27 6月
霊的成長 ウエイド・テイラー 2011年6月28日
霊的成長
ウエイド・テイラー
「ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。』すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。」マルコ1:16-18
シモンとアンデレに対しイエスは、彼らが容易に理解できる言葉で話されました。イエスは「あなたがたはこれからも漁をします。でもそれは今までより重要な仕事であり、そのためにわたしはあなたがたを召しました。これからは、魚ではなく人間をとる漁師になるのです。」と言われたのです。シモンとアンデレは人生の一つの場所からより高い地点(
イエスに呼ばれて人生の新しい目的を与えられる)へとあげられようとしていたのです。
主は私たちにも 古い欽定訳聖書の言葉ではなく、私たちが日常使っている平易な言葉で 話しかけられるかもしれません。
何年も前のことですが、ある農夫が畑で働いていると大雨が降ってきました。そこで彼は小屋に入って嵐が過ぎるのを待つ事にしました。彼がとうもろこし畑をながめていると、とうもろこしの持つ特徴について考察するようにと主に促され、とうもろこしによって表される霊的メッセージと悟りを与えられました。次に主は
「農場から出て行って、とうもろこしに関して与えられたすべての悟りを人々に教えるように」と彼に告げられたのでした。
とうもろこしは黄金色をしています。黄金は土の器である私たちの中に形造られる「神のご性質」を表しています。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」第二コリント5:17
私たちが罪を告白し、悔い改め、罪を清めるイエスの血潮の力を信じた時に、私たちは義とされます。私たちの救いの非常に重要な部分として「聖霊による新生」があり、それによって私たちは新しい性質を受け取ります。新しい創造となった私たちは、主の聖なるご性質(黄金)にあずかる者とされます。
「その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。」第二ペテロ1:4
私たちは 霊的乳飲み子、ベ―ビー、として救いの体験を始めます。そして霊的大人へと成長していくのです。
「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」第一ペテロ2:2
救いは無償の贈り物ですが、霊的成長はみずから勝ち取っていかねばなりません。私たちが受ける「神のご性質」を、肥沃な地に蒔かれた種にイエスは喩えられました。
「ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」マタイ13:23
土の器である私たちの中に「神のご性質」という宝が隠されているように、黄金色のとうもろこしの実は殻の中に隠されています。私たちと同じように、とうもろこしも頭に毛があります。とうもろこしにははっきりと等級があります。すべてのとうもろこし(私たち)が同じレベルに成長し成熟するわけではありません。
農夫は 広いとうもろこし畑の片隅の小屋で雨の止むのを待っていましたが、その時に、「クリスチャンの霊的成長はとうもろこしが育つのと同じプロセスを経て、同じような結果を迎える」という真理を主が教えてくださいました。
「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。」マタイ13:3
種を蒔く人は、 蒔いた種が十分に成熟して豊かな実りが得られることを当然期待しています。 土地の状態(私たちの状態)は収穫量と深く関係しています。
ある種は道に落ちて鳥に食べられました。石地に落ちたものは根をはることができませんでした。いばらの中に落ちたものは塞がれてしまいました。しかし良い地に落ちた種は三十倍、六十倍、百倍の実を結んだのです。
これと同じように霊的ベイビーの私たちの中に、主は主のご性質を蒔いてくださり、それが完全に成熟するようにと期待されているのです。主はこの喩え話を用いて、私たちの内なる態度と願い(良い地)や、
人生の中に入り込むのを私たちが許してしまう事柄(道ばた、石地、いばら)が霊的成長の度合いに大いに影響を与えることを教えておられます。
もし庭のトマトが初霜の下りる時になってもまだ青かったら、摘んで日の当たる窓際に置けばいいのです。だんだん熟して真っ赤になります。しかし、実が三十倍ついているけれどもまだ熟していないとうもろこしを窓際に置いたとしたら、それはそのまましなびて堅くなってしまいます。それは六十倍や百倍のとうもろこしにはなりません。クリスチャンの人生もそれと同じなのです。
