ヨブ記を読む 坂 達也 2012年8月28日
ヨブ記を読む
坂 達也
まさかニューヨークに来て、最初に取っ組むのがヨブ記であるとは驚きました。突然に導かれたのです。しかし、この本ほど読み甲斐のある本もめずらしい。過去に何回も読んだのですが、通読はしても、いつもどうも分からないうちに終わってしまうのです。
そこで今回こそはじっくり読もうと思い、英訳のKJVとデービッド・スターン師のJewish Bible、それに、新改訳、新共同訳を併用して読み始めて驚きました。多くの箇所で解釈が全く違ったり、時に正反対の意味に訳されていることに気がついたのです。特に日本語の新改訳と新共同訳との相違が目立ちました。これでは混乱するのは当然――何故?――どうも原文のほとんどが詩的文体であると言われるせいか、時に簡潔過ぎているからか、又、代名詞が誰なのか(例えばheが神を指すのか、対話の相手をさすのか)その解釈が訳者によって違うことに気付きました。結果として、多くの箇所で解釈に大きな差が出てしまっています。
それはともかくとして、この本を神はどのような意図で書かせ、聖書に入れさせたのか、私には非常に興味があります。これを書いたのはモーセとかソロモンと言われますが、ヨブはBC2000年頃、つまりアブラハムと同時期か少し前の時代に実在した人物と言われ、聖書ではエゼキエル書14:14-20で、ヨブの名前がノアとダニエルと同等の「義の人」と言うことになっています。その他ヤコブ書5:11、ロマ書11:35、1コリント3:19がヨブのことに言及しています。
神とヨブの関係
さて本書を読んで最初に気付かされることは、ヨブという人物が神の大変なお気に入りで、神は彼を当時としては最大限に祝福していたという事実です。その理由を神は「地上でヨブほどの人はいない。彼は潔白perfectで正しくupright、神を畏れ、悪を避けている。」とサタンに説明します。
と言うことは、もしヨブがアブラハムと同時期或いは少々先輩であるとすれば、アブラハムよりもヨブの方がより潔白で正しい信仰の人であると神が言っていることになるのですから驚きます。
ここでいう「潔白で、正しい人」と聞くと、神がモーセに示した十戒を中心とする「律法」を忠実に硬く守った人を思い起こさせます。勿論ヨブはその書かれた律法なるものを知りません。しかし、彼はあたかも律法の忠実な実行者であるかのように描かれています。
それにもかかわらず神は突然理由を言わずに、サタンにヨブを襲わせ、神から受けていた祝福のすべてをヨブから取り上げたのです。
イエス・キリストとイスラエル
それだけではなく、神は、サタンに「命だけは触れるな」という条件付で徹底的にヨブの身体を痛めつけさせました。ヨブの苦しみは肉体の苦痛だけではありません。慰めに来たはずの四人の友人たちが寄ってたかって徹底的にヨブを責めたのですから、これはまさに肉体と精神両面の二重苦です。彼らは「罪を犯す者を神は罰する」という神学的には非常に単純な考え方に基づき(律法的と言えます)「これほどの苦しみに見舞われたヨブは大きな罪を犯したに違いない。神に悔い改めよ。」と迫ります。しかし、ヨブは「そんな罪は犯していない。」と言い張り、ついには「神の前で(天の法廷で)申し開きしたい。」と主張し、それをさせない神に対して不満をぶっつけます。
ヨブは執拗に自分の正しさに固執し、そのために「誰か天で神と私の間を仲介してくれる仲裁者mediatorが欲しい。」と要求します。(ヨブ記9:33)又、ヨブ16:19-21と17:3でも、ヨブは天にいる私の証人(弁護人あるいは味方)を悲痛な叫びとして要請するようになります。
更に19:23-27では、自分を贖う方が後日地上に立たれ、自分はよみがえることを預言します。これはまさに、イスラエルに帰って来られる再臨のイエス・キリストを預言しているのですから、この預言をさせるために神はヨブを起用したのではないかと私には思えるのです。ヨブ記を預言書の一つとして分類した学者が一世紀にいたそうですが、ヨブを預言者と見るのは正しいように思えます。
同時に私は、ヨブが「死に目に会う苦しみ」の後、最後に神が「ヨブを元通りにして以前の二倍の繁栄を与えた」ことにも注目したいと思います。これは単なるお伽話とか寓話ではありません。それは、第一に、人間イエス・キリストの出現(十字架の苦しみと死、そしてよみがえり)を暗示しているように思えるからです。
