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29 5月

礼拝者たち(ワーシッパー)の軍隊       フランシス・フランジペン         2012年5月30日


礼拝者たち(ワーシッパー)の軍隊

 

フランシス・フランジペン

 

聖書が「天の軍勢(heavenly host))」と言う時、私たちは普通「天使の合唱隊」のことを考えます。聖書でいう「host」とは「軍隊」であることがヨシュア5:13−14からわかります。「天の軍隊は賛美し礼拝する軍隊である。」ということは大変重要な真理です。実際、まず神を礼拝する者でなければ戦いをすることは誰にもできません。

 

艱難における中心ポイント:礼拝

 

ヨハネの黙示録を少し読めば、神とサタンは両者ともに礼拝者を捜し求めていることがわかります。(黙示録7:11,13:4,14:7、11参照)何度も繰り返し「獣とその像を拝む者」と「神を拝む者」とが対比され、明確に区別されています。

 

イエス再臨の前に起こる最後の戦いにおいて、すべての人生の結末は「礼拝の計り」によって計られます。戦いのさなかに私たちは誰を伏し拝むのでしょうか。神でしょうか、サタンでしょうか?

 

この戦いによって遂には主の御国がこの地に打ち立てられるのですが(黙示録11:15参照)その戦いの本質こそ現在の私たちの戦いの中心点でもあることを、私たちははっきり認識する必要があります。

サタンからの攻撃や誘惑にあったとき、私たちは信仰をもって忠実に神を礼拝するでしょうか? 真の礼拝が今の私たちの日常生活の中で現れていなければなりません。 小さな攻撃を受けたときに不平を言う者が、明日の大きな戦いの中で神を礼拝することは絶対ありえないからです。

主のイスラエルに対する召しは、荒野で神を礼拝し仕えるということであったのを思い出してください。 (出エジプト7:16)そして実際、 神のイスラエル人に対する愛と顧みをモーセが最初に彼らに告げたとき、彼らは「ひざまずいて礼拝した」と書かれているのです。(出エジプト4:31)しかし、試煉と困難がやってきた途端、民はつぶやき、不平を言い、そして明らかな反逆へと堕ちていきました。彼らの礼拝はうわべだけのもの、自分の益のための条件つきのものであり、心の奥底からではない外面的なものだったのです。

 

これと同じ上っ面だけの礼拝が、今日のキリスト教の大半に蔓延しています。主の民に対する大いなる愛、顧みに関するメッセージが語られると、私たちは熱心に身をかがめて礼拝します。しかし、日々の生活の中でプレッシャーが大きくなったり試みが来ると、私たちはなんといとも簡単に神に反抗し、主のお取り扱いに抵抗することでしょうか! 全能の主を真に礼拝することによって守られていない魂に、敵はやすやすと手を伸ばすことができるのです!

実際のところ荒野においてイスラエルのために主が持っておられた目的は、彼らが真の礼拝、即ち、 状況に基づくのではなく神のリアリティーに基づく礼拝、を完成させることでした。 荒野の苦しみの中で主を礼拝する心は、豊かな約束の地でも礼拝し続けることを主は知っておられます。

 

真に神を礼拝することなくしては、私たちが戦いに勝利することはありえません。サタンの攻撃や困難な状況の中で私たちから流れ出て行くものが、私たちの礼拝 の度合いを真にはかるものです。プレッシャーがかかったときに私たちの心から出てくるものが私たちの中にあるものなのです。それは安逸な時には隠されています。もしあなたが真の礼拝者ならば、どのような戦いのさなかでもあなたの霊からは神への礼拝がにじみ出てくるのです。 神への賛美、礼拝は、戦いの中で、私たちのたましいの回りに火の城壁を造るのです。

 

礼拝によって心を守る

 

殆どの人は、人間のたましいの基本的働きを理解しています。たましいは、知性、意志、感情で成り立っていると教えられてきましたし、それは正しいことです。普通、敵が教会を攻撃してくるのは、この3つの領域のどれかに対してです。私たちがサタンに対して戦うためには、これらの領域を守ることが非常に重要であることを私たちはしっかりと認識せねばなりません。

 

この戦いの特徴をさらにはっきりさせるために、知性と意志と感情に加えて、私たちの人生で起こる「様々な出来事」と「それらの出来事に対して私たちがどのように応答してきたか」が、私たちのたましいを形造っていると言うことを付け加えましょう。

現在の自分いうのは、今までの人生の中で出会ってきた事柄と、それに対して自分がした反応の集計からできています。虐待や苦難は私たちをある一方向にむけて打ち叩き、励ましや称賛は別の方へ膨らまします。それぞれの出来事に対する私たちのリアクションは、それがポジティブであろうとネガティブであろうと、私たちの個性を創りだす骨髄の中に注ぎこまれ、私たちの性質の中へと溶け込んでいきます。

 

私たちが記憶と呼んでいるものは、実際は私たちの霊が私たちのたましいの実体をじっと見ていることなのです。殆どの場合、一番よく覚えている出来事が私たちを一番作り上げているのです。実際、私たちの知性がある出来事を忘れられないのは、それが文字通り既に私たちの性質の一部になっているからです。

