目覚めさせるのです。」と語ってくださいました。主は右手に七つの教会の御使い(メッセンジャー)である七つの星を持って来られ、今こそ私たちが御国のメッセージを世に告げる最も大事なシーズンなのです。
ここで私は2008年に主から受けた啓示についてお分かちしたいと思います。昨夜メッセージを取り次がれた兄弟(カマル・サリーム師)が言われたことに追加することになりますが、昨夜彼は、今までこの地球に遣わされたことのない御使いたちが地上に解き放たれると言いました。私はその御使いを見たのです。主はその御使いについて、それがどんな御使いで、どのような使命を帯びて送られて来るのかを語って下さいました。
ここで先程私が読んだ多くの信仰による圧倒的勝利者overcomer のことを心に留めておいて下さい。彼らは世界の基いの置かれる前から主が認知していた人たちでした。そして皆さんも同じようにこの世が存在する以前から主に用いられることが決まっていた人であり、特に今の時代に目的を持って生まれるように(カイロスの時)定められているのです。
2008年のある夜でした。私は寝ようとしても寝られないので祈り始めました。妻は既に隣で寝ていました。真夜中12時頃になって、もう祈ることもなくなり寝ることにしました。私の頭が枕に触れるか触れないうちに私は身体を離れて霊の領域にいました。そこは言葉では言い表すことの出来ない、全く別の世界で地球の基いの部分のようでした。そこに道路にあるマンホールのようなものがあり、そこに何とも形容出来ない生き物がいるのが見え、私は恐ろしさで叫び声を上げ、何かを口にしていました。隣に寝ていた妻が私の叫び声と叫んでいることの一部を聞いたのです。この生き物がそのマンホールを開けると、中から黒い煙が立ち昇り、その中に亡霊のようなもの、悪霊がたくさん出て来て、その中にはスターリンとかヒットラーであることが識別出来るような、多くの歴史上の専制君主のイメージを見たのです。地球の奥底から出て来た彼等は、暗闇(悪魔)の世界を信じ、その領域に自らをささげ、その恐ろしいところであらゆる魔術とか、暗闇の術を使って生存することを学んだ人たちでした。私は寝室に出て来たそれらの悪霊に圧倒されついに耐えられなくなりました。
すると大きな音が天からとどろき、「光の子が同じように応えねばならない」と言うのが聞こえて来ました。私が見上げると天にある大きな門が開き、そこからおびただしい数の御使いが出て来ました。彼等は栄光の領域においてどのように歩けばよいかを人々の寝室に入って語り始めたのです。これらの御使いは、今まで地上に送られたことはなく、世界の基いが置かれる前から主の御前に仕えながらこの時を待っていたと説明されました。これらの御使いについてはイザヤ書63:9で「彼らの苦難を常に御自分の苦難とし/御前に仕える御使いによって彼らを救い・・・」と書かれていると言われましたが、御使いとはメッセンジャーです。その神の御前に仕える御使いが、定められた今の時に地上に送られて来て、これからの時代に「火の勢いを消し、獅子の口をふさぐ」目的で召された人々を、超自然の方法で教える、そのために天で今まで待機していたのです。ですから私は昨夜の兄弟が言われたことに同意し、それは真実であると申し上げたいのです。
私はそのような領域に住みたいのです。私のDNAは、超自然的奇跡を起こす証を聞くことを好むだけでなく、私自身がそれを実際に経験したいと言う願いが強いものなのです。ですから今朝の私の願いは、皆さんを挑発し、皆さんにも同じようにそれを望んでもらいたい、主がそのために皆さんを召しておられると信じていただきたいのです。そのような霊の領域が開かれたら、皆さんと共に私もその領域に入りたいのです。私は、今そのシーズンに来ており、そうなると本当に信じております。
2007年に主は私にノアの時代について教えなさい、と言われました。私は気がすすみませんでした。「人の子が来るのは、ちょうどノアの日のようだからです。」(マタイ24:37)とありますが、そうであるなら、終りの日のモデルとなるのはノアの時代しかないことになります。確かにノアの時代とはユニークな時代でした。そうなると創世記6章に書かれていることを取り扱わねばなりません。そこには神の子らが人の娘たちを妻として娶り、出来た子どもが巨人であったとか、少々不可解なことが書かれています。その巨人たちは洪水で死に絶えました。そこで私は自分では出来る限りのことを教えました。なぜなら、主はノアの時代に打ち勝ったのなら、あなたたちの時代にも打ち勝たねばならないと言われたからです。すべての人間社会の悪事は、そのルーツが創世記6章にあるからです。殺人、性的不道徳、魔法、魔術と言った今私たちが直面する社会問題の最も成熟した形の悪の根元は創世記6章にあります。私たちはその悪の背後にある悪い御使いとか、捕らわれの霊、悪霊に打ち勝たねばなりません。それらの問題を調べてるうちに私はたまたまアイザック・ニュートンに出くわしました。ニュートンは「終りの時が近づくにつれ一団bodyの人間が起こされ、人が騒ぎ立て反対する中で、彼等は預言とその文字通りの解釈に多くの注意を払う。」と書いておりました。私は既にその時が来ていると信じます。又、彼は終りの日には多くの新しい真理の海が与えられるとも言いました。今はその時代です。今私たちは、金塊のように貴重な多くの啓示を得ております。啓示が押し寄せる海のように与えられる時がやって来ます。いや、既にそれを経験し始めました。
