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14 1月

主と同一であること ナンシー・テイラー・ワーナー      2013年1月14日


主と同一であること

 

ナンシー・テイラー・ワーナー

 

第一ヨハネ4:17「わたしたちもこの世にあって彼のように生きているので、さばきの日に確信を持って立つことができる。そのことによって、愛がわたしたちに全うされているのである。このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは、私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあって キリストと同じような者であるからです。」(口語訳)

何というパワフルな言葉でしょうか! ヨハネは、私たちの内に主が働かれ愛が私たちの人生の中で完全にされることによって、私たちの存在、又 行動のすべてが、主イエス・キリストのいのちそのものを映し出すと言っているのです。主のように私たちもなるのです! それ故に私たちが御座の前に立つ日には、恐れることなく確信をもって立つことができるのです。

 

私たちクリスチャンの神の召しとは、ただ主がそうであるように「ある be」ということです。決して証しを「する do」ようには召されていないのです。私たちは「地の果てまで」、或いは私たちが置かれたどのような場所、状況においても証人で「ある be」ようにと召されているのです。(使徒行伝1:8参照)

 

私たちの内での主の働きに明け渡すとき(それはしばしば日常の生活の中で起こることですが)、私たちは証人で「ある be」こと、或いは証人に「なる become」ことができま‘す。私たちがある状況に対応するとき、主を喜ばせるように対応するならば、キリストのいのちそのものが私たちの最も奥深い部分に吹き込まれ生きるのです。このプロセスを通して私たちは主のように「なる become」のです。私たちが主と一つとなるとき、主はご自分が望まれることをしてくださり、私たちの内だけではなく私たちの人生を通して御自身をこの世にあらわされます。

 

主がそこまで来るようにと私たちを召しておられる主と同一になることの極みがあります。そこでは主の御心が私たちの中に形造られるので、もはや「私」ではなく、私の中におられるキリストが生きているのです。(ガラテヤ2:20参照)私たちが主と一つになることによって、キリストの御性質そのものが私の性質となり、私が自分のやり方で応答するのではなく、主が応答されるように応答することを学び、そうする時に私は主との一致へと導かれていきます。私はキリストの人生、いのちそのものを経験するようになります。

その結果、人々は私を通してキリストのいのちを見ることができるのです。

 

神の友

 

アブラハムの人生にこの事があらわれています。彼は多くの試煉を通して神の御心そのものを知るようになりました。その結果、ソドムとゴモラに主の裁きが下ろうとしているのを知ったとき、彼は神の御心をあらわすことができました。

 

主が来られたときアブラハムは天幕の入口に座っていました。(創世記18:1)彼にはまだ成就されていない神の約束がありましたから、それに関して主に訊ねることもできました。でも彼はそうはしませんでした。そうではなく彼はすぐに主をもてなしたのです。(5節)

アブラハムが自ら進んで主をもてなした時、主はアブラハムの人生にこれから成就されるべき約束を宣言されました。(9節)そればかりではなく、「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」と考えられました。(17節)そして主がソドムとゴモラを訪れようとしておられることをアブラハムに話しました。主はアブラハムにソドムとゴモラが犯している罪の故に大いなる叫びが主のもとに聞こえている事を話されました。(20節)主は出かけていって実際にそのような罪が犯されていうかどうかを見にいくのだと、アブラハムに告げられました。(21節)

 

アブラハムは、それらの町には大いなる罪があることを知っていたので、主がそこを訪れたら何をご覧になるかを知っていました。彼は神の義を知っていましたから、神の裁きが下されることも知っていました。しかし、アブラハムは又、神の御心も知っていたのです。主の訪れが裁きとなることを知り、それと同時に神の御心を知っていたので、アブラハムはとりなしを始めたのです。彼は裁きが下される時に、罪人と一緒に義人が死ぬことがないようにと祈りました。聖書には、裁きが下る前にロトが町から脱出できたのはアブラハムのとりなしの祈りの故だったとあります。(19:29)

 

