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Walk With God Ministries

27 4月

聖餐(communion)の永遠の価値 ウェイド・テイラー


聖餐(communion)の永遠の価値

 

ウェイド・テイラー

 

ダイヤモンドのカットされた面を見ると、互いに反対を向いているような面があるのが分かります。ダイヤモンドが美しいのは、このように「反対」になっている面が互いに助長しあうからです。それと同じように、主の聖餐(communion)に与ることをどのように理解し、どのように経験するかにも多くの異なったものがあります。

 

ある人たちは聖餐を、主の御からだと血の「シンボル、象徴」として儀式的に受け取ります。シンボルや象徴にはいのちはありませんから、彼らは宗教的、或いは情緒的な満足を受け取るだけです。他の人たちは、主のいのちそのものを受けていると考えます。彼らは本当に主の御からだと血を自分の中に受け取っているのです。

 

聖餐に与るときには、「communion  霊的な親しい交わり」を効果的に受けるための準備の時間を持つべきです。主のいのちが私たちのいのちの中に流れ込むためには、私たちは主の臨在の中に引き上げられねばなりません。「主の臨在の中で主を待ち望む」ためには私たちがまず霊的領域に入らなければならないのと同じように、イエスの実際の(生きた)御からだと血を「受け取る」ためには、肉の領域と引き換えて霊の領域に入っていかねばなりません。

 

「communion 霊的な親しい交わり」という言葉は、コミュニケーション、即ちイエスが語られ私たちが聞き、そして私たちが話して主が聞かれる、ということと関係があります。ですから私たちがイエスと「 communion」に入り主と「一つ」となる時には、私たちは「枝」となり「ぶどうの木」に繋がって、主のいのちをいただくことができるのです。

 

まことのぶどうの木

 

私たちが聖餐に与ることに関して適応できる基本的な法則が神の御ことばの中に確立されています。

ロ—マ8:1−2「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」

 

この「罪にさだめられること」とは、罪を犯したゆえにアダムに与えられた裁き(死)です。この死の裁きを私たち一人ひとりが受け継ぎました。十字架で流されたイエスの血潮と私たちが一つになるとき、私たちは「罪の原理」から解放されるのです。私たちがイエスの復活と昇天と一つになるとき、「死の原理」から解放されるのです。私たちがいのちを与えるイエスと一つになるとき、私たちは「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の原理」を受け取るものとなるのです。

 

第一コリント15:45には「 聖書に『最初の人アダムは生きた者となった。』と書いてありますが、最後のアダムは、生かす(life-giving いのちを与える)霊となりました。」とあります。これは、癒し、健康、長寿をも意味しています。イエスからこの「いのち」のギフトを受けたものは、他の人たちよりも健康の質や寿命においても特出しています。

 

イエスは5つのパンと2匹の魚で大群衆を養いました。その後、彼らは再び空腹になったときに又食べ物を求めてやってきました。イエスは彼らのためにもっと良い物があると言われました。

ヨハネ6:53、58「...人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません...これは天から下って来たパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」

 

イエスは彼らに死ぬことのない高いレベルのいのちを与えようとされたのです。それを受ける条件は、彼らがパンと魚をもう一度食べるのではなく、主の肉を食べ主の血を飲むことでした。「永遠に生きる」という言葉は、第一には天国での永遠の命のことですが、私たちの今の生活にも適応できるのです。イエスは次のように言っておられます。

ヨハネ15:1−5「わたしはまことのぶどうの木であり...わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがは何もすることができないからです。」

 

イエスは「わたしはぶどうの木(いのちの木)であると言われました。そして私たちは枝であり、主のいのちを受け取るときに生きることができます。アダムの罪のために私たちはいのちの木と切り離され、知識の木につながれてしまいました。

 

主はけものを殺し、その毛皮でアダムとイブを被われました。血が流されたことによって罪の赦しがなされ、アダムとイブは赦されました。しかし、知識の木から食べたもの(自分で選び取る権利)は彼らの内に残りました。彼らは主のうちにとどまり主により頼むという状態を失い、もはやいのちの木から食べることができませんでした。それゆえに私たちすべての人間は知識の木につながれた状態で生まれるようになったのです。