黙示録5章に七つの封印で封じられている巻物が出て来ます。それは贖いの書、御国の奥義、イエス・キリストを啓示する書です。終りの日まで閉じて置かれるようにダニエルによって封印された書が開かれるのです。であるからこそ、今の時、私たちは知恵と啓示の霊によって油注がれていることが絶対に必要であるのです。
この封印された書がいかに大切なものであるかを、ヨハネは黙示録5章で書いています。この巻き物を開くにふさわしい者は天にも地にも地の下にもいないと聞いて、ヨハネが激しく泣きました。すると長老の一人が、ユダ族から出た獅子ダビデの根が勝利を得たのでその書の封印を解くことが出来ると宣言します。ほふられたと見える小羊がその巻き物を受け取った時、四つの生き物と二十四人の長老が小羊の前にひれ伏し、新しい歌を歌い「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、・・・」(5:9)これは世の終わりに起る史上最大のハーベスト、しかもそれは世界中の異邦人が救いに導かれるハーベストを歌っています。そしてその救われる異邦人を「私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」(10節)と称えており、ここに偉大なハーベストが実現する過程が書かれています。ここにおいて御国の奥義であるイエス・キリストのなさることの全貌が顕されました。キリストが多くの異邦人を贖い、そしてその人々を「祭司とし」、「地上を治めさせる」と言われるのです。(どのようにしてでしょうか。)
啓示が来ます。それは「あなたがたのうちにキリストが形造られる」という啓示です。それはどう言う意味でしょうか。それは未熟な私たちをして「信仰の一致とキリストに関する知識の一致とに到達させ、完全におとなに成熟させ、キリストの満ち満ちた身丈にまで達する」ように主がされるので、地上において成熟した「キリストの花嫁」となることであり、又、御国の息子たちsons of Kingdom になることでもあります。
最近私はイスラエルの祭りについての理解を深めておりますが、イスラエルの祭りは(神が定めた特別の日で、この日に神は偶然そうなったかのように重要なことをよくされる)デバイン・アポイントメントの(神が定められた)日です。私はこのことを理解し始めたのですが、もし過ぎ越しの祭り(エジプトを大勢で出た日を記念して祝う日)がこの(今の)ディスペンセーション(神の定めの時)において成就されるとするなら、又、ペンテコステの祭り(聖霊降臨)がこの時代に解き放たれるのであるのなら、(今の時の)仮庵の祭りとは何を意味するのでしょうか。それは、神が人々のからだという仮庵に入られること、すなわち、神はご自分の選んだ人々をこれから完全に占有され、その人たちの中に完全に住まわれ、その人のすることを支配されると言うことではないでしょうか。聖霊は、既に手付金として、先ず私たちの中にお入りになられていますが、これから主ご自身が私たち(選ばれた人)の中に入って私たちを完全占拠されるのです。そうすることによって私たちが「祭司」となり、「地上を治める」にふさわしい者「成熟したキリストのからだ=キリストそのもの」になる、あるいはそのようにすると言われるのです。
さて私は上記に関する色々な学びと調査をしている中で、リサーチをされているマーク・ビルツ牧師(シアトル在住)を知る機会が与えられました。彼が発見したことは2014年と2015年に二年続けて、過ぎ越しの祭りと仮庵の祭りの日に月食が起こることでした。聖書によればイスラエルの三大祭(過ぎ越し、ペンテコステ、仮庵)は主に属する祭日(聖日)あるいは記念日ですから、二つの神の祭日に月食が起こること、特に二年続けて起こることには何か重要な意味があることを、神が人々に知らせようとしておられると考えられます。(ここで会場の上部にあるスクリーンにその月食の起こる日にちが写し出される)
2014年 過ぎ越し 4月15日 仮庵 10月 8日
2015年 “ 4月 4日 ” 9月28日
それでは過去に同じことが起こったとすればいつでしょうか。一番最後に起ったのは1967年と68年でした。
1967年 過ぎ越し 4月24日 仮庵 10月18日
1968年 “ 4月13日 ” 10月 6日
私はこれを知って、自分でもNASA等のデータを調べてそれが事実であることを確認しました。ところで1967年には何が起ったでしょうか。それはイスラエルが首都エルサレムを取り返したことです。この出来事が終りの日を示す重要な日であることがゼカリヤ書で預言されています。先ず3節で、その(終りの)日に主は、エルサレムをすべての国々にとって(つまずきの)重い石とする、と言われているからです。そして8節で「その日、主はエルサレムの住民のために盾となられる。その日、彼らの中で最も弱い者もダビデのように(強く)なり、ダビデの家(イスラエル)は彼らにとって神のように、彼らに先立つ主の御使い(イエス・キリスト)のようになる。」(新共同訳)
主は終りの日に、最も(へりくだった)弱い者が集められたイスラエルの軍隊が、ちょうど(主に対してへりくだった)ダビデのように強くなって戦い、その先頭に立つ主イエス・キリストのようになると預言されているのです。私は主に「ダビデの家は彼らにとって神のようになる」とはどう言う意味なのかを尋ねました。すると主は2週間ほど経ってから「わたしの花嫁はわたしに非常に近いので、花嫁が語る時にはわたしが語るように語る。」と言われました。(会場が沸き立つ)(以降は翌週に続く)