聖書にはアブラハムは「神の友」であったと書かれています。(ヤコブ2:23参照)彼の人生を見ると、彼は主の臨在を識別しすぐさま礼拝という行為で応答した人でした。彼は聞く耳を持っていたので、神は彼に語ることができました。彼は神の御心を知っていたばかりでなく、その神の御心と同じ心になってそれが叶うようとりなしの祈りを進んでしたのでした。それで神はロトを救うためにアブラハムを用いることが出来たのです。

 

何が起ころうとしているかをアブラハムが理解した時、彼は自分の思いや考えだけで行動しませんでした。彼は神の御心に従って自分の立場を決めたのです。彼は神の御心と一つとなり、それに従ってとりなしをしたのです。ロトが救われたときのアブラハムの喜びはいかばかりだったでしょうか。

 

喜びを分かち合う

 

今、私たちは神と同じように人々のことを思い愛するという経験へと 召されています。それは神の愛が、私たちの祈り、優しい言葉、親切な行為などの生活を通して目に見える形となることによってです。私たちが人々のために自分の人生を捧げ、それによって彼らの必要が満たされた時の彼らの喜びを共に分かち合う、その喜びは、自分が人々に捧げたことよりもずっと優って大きいのです。

 

第一テサロ二ケ2:19−20「わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。」新共同訳

 

私がワシントンDCの近郷で牧会をしていた時、大雪に見舞われたことがありました。雪かきをしてもすぐに又積もってしまいました。教会の男性たちが手伝ってくれたのですが、彼ら自身の家の雪かきもせねばならず、また道路はすべりやすく教会に来るのは無理になりました。

 

私の父(ウエイド・テイラー)はその週末に行われる予定だったカンファレンスのためにうちに来ていました。私たちは分かる限りの人々に電話をしてカンファレンスには来ないようにと連絡しました。しかし万一来る人があるかもしれないので、私たちは教会に行かねばならないと考えました。でもそのためには家の玄関から道路までのドライブウェイの雪かきをせねばなりませんでした。

 

除雪車が道路の雪を両側に寄せて行ったので,私のドライブウェイの入口には雪が山のようになっていました。父も外に出てきて雪かきを手伝おうとしてくれましたが、聞いてみるとやはり彼の体力では 無理で苦しいと言うので、私は「心配しないで。私は雪が好きだから、中に入ってください。私がしますから。」と言いました。私とシャベルだけが残されました。父は家の中に入ってきっと祈り始めたのだと思います。

 

シャベルで雪かきをしながら、 除雪機を頼むとドライブウェイとパーキングの除雪で300ドルかかると言う事を思い出していました。そんなお金はありませんでしたので、私はシャベルを動かし続けました。湿った重い雪でした。必死でしてもほんの少ししかはかどりませんでした。祈りながら雪かきをしていると、雅歌の言葉が私の思いの中で動き始めました。

 

雅歌7:11−12「さあ、私の愛する方よ。野に出て行って.....そこで私の愛をあなたにささげましょう。」

私は主が今私のいるところに召してくださったことを知っていましたし、私が主のぶどう畑に共にいることも知っていました。「そこで私の愛をあなたにささげましょう。」という言葉が私の心の中に響いていました。「主よ」と私は言いました。「雪かきが嫌だというわけではありませんが、私には荷が重すぎるのです。あなたの愛を私に見せてくださいませんか? 除雪機を送っては下さいませんでしょうか?」

 

その時、私が上を向くと、目の前に黄色い除雪機を載せた白いトラックが道路の向かい側を通って行くのが見えました。その時聖霊が私の内で働くのを感じ、私はそれによってジャンプさせられ、礼拝する時のように両手を上げて「おお!」と言わせられました。トラックの運転手は私が彼に手を振っていると思ったようでした。彼は引き返してきて何も言わずに私のドライブウェイの除雪を始めました。彼が巧みに仕事をするのを見て私の心は沈んでいきました。300ドルの料金のことを思い出し「なんてことをしてしまったんでしょう?」と思ったのです。

 

すると、トラックの後ろにクリスチャンのバンパースティッカーが貼ってあるのに気がつきました。仕事を済ませた時、彼はお金を受け取ろうとしませんでした。私が受け取ってほしいと何度も言うと、彼は次回はもしよかったら25ドル払ってくださいと言いました。私がその家に住んでいる間、大雪はもうありませんでした。私はこの出来事を思い出すたびに、事の成り行きに驚き、主に感謝しています。

