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22 11月

日本は揺すぶられている  坂  達 也        2011年11月22日


日本は揺すぶられている

坂  達 也

 

先月の半ば過ぎでしたが、私たち夫婦は、私の姉の危篤の知らせを受けて、急遽日本に飛びました。残念なことに、到着した時には既に姉は天に召されており(二年前に私たちの前で信仰告白をしておりました)、結果的にはその葬儀に参列することになりました。

姉の夫は大部前に仏教徒として病死していると言う理由で、嫁ぎ先の遺族は仏式の葬儀を主張していたので、私たちの希望した教会での葬儀は叶えられませんでしたが、その代わり、久し振りに仏式の葬儀に参加して少々驚いたことがあります。

と言いますのは、昔と違って今は葬儀業界という大きなビジネスが存在し、複数の業者がそれぞれ立派な教会並みの建物を建て、僧侶の手配から、斎場を含むすべての儀式、加えて送迎から会食まで一貫して請け負うという「葬儀業」が、私の郷里のような地方の田舎町ですら競われる時代になっていることを今回つぶさに経験したことです。

特に彼らによる葬儀で著しいこと(感心したこと)は、弁が立つ立派な一人の司会者が立ち、儀式の進行を丁寧に紹介し、ご焼香の仕方から、手を合わせて何を念ずるか、又、お経を読み、鐘や太鼓、木魚をたたく僧侶をうやうやしくまつり上げ、僧侶とそのお経のありがたさを強調し、この読教によって故人が冥土でいかに祝福されるかを実にうまく解説することでした。

私の印象では、仏式においてもこれだけの説明付きの儀式がなされると、会衆は皆仏教の葬儀の良さ、ひいては自分たちも同じように葬られ、先祖家族の待っている冥土に安心して行ける、死ぬことは怖くない、という見事な錯覚に陥り、多くの人はありがたい気持ちで帰路に着くと言うことでした。ある意味では、クリスチャンの儀式に参列するのと同じぐらいの「宗教的説得力」があると思いました。商売となると、仏教であっても、実に「売り込み」上手になるものだと感心した次第です。そして恐ろしさすら感じたことは、このやり方では、本当の神を知らない多勢の人たちを「広い門」からコンベア・ベルトに乗せて、滅びへの「広い道」をまっしぐらに大量に運び込むという悪魔の巧妙な惑わしの手口でした。

そう思った時に、日本でのクリスチャン宣教の難しさを今更のように感じました。特に日本ではキリスト教の宣教そのものが実に「狭き門」であり、又、実際に多くの場合、一人ずつ未信者の手を取りながら険しい狭い道を共に歩いて導かねばならない、その貴重な「狭き門」のミニストリーにおける労苦と忍耐は並々ならぬものであることを改めて思い知らされました。

 

葬儀を終えた私たちは、次に念願の東北の被災地を訪問しました。先ずは娘がボランティヤとしてこの五月から奉仕している仙台近郷の利府という所にあるオアシスチャペル(松田牧人牧師)-森郷キャンプ場に到着し、そこで3日間お世話になりながら、南三陸を含む被災の現場のいくつかを見ることが出来ました。

 

それにつけても、3月11日の東日本大震災の現場に立つた時に、ヘブル書12:26-29に書かれている「あの時には、御声が地を震わせた。しかし今は、約束して言われた、『わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう』。この『もう一度』という言葉は、震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。このように、わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではないか。そして感謝しつつ、恐れかしこみ、神に喜ばれるように、仕えていこう。わたしたちの神は、実に、焼きつくす火である。」(口語訳)という御言葉が私の心から離れませんでした。

「あの時」とは、イスラエルの民が最初に神に引き合わされ律法をいただいたシナイ山での出来事を指しています。そして「もう一度」とは、直接的には、シオンの山に降り立つキリストの再臨の時ですが、広い意味では、キリストが最初に地上に現れた時から再臨までの間の期間であり、特に再臨が迫った終末の時を指すと考えられます。その神が、「わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう」と言われるのですから、神が震わされる以上、神はそうする目的があり、それがたとえ「さばき」の一つの形であっても、神は良い(正しい)目的のためにことをなされます。その目的が「震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれ」最終的に「震われない御国」を築くことにあると書かれています。

 

私は終末時に起こる神のこの「震わし」は、日本のこの東日本大震災が、大きく地を揺るがす世界で最初の地震であると言う気がしております。そしてその目的は、神が日本を愛するがゆえに、他国に先立って日本人の足元を根底から揺るがしておられると信じます。今回私たちは、日本で震度4前後の地震を福島、東京、沖縄で三度経験し、本当に日本が揺すぶられていることを実感しました。

人間は、自分が立っておられないほど強く足元を震わされると、誰しも恐れと不安をいだきます。特に自分のやってきたことに自信があり、自分が築き上げてきた富と名誉と体制(伝統)にのみ頼って生きてきた人の足元の根底がぐらつく時、その人は恐らく自分の価値観と存在理由に今までにない不安を覚えるのではないでしょうか。

 

今世界の政治と経済が根本から揺れ動き、モラルの退廃が来るところまで来たと思わない人はいないと思います。人間のやって来たことの総決算として、特に神なしで築き上げてきた「バベルの塔」が大きく震われ始め、崩れ去ろうとしています。しかし、これは神がなさっていることであり、これこそは、人間が創造者の神の存在に気付くために必要な最低条件であると思います。