霊的に言えば、私たちはトマトではありません。むしろ、とうもろこしなのです。私たちの霊的成長は、私たちの「根」がまだ今の環境という土の中にある間になされねばなりません。
多くの人が、「私たちは携え挙げられるときに変えられるのだ」という間違った考えを持っています。「キリストにある乳飲み子として地上を離れて行き、成熟した聖人として天国に到着する」というように想像しているのです。しかし、主の取り扱いをうける土壌から私たちの人生が引き抜かれると、それからの成熟は不可能であり、遅すぎるのです。摘まれたとうもろこしのように、それ以上の成長、成熟はおこりません。
私たちが完全に霊的成熟を遂げるための時間は限られているのです。とうもろこしが、その根がまだ土の中にある時にその実を成熟させねばならないように、私たちも地上にいる間に、私たちの内に主が働き、取り扱ってくださるときに私たちが正しく適切に応答することが必要です。
イエスはご自分の道におかれた妨害に打ち勝つことにより、御父と共に御座に着く資格を受けられました。
「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与えるものとなり」ヘブル5:8-9
それによって、主は私たちに「わたしが苦しみに打ち勝ったと同じように、あなたがたも打ち勝ちなさい。」と言うことがおできになるのです。
イエスがシモンとアンデレに話されたとき、彼らの仕事上の言葉を用いることは、彼らがイエスの言葉を間違って理解してしまう危険性がありました。主は彼らに「人間をとる方法(how
to )を習うために私に従いなさい。」とは言われませんでした。そうではなく、彼らが今より大切な仕事をする資格を得るための教育、訓練というプロセスを受けるように「わたしについて来なさい。Come,
follow me.人間をとる(立派に成熟した)漁師になるようにしてあげよう。I will make you to become
fishers of men(マルコ1:17)」と言われたのです。
イエスは「行きなさい Go」と言われたのでないことに注意してください。そうではなく、主は「来なさい Come」と言われたのです。
「召し」とはまず主のもとに来ることです。
私たちは「その場所(良い土地)」へ「来る(願いと姿勢)」ことが必要であり、そこで、主は私たちの内に変化を起こしてくださり、魚ではなく人間をとるにふさわしい成熟した漁師にしてくださるのです。
道に落ちた種は、主が耕される畝から離れたところに落ちてしまったのです。「良い地」とは神の鋤が土を耕すところです。この鋤は私たちのやり方をひっくり返し、私たちの霊的成長を阻むすべてのものを明るみに出すのです。気をつけていないと、神の鋤が自分の方にやってくるのを見て、私たちはそれを避けて横に逃げてしまいます。
私たちの人生 の畝を「神の鋤」が耕されるときに起こる問題は、それがすべてのことをひっくり返してしまうことです。こうすることによって神は
私たちの奥深いところに潜んでいる内なる問題に触れることできます。そして
私たちの存在そのものの根本から私たちを変えてくださるのです。もし私たちがそれに正しく応えて委ねるならば、
完全に成熟し、三十倍、六十倍、百倍もの豊かな実をもたらすことになるのです。
エペソ2:10に「私たちは神の作品である」と書かれています。私たち自身の
完全に成熟してなった(変えられえた)新たな性質こそ、私たちが蒔かれた良い地から主が収穫したいと願われているものです。
その時人々は私たちの内に 、完全に成熟した主イエス・キリストのご性格と人格の見本(百倍になったとうもろこし)を見るのです。
八百屋に行ってとうもろこしの殻をはがしてみたときに、まだ熟れていない三十倍の実しかなかったならばがっかりします。私たちは多分、
それをもとに戻して、もっと実が熟したよいものを探すでしょう。
私たちもそれと同じなのです。 私たちが主のより高い目的のために、主と一つとされ、今ある人生の場所から
引き上げられるときには、必ずや主のご性質を百倍表す者となった(主の命が私たちの命に中に、又、私たちの命を通して生きている)と見ていただけるようになろうではありませんか。
その時、私たちは次のステップ(即ち神の千年王国に入り、そこで十分主のために働けるように整えられる)に進む用意ができるのです。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」ガラテヤ2:20
イエスが最初に来られたときに、一つ(ずつ)の身体(個人)を通してされたすべてのことを、
再臨のとき、もう一度「キリストの身体」という人間の集合体を通して主はなさるのです。
この農夫のように、自分の仕事から主によって召し出された私たち一人ひとりが、地上という殻をはなれて、どうかイエスの命を見ることが出来るものとなりますように。(終)