第二に、イスラエルという地上で神が創った唯一の神の国とその選民(イエス・キリストもイスラエル人です)が、長い間瀕死の苦しみと迫害を通ったにもかかわらず国が亡くならなかったというだけではなく、キリストの再臨によって世界を制覇する国としてよみがえることを暗示しているように思えるのです。しかもその時に、キリストを信じるすべての異邦人クリスチャンが共によみがえり、イエス・キリストの王国に合流するのですから、数はともかくとして、イスラエルと異邦人を併せて「二倍」のキリストの王国となって繁栄することを預言していないでしょうか。
神は、イスラエルが誕生する前に、建国の父祖アブラハムより優れてはいても劣らない信仰の人ヨブを出現させ、神の国イスラエルが通る道、すなわち、律法が与えられ、それを守るように神との契約関係に入る。しかし、それだけでは不十分であること、人間には救い主イエス・キリストが絶対に必要であることを暗示しながら、キリストと十字架の受難、そして復活を示俊します。すなわち、ヨブはキリストと共に、イスラエルが辿る長い苦しみと迫害の歴史を予告する、言わばイスラエルの「前走者forerunner」としての役割をヨブに果たさせたと、私は解釈したいと思うのです。
真に神を知る方法は、神が直接語られるのを聞くしかない
ヨブのように罪を忌み嫌い、罪をほとんど犯したことのない正しい人を、何故神はここまで痛めつけたのでしょうか。(神は最後までその理由をヨブに答えていません。)
神は四人の友を送ってヨブと激しく口論させました。その意図は、人間がヨブに対する神の仕打ちをいくら頭で考えて(神学的)論争をしてみても、神の真意と知恵を計り知ることは不可能であることを知らせるためであったと思います。問題はヨブも友達も、神が人間を遥かに超えた存在であるという概念を持っていないため、神のなさることをつい人間のレベルでしか考えなかったことにあります。神を知る唯一の方法は、直接神が話されることばを聞いて知る以外にはないと言う真理をこのヨブ記は教えてくれます。これは、実は私たちクリスチャンに対する重要な教訓であると信じます。
他人と比較して自分はほとんど罪を犯したことがないと自負するヨブは、神の自分に対する仕打ちが大いに不満でした。しかし神は最後にヨブの前に現れ、神が全能の創造者であることを直接ヨブにとうとうと語られました。それを聞いたヨブは神に向かって「あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は(初めて)知りました。知識もなくて、摂理をおおい隠す者は、だれか。―(私でした。)まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。・・・私はあなたのうわさを(人から)耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。」(ヨブ記42:2-6)と言って平身低頭したのでした。
ヨブは初めて神の御声を直接に聞いて、まるで神にお会いしたように感じたのでしょう。「この目であなたを見ました」と言い、心からへりくだって悔い改めたのです。
又神は、ヨブに必要なのは彼の罪の身代金を払って弁護してくれる方であり、その方が神とヨブの間に立って下さる唯一の仲裁人であることをヨブに啓示されていたのであると思います。ヨブ程の信仰ある人に神が啓示という形で心に語られない訳が無いと思います。ただヨブはそれが啓示による神の御声であることを知らなかったのであると思います。(アブラハムも啓示によってキリストが来られることを知っておりました。)そうでなければ人間がキリストのことに考えが及ぶことはありえないと信じます。
クリスチャンがなぜ苦しみを通らねばならないのか
ヨブから学ぶことはたくさんありますが、その一つはクリスチャンは「聖なる苦しみ」を通るということであると思います。その最もよい例がイエス・キリストの受難であることは言うまでもありません。
罪の性質を持つ人間は誰でも、この世の中で苦しみに会わない人はおりません。しかしその苦しみのほとんどは、自から蒔いた種の刈り取りで、招いたのは苦しむ本人です。ところがヨブの苦しみは少し違いました。神が与えたのです。それが分らない四人の友は戸惑いの末ヨブをひどく責めましたが、これこそヨブの信仰を本物にするための神のご計画でありました。
ヨブは、ここに限りない神の愛と深い知恵があることを、究極の苦しみを通して最後に理解できたと思います。もしそうではないにしても、ヨブは少なくとも神がどのようなお方であるかを初めて個人的に知るようになったことは確かでしょう。
