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06 8月

新たな喜びが殻を破る チャック・ピアス    2012年8月7日


新たな喜びが殻を破る

チャック・ピアス

 

喜びの定義

 

最近私はジャクリーン・ヴァーネドさんの「喜びを運ぶ者となる」という本の原稿を読みました。この本は来月出版される予定ですが、皆さんも読まれることをお薦めします。混沌とした今の社会に何よりも必要とされるのは「溢れるばかりの喜び(joy)」です! 私たちはまず自分が喜びに満たされる必要がありますが、そればかりでなく、私たちが行く所どこにでも喜びを持ち運ぶ者にならなければなりません!

 

「喜び・ joy」という言葉を定義するのは困難です。喜びは、前向きでポジティブな姿勢とか楽しい気分とかではありません。喜びは感情であると共に実でもあります。聖書の中には様々なレベルの喜び(うれしい、満ち足りている、陽気等)が表されています。私たち神の御民の喜びは、清く純粋であるべきです。それはまわりの状況に左右されず、状況を越えるものであり、神のご性質に焦点をおくものです。即ち、それは私たちが神の御こころを実践し表すときに、神がご自分の感情を私たちを通して周囲に顕されるものです。

 

義である神の子供等が経験する喜びは、すべての事を益として相働かせてくださる神の御霊によって生み出されるものです。その喜びがあるとき、私たちは未来への希望を持つ事ができるます。喜びが幸せ(happiness)と違うのは実にこの点であり、 喜びには悲しみや損失から私たちを立ち上がらせる力があるのはこの理由からです。

 

私たちはこの世で生きて行く時に、非常に多くの困難、試煉を通りますから、「主の喜びは私たちの力である」ということをいつも思い起こさせてくれる何かが必要です。もし敵があなたから喜びを取り去ることに成功するならば、それは即ち、あなたから力を取り去ることに成功することです。「力」とは、 次にやってくる敵の攻撃に耐える力のことです。ですからその「力」を保つことは、御霊に満たされた人生を送るための重要な鍵となります。

 

私が体験したトラウマ

 

私たち夫婦に双子が与えられたのですが、 先ず一人が天に召され、そのあと更に 二人目も召されました。私たちは野外で記念礼拝を捧げましたが、礼拝の中で妻のパムが立ち上がり、二人が埋葬された場所に向かい美しい賛美を捧げました。それは非常に感動的な場面でした。

二人目の子が死んでから一週間後に妻の友人が電話をかけてきて、「神が何故あなたがたの双子を天に召されたのか全く理解できずに苦しんでいる」と言ってきました。彼女は更に続けて「パムが、一見、揺るぎない信仰をもってこのトラウマに対処できていることも理解が出来ない」と言いました。

その時、私が今までに一番強い影響を受けた言葉の一つがパムの口から語られました。パムは友人に次のように言いました。「私が人生で何か 学んだことがあるとしたら、それは『出来るだけ早く神の御旨を受け入れて従うほど、それだけ早く私たちはサタンを撃退することができる。』ということです。私は今の状況の中で神の御手に服従することを選びとりました。そしてそうする時に、神は 敵に打ち勝つ力を私に与えてくださり、私は敵が奪ったものの2倍を取り返すことができるのです。」

 

それはまさに主が私の妻を通して語られた言葉でした。この言葉は私の霊に深く浸透し、それ以来ずっと私のうちにあります。私たちの人生に起こったことがたとえ理解できなくても、誰かを失った悲しみのただ中にある時でも、私たちは 神が私たちのために用意されている更に偉大なご計画に素早く服従することを学ぶ必要があるのです。私たちが服従するとき、私たちはその苦悩を耐えぬく力を与えられるのです。「服従して明け渡す」という意味は、私たちの上を神の慈愛と恵みの翼で被っていただき、敵からくる叱責、社会の非難、又自分が犯した過ちへの呵責から私たちを守っていただくことです。

 

もし 人生を常に神に 服従し明け渡して生きるならば、私たちは自分に進むように定められた道を妨げるものに対抗できます。そして 私たちが服従し明け渡すときに、損失が大いなる益に変えられることを実際に体験し学ぶべきです。私たちは神が私たちの状況を益とするように働かれるのを阻止するべきではなく、状況がいかに困難であろうとも神の愛に応答すべきです。こうして損失も又、喜びに変えられることができるのです。

 

私とパムは、二人の子供を亡くすというトラウマのただ中でも、神は私たちのためにもっと崇高な回復の約束を必ず実現させていてくださるのだ、ということをはっきり悟る事ができました。損失は、もし神の御手に服従し明け渡すならば、 私たちの内におられる神がいかに偉大な方であるかを知る機会を生み出してくれるのです。