ウエイド・テイラー
「ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。』すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。」マルコ1:16-18
シモンとアンデレに対しイエスは、彼らが容易に理解できる言葉で話されました。イエスは「あなたがたはこれからも漁をします。でもそれは今までより重要な仕事であり、そのためにわたしはあなたがたを召しました。これからは、魚ではなく人間をとる漁師になるのです。」と言われたのです。シモンとアンデレは人生の一つの場所からより高い地点(
イエスに呼ばれて人生の新しい目的を与えられる)へとあげられようとしていたのです。
主は私たちにも 古い欽定訳聖書の言葉ではなく、私たちが日常使っている平易な言葉で 話しかけられるかもしれません。
何年も前のことですが、ある農夫が畑で働いていると大雨が降ってきました。そこで彼は小屋に入って嵐が過ぎるのを待つ事にしました。彼がとうもろこし畑をながめていると、とうもろこしの持つ特徴について考察するようにと主に促され、とうもろこしによって表される霊的メッセージと悟りを与えられました。次に主は
「農場から出て行って、とうもろこしに関して与えられたすべての悟りを人々に教えるように」と彼に告げられたのでした。
とうもろこしは黄金色をしています。黄金は土の器である私たちの中に形造られる「神のご性質」を表しています。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」第二コリント5:17
私たちが罪を告白し、悔い改め、罪を清めるイエスの血潮の力を信じた時に、私たちは義とされます。私たちの救いの非常に重要な部分として「聖霊による新生」があり、それによって私たちは新しい性質を受け取ります。新しい創造となった私たちは、主の聖なるご性質(黄金)にあずかる者とされます。
「その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。」第二ペテロ1:4
私たちは 霊的乳飲み子、ベ―ビー、として救いの体験を始めます。そして霊的大人へと成長していくのです。
「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」第一ペテロ2:2
救いは無償の贈り物ですが、霊的成長はみずから勝ち取っていかねばなりません。私たちが受ける「神のご性質」を、肥沃な地に蒔かれた種にイエスは喩えられました。
「ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」マタイ13:23
土の器である私たちの中に「神のご性質」という宝が隠されているように、黄金色のとうもろこしの実は殻の中に隠されています。私たちと同じように、とうもろこしも頭に毛があります。とうもろこしにははっきりと等級があります。すべてのとうもろこし(私たち)が同じレベルに成長し成熟するわけではありません。
農夫は 広いとうもろこし畑の片隅の小屋で雨の止むのを待っていましたが、その時に、「クリスチャンの霊的成長はとうもろこしが育つのと同じプロセスを経て、同じような結果を迎える」という真理を主が教えてくださいました。
「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。」マタイ13:3
種を蒔く人は、 蒔いた種が十分に成熟して豊かな実りが得られることを当然期待しています。 土地の状態(私たちの状態)は収穫量と深く関係しています。
ある種は道に落ちて鳥に食べられました。石地に落ちたものは根をはることができませんでした。いばらの中に落ちたものは塞がれてしまいました。しかし良い地に落ちた種は三十倍、六十倍、百倍の実を結んだのです。
これと同じように霊的ベイビーの私たちの中に、主は主のご性質を蒔いてくださり、それが完全に成熟するようにと期待されているのです。主はこの喩え話を用いて、私たちの内なる態度と願い(良い地)や、
人生の中に入り込むのを私たちが許してしまう事柄(道ばた、石地、いばら)が霊的成長の度合いに大いに影響を与えることを教えておられます。
もし庭のトマトが初霜の下りる時になってもまだ青かったら、摘んで日の当たる窓際に置けばいいのです。だんだん熟して真っ赤になります。しかし、実が三十倍ついているけれどもまだ熟していないとうもろこしを窓際に置いたとしたら、それはそのまましなびて堅くなってしまいます。それは六十倍や百倍のとうもろこしにはなりません。クリスチャンの人生もそれと同じなのです。
