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21 9月

王のうちにとどまることが王国の権威を生み出す リック・ジョイナー    2012年9月21日


王のうちにとどまることが王国の権威を生み出す

リック・ジョイナー

 

神の国は、地球とすべての自然法則を超えて支配する権威を持っています。イエスが行なった奇跡がそれを物語っており、イエスは地球上のいかなる自然条件をもどのようにでも支配できる神の国の権威を行使されました。私たちがその王国のうちにとどまればabideとどまるほど、―すなわち、それは王イエスに従い、王のうちにとどまるabide in the Kingことを意味しますが―その度合いに応じて私たちも地上のどのような状況にも打ち勝つ王国の権威を行使して歩むことができます。この終末の時代が終りに近づくに従って、この王国の権威で「生きることが出来るcan」が「権威を行使して生きねばならないmust」に変わって行くでしょう。

 

主はヨハネ14:12で「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」と言われました。イエスは彼の地上の生涯を通じて(私たちのために)その模範をデモンストレーションされ、私たちが同じ歩みをするように召しておられます。これは大変な召しですが、それを私たちが実行するには、この地上のいかなる法則をも超える力とその権威を持つイエスのうちにとどまるabide必要があります。従って私たちのゴールは力とか権威(そのもの)にあるのではなく、それらをすべて持つお方、その人にあります。そうであるように、いずれこの世の終りには「主のからだ」である私たちが、王である主の力と権威を行使実行することによって、来たるべき王国の道を準備するようになるのです。

 

今年の夏、私は今まで主からいただいた「夢」の中で最もパワフルな夢を見せていただきました。その夢の中で、私はすべての自然法則を支配する権威を与えられました。重力の法則に私が従わねばならないのではなく、その法則が私に従わねばならないのでした。それは、私が神の御座の前に出る夢とか、主を仰ぎ見る夢は別にして、今までにいただいたもう一つのパワフルな夢に匹敵します。20年近く前に見たその夢も先程の御ことば「・・・わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います」に関連する夢でした。ヨセフがエジプトのパロに語ったように(創世記41:32)同じ夢を二度見ることはその夢が必ず確立・実現することを意味します。

 

最初の夢を見た後に、私は一度だけその夢(で見たようなこと)を私自身が経験することができました。それは私にとって、この主の御ことば(ヨハネ14:12)が私たちへの真の「神の約束」であることを示す大変な励ましでした。そして、この夏の夢を見た後に、私はそのようなことが起こる時がいよいよ間近に迫っていることを確信したのでした。イエスが約束された、この地上での神の最も偉大な御業を私たちが経験する、すなわち、私たちが「・・・わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います」がいよいよ実現するのです。

この世の終わる前に、マタ 21:21でイエスが言われる「・・・この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。」を誰かが行ない、本当に山がその命令に従うのです。間も無くすべての病とか苦しみに対して王国の権威を行使して歩む(癒すことができる)日がやって来ます。

 

この王国の権威が実行される時は、王国のゴスペルが説かれる時とも一致します。そこにおいて一つの基本的な特徴(の顕れ)が起こらねばなりません。それは王国で働く人々がお互いにみな一致することです。それは王に従い王のうちに完全に一致してとどまるabide生き方をすることによってのみ起こります。

 

この世において真のクリスチャン生活を送ること以上の大きなアドベンチャーはありません。又人間の歴史上、これから終末に起こることに参加する以上のめざましい興奮の機会はありません。しかし、たとえどんな大きな奇跡が起こるときであっても、最も大きくて偉大な奇跡は、神の民が一致すること、そしてお互いが心から愛し合うことです。それに優る奇跡はありません。そしてどのような奇跡を見る以上に、私たちは神を愛することに専心しなければならないのです。そして神を愛することとは、その神への愛を他人を愛することで表現しデモンストレーションすることです。

 

地上に最初の二人の兄弟が生まれた時以来、人間はうまく折り合って生きることが出来ませんでした。その兄弟の一人が「この地上は二人が住むには狭ま過ぎる」と言ったのです。人々、氏族、国々はそれ以来お互いに闘争して来ました。教会が成熟して、その召された姿になる時、人々はクリスチャンの一致して生きる姿を見て驚くのです。それは主ご自身が父なる神に祈られた、

「またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。」(ヨハネ17:22-23)とある通りです。

 

私たちが、イザヤ書60:1-2「 起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。」とか、その他の聖書箇所に見られるように、私たちの上に「主の栄光」が輝くことが可能なのです。それが起こったとき世の人々はイエスはまことに父が送られた人であり、神はご自身の御子を愛されるように私たちを愛しておられることが分るのです。

 

神の栄光を経験した人たちが特別な形で結び合わされるということは、それを経験したことのない人に説明しても理解することが難しいのです。多くのクリスチャン同士を互いに隔ててしまった「些細なこと」とか「許せないこと」を、この栄光は単純にぬぐい去ってくれます。それは覆われない顔で主の栄光を見つめることによって起こり、私たちは主のイメージ、主に似た者に変えられます。私たちの第一の召しはキリストに似た者になることです。そして第二の召しは、主がされた業を私たちもすることです。もし私たちが主に似た者になれば、私たちは愛の中を歩きます。私たちが愛の中を歩めば、主は私たちに主の持つ力を(安心して)委託されます。愛の中を歩む者たちは、神の最も大きな宝物となり、そうなる目的のために私たちが造られたように、愛のお方に似る者になって行くのです。(終り)

 

(Abiding In The King Produces Kingdom Authority – The Path of Life, Part 31-Week 38, 2012より)


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