WWGM

Walk With God Ministries

12 6月

「時のしるし」―今、主はあなたの心を聖める  坂 達也 2011年6月13日


「時のしるし」―今、主はあなたの心を聖める

 

最近、しばらく振りにモーニングスター(リック/ジョイナー師)の「今週のビデオ」を開いて、最近録画された5分程の短いボブ・ジョーンズ師の話を聞きました。

彼は主からヨハネ9:37−40を見るように示されました。

 

【新共同訳】ヨハネ9:35−40

◆ファリサイ派の人々の罪

9:35 イエスは彼(イエスに癒された、生まれ付き盲目であった男)がファリサイ人たちによって)外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子Son of Godを信じるか」と言われた。

9:36 彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」

9:37 イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」

9:38 彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、

9:39 イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」

9:40 イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。

 

主が言われる。今は非常に危険が迫っている時。それは特にアメリカの情勢、ひいては世界情勢において。又、個人的にも霊的、精神的、肉体的に非常に危険な時である。そのような時期にあって、今、主はクリスチャン(選ばれた者)のあなたの内にある「貴いもの」と「そうでない一切の汚いもの」を選り分けて、汚いものを除去する作業が必要であることをジョーンズ師に強調したそうです。つまり、一切の「神からでないもの」を今こそ、あなたの内から排出するようにと言う緊急のメッセージです。

自分は何でも分かって見えていると自負するパリサイ人のようであっては、これからの危険な時期を乗り切ることは出来ない。むしろ、この盲目的にメサイヤを信じる(「ブラインド/フェイス」を持つ)元盲目であった男がイエス・キリストだけを信じ、自分を空っぽにしてイエスだけを頼りにする故に、彼は「眼が見える」ように開かれた。この人のような信仰だけに頼って生きる必要があることを人々に伝えるようにと、ジョーンズ師は命じられたそうです。

 

それで思い起こされるのは、しばらく前5月15日に掲載したフランシス・フランジペン師の「聖い心とオープン・ビジョン」のメッセージです。私はこのフランジペン師の記事は最近では最も重要なメッセージであったと思います。もしよろしければ、ぜひご再読をお勧めします。

そこで本日は、特にその中から下記の部分を引用したといと思います。

 

まことのイスラエル人は霊で見ることができる

 

イエスはナタナエルのことを「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」(ヨハネ1:47)と言われました。イエスがこのように感嘆したこの若い弟子はどのような人物だったのでしょうか。この若者の心の中には狡猾さや偽りがなかったのです。私たちもこのような清さを持ちたいものです。ナタナエルは「内側の目」を持っていました。彼は自己欺瞞に陥らないように自分を護っていました。私たちは内なる真理をしっかり握っていれば、外にある真理を認知することができます。ですから、ナタナエルはイエスを見てこう宣言しました。「あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」(49節)

イエスはナタナエルに言いました。「あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。まことにまことにあなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」(50—51節)ナタナエルが清くまっすぐな心を持っていたので、必ずオープン・ヴィジョン(霊の世界を見る目)が 与えられることを主は知っておられたのです。オープン・ヴィジョンは清い心の当然の結果です。罪と戦う人たち、偽りを憎む人たち、聖さの中を歩むことを熱心に追い求める人たち、あなたがたの努力は神を見るための準備です。あなたがたは天が開くのを見るでしょう。(引用終わり)

 

フランジペン師の言わんとするところは、ジョーンズ師のメッセージに共通する、特に今必要なメッセージであると思います。

 

ところで、私はヨハネ9章を開いているうちに、次の10章に眼が移り、9章の終わりの箇所と関連する重要なメッセージがイエスによって語られていることに気付かされましたので、それを引用して終わります。

 

はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。

イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。

わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。である。門から入る者が羊飼いである。

門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。

イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。イエスはまた言われた。

はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。』」(ヨハネ10:1−10 新共同訳)

 

私たち羊は、羊飼いの声だけを聞いて、他の声に惑わされないことです。他の声とは盗人、強盗と言う人間の声(それに自分の声も含めて)であり、悪魔のささやきでもあります。眼のよく見えない羊は自分の羊飼いの声だけを頼ります。(終わり)


Post a Comment