 

私たちが経験する大変な困難も、主の御手の中でまことに祝福となり、 更にすばらしい預言の成就を人生に生み出します。そうです、辛く悲しく、最悪で耐えられないような時も、それを神の御手に捧げ、神に感謝するならば、それは喜びに満ちた時になり得るのです。そして時が入れ替わります。期待していた喜びを失った辛い記憶が、今あがなわれるのです。辛い状況は恵みによる変革によって、一生の間あなたのうちで祝福となるのです。

 

嘆きは喜びに

 

もし損失を経験しなかったならば決して知ることのないレベルの喜びがあります。悲しみが深ければ深いほど、より深い喜びを私たちは味わう可能性を与えられるようです。損失を経験したあとは、すべてのものが違って見えるようなります。聖書には「嘆きが喜びに変る」ことについて多く書かれています。

その例をいくつかあげてみます。

 

詩編30:5、11「まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。..あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。」

 

エステル9:22「自分たちの敵を除いて休みを得た日、悲しみが喜びに、喪の日が祝日に変った月として、祝宴と喜びの日、互いにごちそうを贈り、貧しい者に贈り物をする日と定めるためであった。」

 

エレミヤ31:13「わたしは彼らの悲しみを喜びに変え、彼らの憂いを慰め、楽しませる。」

 

イザヤ61:3「シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。」

 

ヨハネ16:16−23は、イエスがご自分の死と復活を預言しておられる麗しい箇所です。20〜22節は、弟子たちがこれから経験しようとしている悲しみと喜びについて率直に語っています。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。あなたがたも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びで満たされます。そしてその喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」

 

悲しみと喜びは深く結びついています。それは恐らく深い悲しみを経験すればするほど、喜ぶための力、度量を私たちが持つからかもしれません。それは丁度飢えと似ているのだと思います。空腹であればあるほど、食事はおいしく感じられ満足させてくれます。神はそれをご存知です。私たちには夜の悲しみと涙だけしか見えないかもしれませんが、神は喜びに満ちた輝かしい美しい朝をご計画されているます。私とパムはこの原則をよく理解していたので、ヨハネ16:22を私たちの双子の息子たちの墓石に刻みました。私たちの悲しみが、ある日喜びに変わり、それを奪い去るものは誰もいないことを知っていたからです。

 

神が悲しみのシーズンの後に喜びを与える一つの理由は、私たちの霊に新しい力の風をもたらすためかもしれません。嘆きは力を奪います。感情的霊的重荷によって私たちは弱り果てるのです。しかし 喜びが新しい勢いと力をもたらすことを神は知っておられます。「主の喜びは力(ネへミヤ8:10)」だからです。喜びは私たちが新しいシーズンに入るために必要な力を生み出すのです。

 

イエスが十字架にかけられた時の弟子のように、私たちも非常に厳しい、そして私たちを混乱させるような損失を経験するかもしれません。しかし、主が復活された時の弟子のように、大いなる喜びが私たちを待っていて、それを奪い去る者は誰もいないのです。

 

「あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。(詩編51:12)」私たちの敵は私たちの喜びを奪い、救いを完成させるプロセスから追い出したいのです。それは決して敵が私たちの喜びを奪うことによって救いを盗むことができるということではありません。しかし、救いに伴うはずの赦し、癒し、繁栄、回復から私たちを遠ざけることができるのです。敵の策略は多くの場合、ダビデ王に用いたものと同じです。敵は私たちが罪を犯すように仕向けます。私たちの生活の中にある罪ほど効果的に主の喜びを奪い去るものはありません。

 

しかし今という時、主の民が更に深く悔い改めをして喜びを回復することを、神は強く願っておられます。罪によって作られた破れ口を修復して 喜びを回復させることが神には可能なのです。箴言17:22に「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。」とあります。喜びは薬のように私たちの骨に癒しをもたらします。聖書が「主の喜びは私たちの力である(ネへミヤ8:10)」というのはこの理由によります。喜びは私たちを癒し、神が私たちのためにくださる健康を維持する力を持っているのです。

 

ダビデは罪の故に喜びを失いましたが、詩編51を見ると、彼が喜びを回復してくださるように主に願うことができたことが分かります。キリストの血潮により、私たちはダビデ王よりも更にすばらしい恵みの中にあり、私たちの罪を赦し、救いの喜びを回復してくださいと主にお願いすることができるのです。皆様が回復、勝利、癒しによって満たされることが私の祈りです!あなたは喜びを持ち運ぶ者と定められています。喜びを持ち運ぶものとなってください! 新しいレベル、領域の喜びの中に入り、あなたの殻から抜け出してください!(終り)


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