正直なところ、日本に深く根を下ろして来た神道とか仏教の体制と惑わしの「あの世」観を破壊し、人々をその呪縛から解放するためにはこれしかない、すなわち、天も地も激しく揺れ動かすことによって人間を震い上がらせ、その無知と高慢を根底から砕くことが必要であると私は確信しました。この神の御声による天地のゆさぶりは、これからも益々激しくなって行くでしょう。もっと大きな地震が来るでしょう。そして、それでも分らない人たちには、最後の「火のさばき」がキリストの再臨と共にやって来ることが黙示録に克明に書かれています。

 

今回の旅行で私たちは、被災地と悲惨な状態に置かれている被災者の姿の一端を垣間見ることができましたが、特に家を失くされた被災者の方々が無責任に造られたひどい仮設住宅に押し込められている状態を見て、日本国民を代表する政府のすることがこれだけでしかなかったのかと言う憤りに近い悲しい思いを持ちました。しかし、神が敢えてそれを許した理由は、私たちクリスチャンが、この不安と悲しみに絶望する多くの被災民に愛の救いの手を差し伸べる時が来たこと、それも二度とない大きな機会であることを感じさせるためであると思いました。

 

多くの人たちが世界から集まって復興への援助の手を差し伸べ、又、多くの信仰の貴重な働き手が、今も日夜被災地での伝道にたずさわっておられますが、その数は未だ限られており、宣教の働きは本当にこれからなされなければならないことを実感しました。

 

勿論、私たちの宣教の使命は東北の被災地だけではありません。日本のすべての場所で、同じように迫り来る終末の最後のチャンスを逃すことなく、最大の努力がなされねばなりません。

 

リバイバルはどのような形で来るのか

 

10月18日にジェフ・ジェンセン師の記事を紹介しましたが、それによると今30歳になっているか、なろうとしている若者たちが、これから起こる世界的規模のリバイバルに大いに用いられることが預言されております。

今までに起こった最も大きなリバイバルの一つは、英国ウエールズ地方で1904年に起こったリバイバルと言われております。その時に神が用いたのはエバン・ロバーツという20台半ばの青年で、彼を助けたのが何とティーン・エイジャーと子どもたちであったと言われますから、神がこれからもロバーツのようなへりくだった若い青年を用いるのはよく理解できます。

しかし、このジェンセン師の預言を読まれた方々のとっさの感想は、恐らく私と同じで、その年代より年を取ったクリスチャンを神は用いられないのかという疑問であると思います。

 

言うまでもありませんが、そのリバイバルのきっかけを担当する若い年代のクリスチャンを霊的に育て上げ、助けるのは、他でもなく私たち中・高年のクリスチャンです。その意味では今30歳のクリスチャンと私たち高年者は一体で主にあっての同労者です。特に、物凄い数の新しいクリスチャンが生まれて来る時に、そのおびただしい数のベービー・クリスチャンの面倒を誰かが看なければなりません。しかし、今の全クリスチャンのうちの、本当に霊的な面倒がみられるマチュアーなクリスチャンの数は限られており、迫り来る大リバイバルへの充分な対応はとても出来ないとリック・ジョイナー師は指摘しています。

 

私は、神が今まで一方的に起こされた種々のリバイバルと同じように、これから最も大きなリバイバルが起こされるという預言を確かに信じるだけでなく、それを大いに期待します。確かに使徒行伝には、一日に三千人、五千人の未信者が救われたことが書かれています。それにたずさわった使徒たちもイエスに心から献身した若い青年たちでした。

しかしその聖霊が起こされた一大リバイバルを経験したペテロ、ヨハネ、パウロたちの書いたものを読んで分かることは、彼らにはリバイバルが来るという浮ついた考えはみじんもなく、彼らの終末に生きるクリスチャンへのメッセージは非常に厳しいものであると言うことです。彼らは、キリスト者が罪から遠ざかり、聖く生きて、どこまでも、いや、殉教の死にまでも主と聖霊に従って生きる必要性だけを強調し戒めています。それはパウロが自らを「今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。」(2テモテ4:6)と言っている通りです。キリストの使徒たちは全く自分に死んで、主に仕えました。それ以外の何物でもありませんでした。

 

エバン・ロバーツは若いながらもそのような主の器でした。主に自分の命を捧げて従い通す第二第三のロバーツを主は今求めているのです。そのことこそが新約聖書において最も強調されているだけでなく、旧約聖書でもイザヤが預言しています。(イザヤ書66:2)

 

「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」

 

この一点に関しては年齢に関係がないと思います。主は常にそのような「キリスト者」を求めており、そのような人が特にこれからの時代に用いられることは明白です。

 

そのために、今神はクリスチャンをこそ、信仰の根底から震おうとしておられます。「震われないものが残るために、震われるものが取り除かれ」る時が来るからです。いや、既に来ているのです。そして、そのように主のためにのみ生きるクリスチャンからは、最終的に肉のものがみな廃れ、「太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず/月の輝きがあなたを照らすこともない。主があなたのとこしえの光となり/あなたの神があなたの輝きとなられる。」(イザヤ 60:19 新共同訳)とあるように、物としての光すら取り除かれ、神の霊的な光のみがあなたを照らし、その光があなたから光り輝く時が来ようとしているのです。

 

震われないものとされたあなたが未信者に接する時に、神を知らないその人たちが、あなたから神の光が輝いているのを見て、神を信じるようになる時が本当に来るのです。それはリバイバルが起こる起こらないに関係ありません。私たちがどこに行こうと、その行く先々で私たちが未信者に親しくリーチアウトする時に、相手があなたにキリストを見て信じる、そのような宣教の実が間も無くどんどん起こるようになることを期待したいと思います。(終わり)

 


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