 

私たちのたましいは、過去の経験をどれくらい巧く、又はまずく扱ったかによって形造られます。聖書は私たちに、後ろを振り返らずに「うしろのものを忘れる」(ピリピ3:13、ルカ9:62参照)ように命じていますが、それは私たちがした「キリストのようではないリアクションに起因する結果を白紙にせよ」と言っているのです。神によってこれは不可能なことではありません。というのは、私たちの人生で起こった出来事はもとには戻りませんが、それに対する私たちのリアクションは今でも変える事ができるからです。私たちの過去に対する悪いリアクションを変るとき、私たちも変るのです。

言葉を変えれば、私たちは過去そのものを変えることはできませんが、神の前で礼拝する時に、その一つの行為として、祭壇の上に(神の前に)私たちの過去を差し出すことができます。このように自分の犯した過去の間違いをつつしんで神に差し出す―そのようなこころで真に神を賛美し礼拝する時に、神は私たちのたましいを癒し回復して下さいます。

 

私たちはみな、この世では良いことと悪いことをそれぞれに受けます。しかし人生を良くするためには、神(いのちの源である方)が私たちの経験の中にまで手を伸ばしてくださり、私たちをネガティブなリアクションからあがなってくださる必要があるのです。主が私たちの過去にまで手を伸ばし届いてくださるための通路は、私たちが主を愛し主を賛美、礼拝することです。

 

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8−28)この聖句を成就させるための鍵は、私たちが霊で神を愛する者となることです。 「神を愛する人々」には悪かったことも良いことに変えられるのです。私たちが主を常に愛するならば、私たちが人生で経験したことのすべては清められその愛の中であがなわれます。こうして悪いことも神の力により良いことに変えられるのです。

 

ですから、私たちのたましいの救いのためにも、又戦いの中で守られるためにも、私たちが礼拝者であることは絶対に欠く事のできないものです。艱難の嵐の中で私たちを安全に運んでくれる船は賛美、礼拝です。

 

詩編84編の神への賛美の中で、礼拝がたましいに与えるすばらしい効果が表現されています。「なんと幸いなことでしょう。その力が、あなた(神)にあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。」(5、6節)

 

もしあなたが「いつもあなた(神)をほめたたえて」(4節)いるならば、あなたの神への礼拝は敵のネガティブな攻撃を、あまい清らかな水の泉に変えるでしょう。礼拝する者にたとえ何が起ころうとも、彼らの「涙の谷」はいつも「祝福」でおおわれた泉になるのです。神を礼拝するものに先ずなることなしに、戦いに勝つことも人生の荒野を安全にわたることも出来ません。

 

礼拝:創造の目的

 

私たちは神の喜びのために創られました。私たちは自分のために生きるのではなく主のために創られたのです。主は私たちが主からのギフトや人々を楽しむことを望んでおられますが、まず主が喜ばれるために創られたことを私たちが知るようにされます。今の時代が終ろうとしている時、 神を喜ばせるためだけに生きることを目的とする人々を主は集められます。彼らの中に、神は人を創造された報酬を見出されるのです。彼らは主を礼拝する者たちです。彼らは神を喜ばせるためにだけ存在しているのであり、主が喜ばれるときに彼らも喜ぶのです。

 

主は彼らを 他の人々よりももっと痛みや困難を通してさらに成長させます。往々にして、外面的には彼らは 「神に打たれ、苦しめられた」(イザヤ53:4)ように見えます。しかし、神にとって彼らは主に愛される者であるのです。彼らが花びらのように踏みにじられる時、彼らからは神への賛美、礼拝がにじみ出ます。その香りはまことに美しく希有なことなので、天使たちも彼らの神への全面降伏(ゆだね)に対してしずかな畏敬の念で涙を流します。彼らこそが主の創造の目的であるのです。

 

「神は彼らを守り彼らが傷つかないようにしっかり護ってくださるはずだ」と思う人がいるでしょう。 しかし、彼らは他の人よりも痛めつけられます。実に主は彼らを砕き悲しませるのを喜ばれるように見えます。なぜならば彼らの肉体的、感情的苦しみのさなかに、彼らのキリストへの忠誠は純粋で完全にされていくからです。そして迫害に会うとき、 彼らは神への愛と礼拝だけがすべてである―そのような存在になっていきます。

 

キリストのしもべが、そのように完全に主にすべてを明け渡すことができたらsurrenderedどんなにすばらしいでしょうか。それでも神は私たちみんなを喜んでいてくださるのです。しかしながら、御国が近づき終末の戦いが激しくなっていく今、神を礼拝するためにだけ創られた者たちが、力と御子の栄光をもって現れる時がやって来ます。彼らの口には神への賛美があり、書き記された敵へのさばきを行います。(詩編149参照)主の礼拝者の軍隊の将軍として彼らは導くのです。(終り)

 

(著者のThe Three Battlegrounds からの抜粋)

—Adapted from Francis’ book, The Three Battlegrounds

 


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