水がめを肩から降 ベン・ピーターズ 2011年9月20日
水がめを肩から降ろす
ベン・ピーターズ
モザンビークでのハイディとローランド・ベイカーのミニストリーの下で働いているとき、 新しいレベルで啓示の霊が働くのを私はいつも感じます。この8月にペンバに於いて私は今の時に適った一つの洞察を、とてもシンプルなことから与えられました。それはイスラエルの父祖の時代に普遍的であった習慣に関するものでした。この聖書箇所を私は今までに幾度となく読んだにも関わらず、このような洞察が与えられたのは初めてであり、これは「この時のために such a time as this」、預言的な人々、真摯な信仰者たち、キリストの花嫁として選ばれ整えられている人々のために与えられたのだと私は信じます。
「水がめを取り降ろしなさい」
創世記24章には、アブラハムのしもべがイサクの花嫁を忠誠を尽くして探す話が書かれています。イサクは、忠実で信仰に満ちた父親から大いなる財産と契約の約束を相続する者でした。多くの説教者や教師たちは、アブラハムのしもべを主イエスの花嫁を見つけ整えるために来られた聖霊に喩えています。
しかし私が 今回初めて心に止めたことは、 一見何でもないような表現がこの箇所で繰り返されていることでした。最初は14節に書かれています。「Please let down your pitcher that I may have a drink. あなたの水がめを降ろして水を飲ませてください。)」ここで重要なのは「あなたの水がめを降ろして」という所です。
15節ではリベカが「水がめを肩に載せて出て来た。」と書かれています。リベカは泉に行き水がめを満たし家路につこうとしていました。それは水の一杯入った水がめを肩にのせて長い道のりを歩いて行くことを意味していました。その時にアブラハムのしもべが水をのませてほしいと彼女に頼んだのです。
どうか18節に書かれていることに目を止めてください。「すると彼女は『どうぞ、お飲みください。だんなさま。』と言って、すばやく、その手に水がめを取り降ろし、彼に飲ませた。」とあります。その次にリベカが、しもべがイサクの花嫁を選ぶために主に願ったしるし通りに、全部のらくだに水を飲ませたことを私たちは知っています。
リベカとラバンの家に着いて、アブラハムのしもべは自分の旅で起こったことをリベカの家族に話しました。45、46節に詳しく話しているのを見てください。
「私が心の中で話し終らないうちに、どうです、リベカさんが水がめを肩に載せて出て来て、泉のところに降りて行き、水を汲みました。それで私が『どうか水を飲ませてください。』と言うと、急いで水がめを降ろし、『お飲みください。あなたのらくだにも水を飲ませましょう。』と言われたので、私は飲みました。らくだにも水を飲ませてくださいました。」
ここで直ぐに分かることは、泉から水をテントや家に運ぶ女性たちは、重い水がめを肩まで持ちあげて家までの長い道のりを帰らねばなかったのです。多分それは骨の折れる難しい仕事であり、若い女性はみな習得せねばならない仕事でした。水の一杯入った水がめを肩から降ろすのも、また大変だったでしょう。女たちは、のどの渇いている家族のために注意深く運んで来た貴重な水を少しでもこぼしたくなかったからです。
見知らぬ他人に水を与えるのは、家路を邪魔されることであり、水がめを肩から降ろし又持ち上げるという仕事が増えることを意味しています。それに水の減った水がめに水を汲んで足すという仕事もあるでしょう。
一人の人のために立ち止まる
ハイディ・ベイカーの「一人の人のために立ち止まる」というメッセージが力強く迫ってくるのはこの時です。私ならば、この見知らぬ旅人の願いは自分の現在の個人的目標を妨害するものだと思うでしょう。「この人は私がもう歩きだそうとしているのが分からないのだろうか?」とか「私や家族のための必要を満たす大切なものをもう肩に載せているのだから。」と思うことでしょう。遠くまで 汲みに行き肩に載せて帰らねばならないことを思えば、水の貴重さを強調しすぎるということはないのです。
「この男は私と私の家族のものを犠牲にせよと頼んでいるのだ」と私は感じるでしょう。 「彼の必要を満たすためには私の時間や労力、そして資源を与えねばならない。 私は自分自身の必要も考慮せねばならない。この男も自分の手があるではないか!自分で井戸から水を汲んで飲めばよいではないか。 私は水がめをもう肩に載せてしまっている。どうしてそれを又手に降ろして彼に水を飲ませねばならないのだ?」と私は思うことでしょう。
しかしリベカはこれを見知らぬ人を祝福するよい機会だと捉え、躊躇せず素早く肩(旅の姿)から水がめを手(仕える姿)に降ろしてしもべに水を与えました。リベカはイスラエル(ヤコブ)の産みの母となりましたが、この出来事は彼女の人生において、自分の将来ばかりか多くの人々や国々の将来を変えることになったのでした。彼女が少しの時間と労力と資源を犠牲にした故に、彼女はアブラハムの財宝からの高価な飾りの贈り物を受け、そして繁栄し富んでいる男性の妻となり、そして夫はユダヤ民族の偉大な父祖の一人として歴史を通して顕著な者となったのです。
妨げを神からのアポイントメントに変える
主は私たち個人に、またキリストのからだ全体に今語っておられるのだと思います。ヘブル13:2には「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。」とあります。邪魔が入っていらいらさせられるような時、それを神による運命的な出会いに変える機会として掴むことが私たちに出来るでしょうか? それとも自分の保身だけを求めて、神を信頼する必要もなく冒険もない普通の人生を送るのでしょうか?
