神我らと共にいます ティファニー・アン・ルイス 2011年12月24日
神我らと共にいます
ティファニー・アン・ルイス
「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(インマヌエルを訳すと、神は肉の形をもって私たちとともにおられる、住まれる、人間として来られる、という意味である。)マタイ1:23
例年のようにクリスマス・キャロルが街に流れ、 あのすばらしい夜にベツレヘムの厩で生まれ、私たちと共に住んでくださる栄光のインマヌエルの降臨を人々に告げています。しかし、イエスは御父のもとに帰られました。ですから、今はどうなっているのでしょうか?
インマヌエルの預言は、国が歴史上困難な時期を迎えているときに与えられました。イザヤ7章には、神の民が戦いに直面していた様子が書かれています。当時アハズが王でしたが、 彼らが直面していた厳しい状況下で 彼らの心は「林の木々が風で揺らぐように動揺した。」(イザヤ7:2)と聖書は語っています。私にはそのことがよく理解ですます。悪魔が私の家を吹き飛ばそうとして強く息を吹きかけるとき、私の信仰心も風に吹かれてあちらこちらに揺れ動かされてしまいがちになります。
それで、神はアハズ王のもとに預言者イザヤを遣わし、神は敵の攻撃から彼らを守ると告げました。 続いて聖書は、私たちが神の約束を手に入れるために必要な御国の原則を忘れないよう教えています。即ち、「もし、あなたがたが信じなければ、長く立つことはできない。」(イザヤ7:9b)と書かれています。すべてのことは最終的には私たちの信仰に懸かっています。神は忠実な方であり約束されたことは必ず実行されると私たちが信じるかどうかにすべてが懸かっているのです。 真実に神に従う者たちを混乱させ惑わすために敵が用いる一番の戦略は、創り主の私たちへの愛とまことを疑わせることであるように思われます。
アハズ王は大きな決断をせねばなりませんでしたが、それと同じように私たちも毎日 難しい決断をせねばなりません。私たちは、神が御約束通り私たちと共におられ守ってくださると信頼するでしょうか、それともその状況から自分の力で抜け出そうともがくのでしょうか?
突然、神は考えられないようなことをされました。主はアハズにしるしを求めるようにと命令(そう、命令です。これがこの言葉の意味です。)されました。神が与えようとされたしるしは、そのしるしを見て王が力づけられ信仰が強まるものでした。神は王に確かなしるしを与えるから、それを求めなさいと言われたのです。 王は、よみの深みや天の高いところでしるしを求めることを命令されたのです。彼がそれをどこかで見つけ出すならば、そのしるしは神の全能の力、愛、真実を王に確信させるものとなったのです。(イザヤ7:11参照)
アハズは弱い王であり、自分の肉の弱さに葛藤する罪人でした、、丁度あなたや私と同じようにです。それにも拘わらず、神は驚くべき愛で、主の約束が成立するために必要なものを受け取るようにと、貴い招きをしてくださったのです。悲しむべきことに、神の最高に恵み深いこの申し出を、アハズは受けとらなかったのです。
私が驚くのは、アハズという名が「掴んだ、所有した、所有する者」という意味を持っていることです。それなのに彼は、神が彼に差し出しているもの、即ち神の真実さを彼に確信させるもの、に手を伸ばして掴もうとはしなかったのです。
しかしそれでもなお神は私たちに、しるしを与えてくださったのです。神は「与えるお方」であり、私たちにインマヌエルを与えてくださいました。一人の処女がみごもり、神の民を罪から救うためにイエスが生まれました。これこそ、私たちが一日も欠かさず毎日見ることができるしるしであり、 あらゆる状況の中で必要な希望と力を私たちは受け取ることができるというしるしなのです。 ハレルヤ!
