油注ぎを受けて流し出す マへシュ&ボニー・チャブダ 2011年6月14日
油注ぎを受けて流し出す
マへシュ&ボニー・チャブダ
私たちが生かされている今、主は 一世紀以来なかったほどの油注ぎを神の民に与えておられます。主は私たちに油を注いでくださるだけではなく、私たちがその油をどのように管理し他の人に分け与えていけばよいのか、又、自分の人生の中の油注ぎを増し加えるためにはどうすればよいのかという事も教えたいと願っておられます。主は私たちに霊的勝利を与えたいと願っておられるのです。私たちは、神があらかじめ定めておられた特別なシーズンに 入っていくことをはっきりと自覚し、そのための準備をしなければなりません。それは非常に重要です。 教会の歴史の中で最も栄光ある今という時に、私たちが主の油注ぎを心から喜んで受け取り、自分の役目を果たすようにと神は私たちを招いておられるのです。
神は私たち自身の癒しや解放のために油注ぎを与えてくださいますが、それだけではありません。 私たちが油注ぎを受けて力を増し加えられ励まされることにより、他の人々のために主が奇跡を起される時に 用いられる器となることを主は望んでおられるのです。油注ぎがくびきを砕くのです。私たちは今、新たな預言的シーズンに入っているのであり、 私たちが神の栄光を持ち運ぶ者となり、束縛、罪、病というくびきを砕いてどこに行っても主の民を解放する者となるようにと、神は私たちを召しておられます。
御霊の息吹
簡単に言えば、油注ぎとは神の力が私たちのただ中に現れるということです。それは神の聖なる臨在の風であり、聖霊の息吹です。それはキリストの命と光が私たちの中に、そして私たちを通して輝き出ることです。油注ぎとは、神の命の泉からこんこんと湧き溢れるものであり、私たちの心から流れ出る「生ける水の川」です。
イエスは常に御霊の油注ぎの中を歩まれていました。主は公のミニストリーを次の宣言をもって始められました。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」(ルカ4:18—19)イエスは偉大なみ業をされるときは常に、油注ぎに全面的に依り頼んでおられたのです。ルカはこのように書いています。「ある日のこと、イエスが教えておられると、、、、、イエスは、主の御力をもって、病気を直しておられた。」(ルカ5:17) 主の御力とは油注ぎです。もしイエスが油注ぎを必要とされたとしたら、私たちはどれほどそれが必要なことでしょうか!
第一のものに焦点を当てる
主は私たちを御力で満たしたいと願っておられます。私たちが主の油注ぎの中を歩むことにより、主の愛、主の祝福、主のあわれみ、主の癒しの恵みがこの世界に流れ出ていくことを願っておられるのです。ほとんどのクリスチャンにとっては油注ぎを受けることは簡単です。難しいのはそれを保つことです。悔い改めと信仰をもってイエスのもとに来るとき、私たちは油そそぎを受けます。聖霊が 私たちの心の中に来て永遠に住んでくださいます。主の御声を聞いて従うことを私たちが学ぶとき、そして私たちが御霊に満たされるとき、私たちの人生に油が注がれ、それがどんどんと増し加わっていく顕れを私たちは見るようになります。
私たちが油注ぎを保つためには、一番大切な事柄に焦点を当てることを学ばねばなりません。まず第一に、 イエス・キリストに焦点を当てねばなりません。イエスは私たちの救い主であり、主であり、私たちのすべてのすべてだからです。イエスに焦点を当てるとは、主をますますよく知り、主をますます愛するようになることです。
二番目に大切なことは、 聖霊との個人的な関係を培うことです。聖霊をよく知り、歓迎し、聖霊の命の水を毎日深く飲むのです。聖霊は一人のお方、パーソンです。神と共に存在し、 神と共に永遠で、神と同等の方です。聖霊は私たちの助け手であり、教師であり、慰め主です。教会に在住される主です。聖霊は私たちに力を与えるために御霊の賜物をくださり、栄光の花婿イエスを映し出す者とするために油を注いでくださいます。 私たちを栄光から栄光へと変えてくださいます。
私たちの人生の油注ぎの力を必ずや減少させてしまうことの一つは、聖霊との個人的関係をおろそかにすることです。私たちは、自分のかたくなさ、ゴッシップや他のクリスチャンの陰口を言う事、クリスチャンらしからぬ言葉や行動、思い等によって聖霊を悲しませてしまいます。聖霊と常に一つ思いになるためには、日々の悔い改めが必要です。即ち、 あなたの思いや態度を聖霊の完全な光によって照らし出していただき、聖霊とその恵みによってもっとキリストの似姿へと変えていただくことです。
すべては愛による
ルカ4章で見たように、聖霊の油注ぎによって、イエスは失われた魂、貧しい者、傷ついた者のところへ導かれました。イエスのミニストリーの原動力は、燃えるようなあわれみの心でした。油注ぎの中を歩み、それを流し出して行くための鍵は、愛なのです。イエスがなされたすべての業はあわれみの心が動機となっていました。「また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」(マタイ9:36)
それと同じように、誰でも癒しの油注ぎを持つ人の心は、助けが必要な人へのあわれみで溢れるようでなければなりません。プライドや批判、断罪、偏見、律法主義、人を裁く態度等の霊は、聖霊の油注ぎとは全く相いれないものです。イエスの業をなすためには、私たちもイエスのようでなければなりません。イエスのようになる唯一の方法は、 主によみがえりの命をもって私たちの内で 生きていただくことです。私たちの肉が自己を焼きつくす祭壇で 焼かれる匂いだけが、油注ぎの香りと力を放つことができるのです。油注ぎを自分のためにだけ溜め込むことはできません。油注ぎを保ち続ける唯一の道は、それを流し出し与えることです!
私たちが油注ぎの中を歩むとき、 自分中心から離れて外にむかっていきます。自分のための油注ぎではなく、自分を通して他の人々のため、即ち奉仕とミニストリーへのために油注ぎを用いる道を進むようになります。
この国や社会、そして地上のあらゆる国は、聖霊の油注ぎに餓え渇いています。ヒューマニズムや知性偏重主義、偽りの宗教など空しいものは、空虚さを埋めることも暗やみが襲ってくるのも押しとどめることができません。世界はイエスとイエスの力を見ることに餓え渇いているのです。私たち主の教会は、キリストの花嫁であり、主の命に満たされ、主の命を与えるために整えられ油注がれた者であり、希望を失い死に瀕している世界への主の光、主の癒しの力そのものなのです。主の御霊が私たちの上に注がれています。私たちが福音を伝え、癒し、捕われ人を解放するために主は私たちに油を注いでくださったのです。
Mahesh and Bonnie Chavda Chavda Ministries International Email: info@chavdaministries.org