生まれたままの肉の人間は、自分自身の家の安全、保証のために一生懸命働いて貯蓄し備えます。彼は自分が老年になった時、また自分が死んだあとのために、 十分な保険、年金、財産があるようにします。しかし、ある時、神が一人の人を彼のもとに遣わし、その人の必要のために自分の保身を犠牲にせねばならなくなるかもしれません。これは人にとってとても難しいテストであり、結論を出すまでには普通時間がかかります。
経済的資源を分け与えることは一番簡単なことかもしれません。神は、私たちの人生に神によって与えられた時間や労力、霊的賜物、聖霊の実を、私たちがもうこれ以上出せない、与えたくないと感じるときにも分け与えるようにと言われるかもしれません。又それは、私たちが何千人もの人々にミニストリーをするために極めて重要な聖会に行く途中であるかもしれません。たった一人の人のために立ち止まる時間などないのです。それで祭司やレビ人と同じように、私たちのエルサレムでの任務のために傷ついた旅人を通り過ぎて行き、「妨げ」を「よきサマリヤ人」となるべき神からのアポイントメントへと変える機会を失ってしまうのです。
神のなさり方は変ってはいません。神は今も「一人の人のために立ち止まる」特別のチャンスを私たちに与えてくださり、そうすることによって私たちは神に仕えることができ、自分が高められ祝福を受ける扉を開くことができるのです。聖霊と親密に交わりながら歩くことがどれほど重要かという理由がここにあります。私たちが出会う人々全員に彼らが欲するものを与えることは勿論できません。世界の多くの国では、一日のうちに何百人という乞食にあなたは出会うかもしれないのです。しかしその中の一人がイサクの花嫁を探している「アブラハムのしもべ」であるかもしれないのです。その人を逃したくはないでしょう。秘訣は聖霊の御声を聞きながらしもべの心を常に持って歩くことであり、 指令を受けたらすぐに立ち止まるこころの備えがあることです。
「わたしはリベカの霊を解き放つ」
イエスは主の民に対して語っておられると思います。主は今日、主の民に次のように語っておられると思います。
「わたしの聖霊は今、 わたしの花嫁がわたしの喜びとなるように真剣に整えています。聖霊は花嫁に水がめを取り降ろして主に水を飲ませてほしいと頼んでいます。しかし聖霊は他の人々、『一番小さな者』を通して水が欲しいと語られるのであり、誰が水がめを肩から降ろして渇いた者に水を飲ませるかを、一人ひとりテストしています。
又わたしは『リベカの霊』をわたしの教会に解き放っています。わたしは愛とあわれみのわたしの心と同じ心になる人たちの世代を興しています。彼らはテストに応答するでしょう。彼らは肩から水がめを手に降ろして、わたしのこころが祝福することを切に願っている人々に水を飲ませようとするでしょう。そうすることによって彼らは愛の捧げものをわたしに注いでいるのです。
彼らの従順の結果として、想像もできないほどの祝福がもたらされるでしょう。若いレベカがアブラハムのしもべからその時豪華な贈り物を受けとり、そしてイサクに嫁いだ時には莫大な富を得たように、わたしの王国にいる者たちは天と人々から突然にものすごい祝福を受けるでしょう。わたしはわたしの花嫁を、わたしと共に治め君臨するために聖め整えています。わたしの花嫁は、わたしが持つしもべの霊と愛とあわれみのこころとに完全にひとつにならねばなりません。互いに仕えあうことによって、あなたがたはわたしの永遠の花嫁を強め美しくします。それは又互いに愛しなさいというわたしのいましめを成就することにもなります。」
私たちの多くは、度々預言されてきた「富のtransfer移行」をずっと待ち望んできました。しかし、もしかしてある者たちは 肩に載せていた水がめを降ろすチャンスをすでに逃してきたのかもしれません。私たちは渇いている人々に水を注ぐことができたにも拘わらず、それはあまりに自分に都合が悪かったので、 助けを必要としている人のために立ち止まらないで先を急いだのです。
本当の犠牲なしにレベカは驚くべき運命を経験することは決してなく、富を受け取ることもなかったでしょう。しかし私たちがいままで水がめを降ろす機会を何回も逃してきたとしても、恵みとあわれみに富む神は、私たちが求めさえすればこれからもっとその機会を喜んで与えてくださいます。
しかし今までにも神の愛が多くのクリスチャンを通して流れだしており、それは見た目には小さいと思える沢山の犠牲を彼らがすでに払ってきたからであると私は信じます。そして隠れたところでなされたことを人々の前で報われる神は、彼らに大きな報酬を授けられるのです。
肩に水の満ちた水がめを載せながら、忙しすぎて誰かの必要を満たすことができないことがないように気をつけてください。それを取り降ろして神への生け贄として注ぎ出す時間と労力を惜しまないで下さい。その時起こる結果にあなたは驚くことになるかもしれません。(終わり)
Ben R. Peters
Kingdom Sending Center
Email: ohmint@gmail.com