霊的に言えば、私たちはトマトではありません。むしろ、とうもろこしなのです。私たちの霊的成長は、私たちの「根」がまだ今の環境という土の中にある間になされねばなりません。
多くの人が、「私たちは携え挙げられるときに変えられるのだ」という間違った考えを持っています。「キリストにある乳飲み子として地上を離れて行き、成熟した聖人として天国に到着する」というように想像しているのです。しかし、主の取り扱いをうける土壌から私たちの人生が引き抜かれると、それからの成熟は不可能であり、遅すぎるのです。摘まれたとうもろこしのように、それ以上の成長、成熟はおこりません。
私たちが完全に霊的成熟を遂げるための時間は限られているのです。とうもろこしが、その根がまだ土の中にある時にその実を成熟させねばならないように、私たちも地上にいる間に、私たちの内に主が働き、取り扱ってくださるときに私たちが正しく適切に応答することが必要です。
イエスはご自分の道におかれた妨害に打ち勝つことにより、御父と共に御座に着く資格を受けられました。
「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与えるものとなり」ヘブル5:8-9
それによって、主は私たちに「わたしが苦しみに打ち勝ったと同じように、あなたがたも打ち勝ちなさい。」と言うことがおできになるのです。
イエスがシモンとアンデレに話されたとき、彼らの仕事上の言葉を用いることは、彼らがイエスの言葉を間違って理解してしまう危険性がありました。主は彼らに「人間をとる方法(how
to )を習うために私に従いなさい。」とは言われませんでした。そうではなく、彼らが今より大切な仕事をする資格を得るための教育、訓練というプロセスを受けるように「わたしについて来なさい。Come,
follow me.人間をとる(立派に成熟した)漁師になるようにしてあげよう。I will make you to become
fishers of men(マルコ1:17)」と言われたのです。
イエスは「行きなさい Go」と言われたのでないことに注意してください。そうではなく、主は「来なさい Come」と言われたのです。
「召し」とはまず主のもとに来ることです。
私たちは「その場所(良い土地)」へ「来る(願いと姿勢)」ことが必要であり、そこで、主は私たちの内に変化を起こしてくださり、魚ではなく人間をとるにふさわしい成熟した漁師にしてくださるのです。
道に落ちた種は、主が耕される畝から離れたところに落ちてしまったのです。「良い地」とは神の鋤が土を耕すところです。この鋤は私たちのやり方をひっくり返し、私たちの霊的成長を阻むすべてのものを明るみに出すのです。気をつけていないと、神の鋤が自分の方にやってくるのを見て、私たちはそれを避けて横に逃げてしまいます。
私たちの人生 の畝を「神の鋤」が耕されるときに起こる問題は、それがすべてのことをひっくり返してしまうことです。こうすることによって神は
私たちの奥深いところに潜んでいる内なる問題に触れることできます。そして
私たちの存在そのものの根本から私たちを変えてくださるのです。もし私たちがそれに正しく応えて委ねるならば、
完全に成熟し、三十倍、六十倍、百倍もの豊かな実をもたらすことになるのです。
エペソ2:10に「私たちは神の作品である」と書かれています。私たち自身の
完全に成熟してなった(変えられえた)新たな性質こそ、私たちが蒔かれた良い地から主が収穫したいと願われているものです。
その時人々は私たちの内に 、完全に成熟した主イエス・キリストのご性格と人格の見本(百倍になったとうもろこし)を見るのです。
八百屋に行ってとうもろこしの殻をはがしてみたときに、まだ熟れていない三十倍の実しかなかったならばがっかりします。私たちは多分、
それをもとに戻して、もっと実が熟したよいものを探すでしょう。
私たちもそれと同じなのです。 私たちが主のより高い目的のために、主と一つとされ、今ある人生の場所から
引き上げられるときには、必ずや主のご性質を百倍表す者となった(主の命が私たちの命に中に、又、私たちの命を通して生きている)と見ていただけるようになろうではありませんか。
その時、私たちは次のステップ(即ち神の千年王国に入り、そこで十分主のために働けるように整えられる)に進む用意ができるのです。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」ガラテヤ2:20
イエスが最初に来られたときに、一つ(ずつ)の身体(個人)を通してされたすべてのことを、
再臨のとき、もう一度「キリストの身体」という人間の集合体を通して主はなさるのです。
この農夫のように、自分の仕事から主によって召し出された私たち一人ひとりが、地上という殻をはなれて、どうかイエスの命を見ることが出来るものとなりますように。(終)