ところで、普通クリスチャンは最初に「自分の罪を悔い改める」と告白しますが、それはむしろごく卑近な罪の悔い改めを指しています。多くの場合、それは肉的・表面的なものでしかありません。勿論救いに導かれるためにはその悔い改めは絶対に必要です。しかしヨブの悔い改めは、かなりの信仰生活をした後で、霊的存在である神を真に知るに至ったときに自分がへりくだらざるを得ない、圧倒的、根本的な「悔い改め」であり、これが彼の信仰を深くしたのではないでしょうか。
ヨブのこの深い悔い改めは「聖なる悔い改め」とでも言いますか、クリスチャンの霊的成長には不可欠なものであり、しかもこのような「心からの悔い改め」は回数が多いほどよいと思います。このような悔い改めが重なる度に、その人の信仰はどんどん深まると言っても過言ではないでしょう。私自身を振り返ってみても、クリスチャンになった頃と比べ、最近は事繁く、恥ずかしいほど自分の至らなさと高慢さに気付かされております。
「キリストとその十字架の深い摂理は神の知恵であって、神の知恵wisdomを私たち人間は本当には計り知ることができない、神を本当に理解することは人間には不可能である」ということを、知恵の書と言われるこの「ヨブ記」は教えてくれます。同時に又、「聖い人が何故苦しまねばならないのか」という問題も、時に人間の理解を超える神の深い知恵であると信じます。
正しい人でかなりの信仰を持っている人でも、神に愛されれば愛されるほど、神はその人を過酷な試練の中を通されることは、ダニエル書を見ればよく分かります。三人のダニエルの同胞、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴが燃えたぎる火の炉の中に放り込まれたのですが、その炉の中に「神の子のような人」が現れて四人で歩いている。そして炉から出て来た三人は髪の毛一本も燃えていませんでした。言うまでも無く、この経験を通じて彼らの信仰は超自然の不動のものとなったことでしょう。
終末の艱難時代と大リバイバル
この物語は終末のクリスチャンが大艱難の中を通ることを預言していると言われます。一頃は大部分の人がクリスチャンは大艱難時代の前に携挙されると信じていました。その理由はクリスチャンは大艱難という裁きを受けなくて済む、あるいは受ける必要はないということのようですが、本当にそうでしょうか。苦難は必ずしも「裁き」ではないと思います。聖い人でも苦難を通る、いや、むしろ聖い人をもっと聖くするために神は苦難を通らせることが、ヨブの例のみならずダニエルの同胞の例で分ります。
特にこれから来る終末の時、私たちは火の中を通るような大きな艱難の中でリバイバルが起こることを覚悟すべき、というより大いに期待すべきではないでしょうか。リバイバルが未曾有の大リバイバルになるためには、ダニエルたちのような超自然の信仰を持った人たちが多く出て、超自然の霊的領域(圧倒的な油注ぎ)が造られ、その中で大きな救いの御業が起こるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
これからの時代には、同じ「火のかまどの苦難」ではあっても、全く別の形で来るように思われます。例えば、政治と経済の完全崩壊による暴動、飢饉とか、未だかって起こったことがないような自然災害、あるいは過激派イスラムによる迫害・弾圧と言ったような艱難です。しかし間も無く来るそのような「大艱難」を恐れる必要は全くありません。何故なら、火の中をくぐるような苦しみを通る時こそ、私たちの傍に「神の子のようなお方-主イエス・キリスト」がぴたりと付いていて下さるからです。神は艱難をくぐらせることによって、私たちの信仰を完成させて下さると信じます。
キリストに似た者になる
私たちクリスチャンはイエス・キリストの後を追い、キリストに似た者になるのが最大の目標です。パウロがそれを熱心に薦めます。そのパウロも十二使徒も皆、迫害と苦難の中を通りました。そうであるなら、私たちクリスチャンが人間キリスト、あるいはヨブのような究極の苦しみの中を通されても不思議はないように思います。
その「死に至るような苦しみ」の意味するところは一体何なんでしょうか。私にとってそれは「人間は肉の自分に死ななくては、真の霊の人=キリストに似た信仰者にはなれない」という意味であると信じています。それはガラテヤ2:20を生きるためです。
そして「自分に死ぬ」ということは、私たちクリスチャンは皆洗礼を受けたときにそう宣言していることを忘れてはならないと思います。(終り)