 

この出来事を教会の人々に話すと、みんなとても喜んでくれましたが、 雪かきを手伝ってくれた人たちが特別喜んでくれました。シャベルで手伝ってくれた彼らには、除雪機がどんなに役にたったかがよく分かったからです。

 

私たちが人々のために祈ったり助けたりする時に、主がその人たちのためになさる事によって起る喜びを主と分ちあうことが出来ます。数年前に私たちの知り合いの牧師夫妻がより高いミニストリーの仕事に引き上げられたことを聞きました。それを聞いてすべての人が喜びましたが、私は本当に大喜びをして興奮しました。というのは私は彼らのためにとりなし、祈っていたからです。後になって彼らは「これはあなたの祈りの結果です。」と言いました。それはどうかわかりませんが、私もその一部であったことは確かなので、私は大きな喜びを与えられたのです。

 

主の御心と同じ心になる

 

私たちの召しは人々を建て上げ恵みを与えることです。人生の中でその人の必要が周りの人にも明らかされるときがあります。そして又、現代のライフスタイルの中には多くの異なるものがあり、その中には極端なものもあります。主は私たちがそのような人を裁いたり断罪するようには召しておられません。そうではなく彼らを愛するようにと召してくださっているのです。神が私たちを愛してくださっているのと同じ愛で、私たちも人々を愛するように神は私たちを召してくださっているのです。この愛が私たちの霊の中に形造られ、私たちが主の御性質に与るものとなるのを主は望んでおられます。主が人々を愛する愛を主と共に分かち合い、それによって主の喜びをも分ち合えるようになるのを主は望んでおられるのです。

 

第一ヨハネ4:16「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。」

「神とはどう言うお方であるか」―愛―を真に理解し、その次元に自分を置くことが私たちを完全に変革してくださり、私たちの考えを根本的に変え、主との一致へと導いてくださいますように。 祈りに時間を割くこと、やさしい言葉をかけること、親切な行為をすることなどで、自分の人生を喜んで(主のため、他の人のために)捧げようではありませんか。私たちのうちから聖霊の働きが溢れ出て、神の愛が私たちを通して外に流れ出ますように。アブラハムのように主を知り、主の臨在に素早く応答する者となりますように。神の御心を知り、神が語りかけることの出来る者となりますように。とりなしの祈りにより主と、そして主の御心と同じ心をもって完全に一致する者と私たちがなりますように。

 

裁きが下る前にロトが救い出されたように、終末の収穫が来ようとしています。 この時に対する神の御心を喜んで見つけ出し、とりなしをもって主の御心と同じになることによって、私たちも収穫の一端を担ったことを知るならば、私たちはどれほど喜びに満たされることでしょうか。

 

一緒に祈りましょう。

「主よ、あなたが愛されるように、私たちも愛したいと願います。それが可能となるために私の人生をあなたに捧げます。今現在私が置かれている状況に対してあなたが持たれている(思いと)御心を教えてください。私が共に生活し働いているすべての人たちに対してあなたが与えようとしておられるいのち(生き方)と願いを私が表現すためには、あなたの御心を知る必要があります。私の中にあなたの愛が形造られ現れるようにしてください! この国、そして世界の国々に対するあなたの御心を教えてください。主よ、私はここにおります。終末の収穫の働きの一部となりたいのです。どうかあなたの御心に私の心を加えて一つにしてください。貴い主イエスの御名によって祈ります。アーメン(終り)

 

Nancy Taylor Warner
Parousia Ministries (Wade Taylor Ministries)
Email: wade@wadetaylor.org

 

Nancy Taylor Warner 師は, 故Wade Taylor 師の娘さんで、長年お父さんのミニストリーを助けて来られましたが、現在は父の跡を継いで  Wade Taylor 師のParousia Ministries の責任者となっておられます。又、彼女は自身のAgape Fellowship in Christ教会の牧師でもあり、ペンシルベニア州ハリスバーグに在住されています。


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