イエスと同じように
神が私たちと共に住んでおられるのは全くすごいことです。しかし、 インマヌエルなる主は、更に驚くべきことを示されました。 「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためです。その方は真理の御霊です。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。そのかたはあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」(ヨハネ14:16—17)
主は更にヨハネ17:22で、主が地上におられるとき、御父が主の中におられ、主が御父の中におられたように、今日私たちも 同じ関係を持つことが出来る、と言っておられます。「またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。」
この驚くべき言葉をイエスが言われたのは、主が十字架へと向かう備えをしておられる時でした。弟子たちはいまや「インマヌエル 受肉した神が共におられる」を、まさに失おうとしていました。しかし、主は御父のところに行こうとしておられたのであり、それによって弟子たちは(そして、私たちも)かつて人に与えられたことのないものを得ようとしていたのです。それは「神が私たちの内におられる」ということであり、それこそイエスが持っておられたものなのです。
愛する皆さん、イエスが私たちに与えようとしておられることは、神とのユニティー、一つとなることであり、「受肉の神が私たちと共におられること(インマヌエル)」では達成できなかったことです。今日私たちが所有できる約束とは、 イエスが持っていたのと全く同じように、神を私たちの内に持つことが出来るということなのです。私たちは、イエスと全く同じように、神の中に生き、動き、存在することができるのです。イエスが持っておられたのと全く同じ親密さ、 祈りの力、 霊的洞察力を持つことができるのです。
この事実は私には偉大すぎて、理解できないほどです。でも私は必死で「インマヌエルなるお方」が下さったものを掴み所有したと思います。私たちは(人間としての)イエスが生涯でされた御業を見るとき、 人間にすぎない私たちには到底無理なことだと考えがちです。「主が水をぶどう酒に変えるのは当然です、主は神の御子ですから。主が愛し難い人を愛し、病人を癒し、水の上を歩くのは当然です、主は受肉され私たちと共に住む神なのですから。」と考えるのです。このようなメンタリティーのために、多くのクリスチャンは、今日彼らに差し出されているものを十分に所有していないのです。
ピリピ2章で聖書は、「イエスは神のあり方を捨てることができないとは考えないで、受肉され、私たちと共に住まれた神『インマヌエル』となられたときに、ご自分を無にされた。」と教えています。主イエスは、神の御子としての特別の特権を、今日私たちに与えておられるものの他に何か持っておられたのではありません。主自らが言っておられるように、主はご自分の力では何もされませんでした。すべての業はご自分の内におられる御父がされるのだ、と言われました。「わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分の業をしておられるのです。」(ヨハネ14:10)
愛する皆さん、神がイエスと共におられたように、神は私たちと共におられるのです、、全く同じようにです。
嵐のただ中で
マタイ8:23—26で嵐が起こったとき、弟子たちには同じ舟に乗っておられる「インマヌエル、神が彼らと共におられる」がいました。大波が襲い、舟に水が入ってきました。彼らは経験をつんだ漁師であったことを思い出してください。嵐の海をどのように乗り越えればよいのか、知っている人たちでした。それにも拘わらず、自分たちの力ではコントロールできない嵐のただ中で、彼らはイエスのところに来て「主よ、助けてください。私たちはおぼれそうです。」(マタイ8:25)と告げたのです。これは私たちすべてに起こることであり、 プレッシャーが大きくなった時に同じように感じたことがあなたにもあると思います。
一方、イエスは嵐に対して全く違うやり方で接しました。 主と御父は一つであったので、主は嵐の中でも眠っていたのです。弟子たちは主を起さねばなりませんでした。愛する皆さん、あなたはどう思われますか。 もし私が嵐に直面したならば、主が嵐のただ中で持っておられたような平安を私も持ちたいと切に願います! 実際、波をしかりつけて波がおさまるのを見たいと思いますし、イエスがしたように、嵐に襲われたときにも周りで起こっていることに影響されないで、波の上を歩きたいとさえ思います。
インマヌエルは私たちに「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。」(ヨハネ14:12)と言われました。
神は本当に私たちに しるしをくださいました。「処女がみごもっている。男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」というしるしです。そして「インマヌエル」が私たちと共にいたとき、 聖霊をおくってくださると約束してくださいました。それは聖霊が主の中におられたのと同じように、私たちの中にも住まわれるようになるためです。このクリスマスに、またこれからもずっと、私はこの約束をしっかりと掴みたいと思います。アーメン(おわり)