 

私たちのためにイエスが十字架で完全に勝利されたことにより、私たしは知識の木から自分を切り離して、いのちの木に繋がることができるようになりました。そして「聖餐(communion)に与る」とき、私たちはイエスのいのちそのものが自分の中に流れ込むのを受けることができるのです。

 

もし聖餐のパンとぶどう酒をただシンボルとして受け取るならば、私たちは死んだ宗教の形式を受け取っているだけです。けれどもイエスはもはや死んではおられず、死からよみがえられ御父の右に座しておられます。ですからパンは主の生きたからだになった生きたパンです。ぶどう酒の杯は主の血潮、主の生きた血潮になったのです。私たちがそれに与るとき、主のいのちが私たちの中に与えられるので、主がご自身のいのちを私たちを通して生きることがお出来になるのです。

 

木のまわりから皮が全部はぎとられると、その木は死に始めます。根からくみ上げられるいのちをもはや受けられなくなり、やがて死んでしまいます。「ぶどうの木(イエス)」のいのちは、ぶどうの木につながって「枝」である私たちの中に流れこみます。そのためには枝(私たち)は、ぶどうの木に正しく繋がっていなければなりません。その時はじめてイエスのいのちが「永遠のいのちの力」として私たちの中に流れてくるのです。

 

いのちの木

 

それで、私は毎朝起きると、まず次のことをします。

「主よ、安らかな眠りを感謝します。主よ、アダムの罪により私は知識の木につながれて生まれてきました。けれども私のためのあなたの贖いの業により、私は知識の木から私を解き放ちます。そして私は枝としてへりくだってまことのぶどうの木のもとに来て、自分をいのちの木に再びつなぎます。それによって私があなたの生きた御からだ、あなたの生きた血潮をいただくとき、あなたのいのちが私のいのちの中に流れ込みます。」

 

肉体を保つために食事をすることは必要であり、私たちは一日に何度か食事をします。それと同じように、イエスのいのちを「摂取する」ことは選択の余地があることではありません。イエスの生きた「からだ」と「血」に与ることは、教会がやっているように第一日曜にするだけではなく、もっと何度もされるべきです。むしろ毎日するべきことであり、そうでないと私たちは霊的にも肉体的にも失うものがあるのです。

 

創世記3:22「神である主は仰せられた。『見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。』」

 

私は以前、「アダムは創造された時点で永遠に生きるように造られていて、罪を犯さなかったならば永遠に生きられたのだ」と考えていました。しかしながら、アダムは「土地のちり」から造られました。ちりから何かを形造るのは不可能です。そこには「湿り気」、即ち主イエス・キリストのいのちそのもの、が必要であり、それは私たち「ちり」の中にぶどうの木から注がれるものであり、それによって私たちは形造られ、調えられ、目的を与えられるのです。

「...今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」(創世記3:22)

アダムはいつもいのちの木に来て食べていたので、その結果、彼は生きたのです。しかし彼が罪を犯したときに、いのちの木から食べられなくされ、死への道をたどりはじめました。私たちが聖餐に与るとき、私たちは「手を伸ばし取って食べる」のです。

 

突然、私は何が言われているのかを悟りました。

アダムがいのちの木からそれまでのように食べることができたとすれば、彼は生き続けます。しかし罪の裁きは死です。主がこの裁きを執行するためには、アダムが聖餐(communion)にあずかれないようにすればよかったのです。ですから、主はいのちの木の前に炎の剣を持つ天使をおかれ、アダムが食べられないようにしたのです。

 

ペンテコステの日に、この「炎の剣」はさまたげではなくなり、そこに行くようにと導くものとなりました。炎の剣は天から下り、そこにいた120人の頭の上にとどまり、彼らは聖霊に満たされました。神殿の幕はすでに裂かれていて主の臨在に入る道が開かれていました。

 

