主の臨在を尊ぶ ビル・ジョンソン 2012年9月2日
主の臨在を尊ぶ
ビル・ジョンソン
私たちは「御国を来らせたまえ」と祈りますが、天国の一番の特徴は「神がそこにおられる」ということです。神は光であり、神が臨在される天国には影はありません。そしてすべてのことは神を中心とし、神が喜ばれるように行われます。すべてのことは神により、神のために、神ゆえに起こるのです。もし私たちが「御国と同じことが地でも起こるように」と祈るのならば、この地でも神の臨在こそを宝として尊ぶべきです。
もし、教会がこの真理を中心にして機能するとしたらどうでしょうか。残念ながら、この数百年、もしかしたら1800年間くらいかもしれませんが、教会は毎週「説教」を中心として集まってきました。けれどもイスラエルは「主の臨在」の周りに宿営していたのです。もし神が私たちの教会のやり方を劇的に変えようとしておられるとしたらどうでしょうか。即ち、「一人のお方」を尊ぶというやり方に変えるのです。
神学的に「2人、また3人が主の名において集まるところには、主もいる」と宣言することは出来ます。又、確かに主は私やあなたの中におられます。しかし、主のマニフェステイション(臨在の顕れ)というものがあり、それを私たちはお迎えすることが可能なのです。それは自動的に起こることではありませんが、実現可能なことです。私たちは主の臨在をお迎えしてそれを尊び、敬い、祝うことができます。その時、私たちは聖霊のパートナーとなり、聖霊がしておられることを私たちもすることができるのです。
主イエスは御父がしておられることを見たことだけをなさいました。御父が言われることだけを言われました。イエスに臨まれた聖霊によってそのような霊的領域がイエスには開かれていたのです。
私たちはアジェンダを持っていますし、それは良いことです。それらは御国の法則を私たちが取り入れているものです。例えば「人々をキリストに導く」というアジェンダを考えてみましょう。これは意味のある正当なアジェンダです。その法則を用いて私たちは集会で人々を導くことができます。しかし、もし私たちが「主の臨在」から機能することを尊ぶならば、「法則」から機能するより優れたものとなります。もし「主の臨在」から機能することをあなたが学ぶならば、魂の収穫はもっと著しいものとなります。
癒しを例にとってみましょう。私は「癒しのために皆で祈りましょう」と会衆を導くこともでき、その時癒しも起ります。しかし癒しの力がその場に強く臨み、会衆全体を覆うことがあります。主の癒しの力が臨んで癒されるのです。そのような臨在による癒しは爆発的なものとなります。
主は一人ひとりにユニークな賜物をくださっていてそれにスポットライトを当ててくださいます。あなたと私は違う賜物を持っています。そして私たちに与えられている「賜物の法則」から機能する方が、「主の臨在」から機能する(ことを学ぶ)よりもやりやすいかもわかりません。
しかし、法則から機能すると、私たちはもっと労せねばなりませんが、臨在から機能する時、その結果としての実は途方もなく大きいのです。この違いを学ぶことは大きな意味があります。
主の臨在への敏感さを、ミニストリーのための必要性だけから会得することは出来ません。それでは「professional intimacy 職業上の親密さ」とでも言うべきものになってしまいます。むしろ何もミニストリーの必要性がないとき、アジェンダがないときにこそ、真に主の御声を聞き、主の臨在を尊び感知することをあなたは学ぶべきです。
もしあなたがミニストリーの中でだけ主の臨在を知るならば、それは非常に限られたものとなります。神の御声を聞くことに関してさえ、あなたはprofessional 職業的なアプローチしか出来なくなってしまいます。
「主よ、次は何をしたらいいでしょうか?」「主よ、何を祈ればいいでしょうか?」「主よ、どう預言したらいいでしょうか?」と言う具合にです。
これらは勿論、正しい質問であり正当で必要なことですが、すべてミニストリーのために御声を求めるということです。けれども神との真の親密さとしてはどうでしょうか。神の御声を求めるのは、私たちが何かミニストリーをする時だけであってよいのでしょうか。
「業、働き」をすると称賛を受け、うれしい気持ちになります。自分の働きが役に立ったという喜びを感じます。これは悪いことではありません。しかし、あなたが主の臨在から機能する時は全く違うのです。
ある時、私は1500名ほどの癒しの集会のメインスピーカーとして招かれました。集会の最後の私のメッセージがかなり長くなり、人々が癒しの祈りをはやく始めて欲しいという気持ちを持っていることを強く感じました。
私はワーシップを一回だけ短くするように導かれました。するとワーシップの霊が私に臨み、私は歌うこと止められなくなりました。心の中では早く止めて癒しの必要な人のために祈らねばならないと思うのですが、ワーシップを続けることが御心であることがはっきり分かりました。ある時点で私は「癒しの祈りは今日はしない」と心に決めました。
主催者側から祈りに入るようにというプレッシャーはかかりませんでした。しかし私は「講師として期待されていることをせねばならない、責任を果たしたい」とう思いがあったのですが、それを断ち切ったのです。更にワーシップを続けて3、4分たったとき、主が突然私にあることを思い出させてくださいました。それはその日私が集会所に入ったときに主が語られた「deafness 耳が不自由なこと」という言葉でした。その瞬間、主がワーシップを止めなさいと言われていることがわかり、私は会衆にむかって「聴覚に不自由を覚えている人は手を挙げてください。」と言いました。すると82人の人が手を挙げたのです! 主の臨在が部屋の中を覆いました。そして聴覚の神経が癒される等、著しい大いなる聴覚の癒しが起りました。もし私が法則から癒しを行ったならば、もっと時間を要したでしょう。主の臨在を尊ぶことはこのようにパワフルなことであると思います。(つづく)