黙示録2:7「...勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」

私たちが「聖餐 (communion)」に与るとき、いのちの木への入口が私たちに開けられ、私たちはイエスのいのちそのものを食べることができるのです。主こそいのちの木です。

 

御からだのパン、 血潮の杯

 

イエスの奇跡を見るために出て来た群衆が空腹になった時、イエスは5つのパンと2匹の魚を増やして与え、彼らは食べて満腹しました。(ヨハネ6:1) 後に彼らが再びやってきてパンを求めたとき、イエスはご自分の肉を食べ血を飲まねばならない、と言われました。彼らは主をあざけり離れて行きました。主はその時、どのようにして御自分の肉を食べ血を飲むのかを説明することはできませんでした。それは私たちの罪のために主が十字架にかけられて死に、復活していのちを与える霊になる「時」ではまだなかったからです。イエスの地上での働きが完成されるとき、即ち十字架でいのちを与えられる前の夜に、主は私たちがどのように主の肉を食べ、主の血を飲めはよいのかを説明することが出来たのです。

 

第一コリント11:23−25「..主イエスは..パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。『これはあなたがたのために裂かれたわたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。』夕食の後、杯も同じようにして言われました。『この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。』」

イエスが「このパンはわたしのからだです。この杯はわたしの血です。」と言われたことに注目してください。主は「これはわたしのからだと血のシンボルです。」とは言われませんでした。次にイエスは、御国で私たちと新しく飲むその日まで、ぶどうの実で造ったものを飲むことはないと言われました。

ルカ22:16「あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」

 

御ことばは「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。」(マタイ18:3)と言っています。私たちが聖餐に与るときに私たちに見えるのはパンですが、イエスは「これはわたしのからだである。」と言われました。私たちが杯を飲むとき、私たちが見るのはぶどう酒です。しかしイエスは「これはわたしの血である。」と言われました。子どものこころをもって、私たちはシンプルに、自分が見るものではなくて、イエスが言われたことを信じるのです。

 

ある人たちは「パン」と「ぶどう酒」は、まずイエスのからだと血に変えられねばならないと教え、祭司が信者のためにそれを行おうとします。また他の人たちは、それは祭司によらなくても自分ですることが出来ると言います。しかし私たちはイエスが言われたことを信じればよいのであり、パンとぶどう酒を信仰で受け取り、文字通りイエスのからだと血であると信じて受け取ればいいのです。必要とされる変化は私たちの内においてであり、パンやぶどう酒ではありません。

I コリント 11 「..これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」

 

この「これを飲むたびに as often as you drink it」ということばは、私たちは好きなだけ何度も個人的に聖餐に与ることができることを明確に語っています。私たちはいつでも聖餐与ることがまったく自由にできるのです。教会の礼拝の中での聖餐式だけに限られてはいません。イエスは「わたしを覚えて」と言われました。それは主の十字架の死を覚えるということではなく、主が群衆にむかって「わたしの肉を食べ血を飲むように」と言われたときのことを私たちが覚えるようにと言われたのです。

 

ヨハネ6:66−67「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。そこで、イエスは十二弟子に言われた。『まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。』」

この時、イエスはどのようにイエスの肉と血に与るのかを説明できませんでしたが、今最後の晩餐のときにお出来になったのです。この理解をもってイエスの御ことばを信じるときに、子どものような信仰で私たちは文字通り主のからだと血をいただくことが出来るのです。それを受けるとき私たちは決断せねばなりません。「主よ。私が見るのはパンとぶどう酒ですが、私は見えるものではなく、あなたが言われたこと(これはわたしのからだ、わたしの血である)を信じます。」と。(終わり)

  

(ウェイド・テイラー師は2012年2月29日に天に召されました。彼は教師として、また霊の父として50年間人々に仕えられました。彼は主との歩みとその深い霊により多くの人々から愛され尊敬されました。彼は油注がれた著者であり、御霊の深い真理を鮮明にシンプルに説きあかし、多くの読者を主イエス・キリストとのより親密な歩みへと引き上げました。)

 

 


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