預言の成長 リック・ジョイナー 2011年3月15日
預言の成長
リック・ジョイナー
預言の目的
預言の啓示は、「印象、感覚」というレベルから、新約聖書にあるようにパウロやヨハネが天に引き上げられるというレベルまであります。一般的に言って、ドラマティックな高いレベルの啓示であればあるほど、それはより重要な啓示であると考えるのが普通でしょう。又、啓示のレベルが高ければ高いほど、それを受けた預言者のミニストリーはより偉大であると考える人もいます。
しかし、この考えは二つとも違う可能性があるのです。これまでの私たちの経験から 、啓示のレベルはそれの重要性とかそれを受けた預言者の権威のレベルに関係するのではなく、むしろ、それによって示される仕事の難易度に関係しているということを学びました。その理由から、 あまり啓示が与えられないシーズンとか、期間にあっても(特に 高いレベルの啓示が与えられないときは) 私たちは満ち足りることを学ぶべきであり、その期間は聖書を深く探り健全な聖書の真理により深く根をおろすために時を用いるべきです。
終末に関するすべての預言が明らかに示しているように、時代の終りに近づけば近づくほど、問題、困難は増してきます。ヨエル2章と使徒行伝2章にあるように、終りの時には預言の啓示も又増し加わるのはそのためです。困難な時代には 特に明確な神の導きを私たちは必要とするからです。
このように啓示が増し加わるとき、私たちは預言的啓示に関する基礎的な真理をしっかり心に留めておかねばなりません。 それは、預言的啓示は新しい教義を与えたり確立するためのものでは決してないということです。教義のためには書かれた御言葉が与えられているのであり、それだけがこの目的に用いられるべきです。多くの異端や偽りの教えの根は、預言的啓示(偽りの預言的啓示と言うべきでしょう)から受けたものだからです。
預言的啓示は神が持っておられる戦術、戦略方法を啓示するものであり、教義を示すものではありません。書かれた御言葉(即ちこれが私たちの教義ですが)は完成されたものであり、付け加えたり取り除いたりせよという神からの啓示が与えられることは絶対にありません。もしそのようなことをしようとする者があれば、私たちはそれは直ちに偽りの預言であると判断すべきであり、それがどのように与えられたものであっても拒絶すべきです。これに関して私たちは疑いの余地がありません。
印象、見分け、知識の言葉
さて私たちが低いレベルの啓示と呼んでいるものに戻りましょう。まず印象、感覚というもの、 見分けの賜物を見ていきましょう。見分けの賜物は人によってそれぞれ違った風に働きます。例えば、オラル・ロバーツ師の場合、ある人の頭に手を置くとその人の身体の悪いところを感じることができました。又、他の人たちは、ある人に焦点を合わせてじっと集中して待つと何かを感じ始めます。このような感覚、印象は啓示です。現代の最も偉大な奇跡のいくつかは、このようなレベルの啓示から始まっています。このことから最も低いレベルの啓示であっても、大変重要なことであり得ることが分かります。
感覚的啓示を受ける預言者は、ある人に焦点を合わせてじっと集中するとき、膝に痛みを覚えることがあり、それによってその人が膝の問題を持っていることが分かります。癒しのミニストリーにおける見分けは往々にしてこのようになされます。身体の癒しは最も容易に起こる癒しですが、感情的、霊的な癒しの領域に入ると「知識の言葉」が見分けと共に働く場合が多くあります。これは ある人に関して私たちが知るはずのない知識が与えられることです。私たちがある人を見ていると、自分は経験したことのないけれども、その人が経験したことを思い浮かべることができるのです。そのとき更にその人に焦点を当て続けていると 、 その人が置かれている状況、問題からその人を解放するための真理の言葉を主は与えてくださるのです。
これらは預言の賜物が癒しに関して働くことの一例にすぎませんが、実際それは人生のすべての領域に対して働くことができるのです。私がある教会のことにじっと焦点を当てていると、人に対するのと同じようにいろいろな感覚を与えられることを学びました。その次には都市に対して、そして国家に対して、ビジネスに対してというように、人々が興味を持ち関わっているすべてのことがらに対しても同じように啓示が与えられることを学んできました。
あるとき、主が私の友人に野球の世界選手権にどのチームが勝つかを教えてくださり、その中にメッセージがあると言われました。そして私たち二人はすべての試合が始まる前に 試合結果のスコアを主から知らされたのです。勿論私はこのような知識で賭けをして儲けるようなことはしませんが、そのスコアには確かに主からのメッセージがあり、優勝チームに関してもメッセージがあったのです。
すべてのことを神に従ってする
成熟した預言者は、自分の賜物をある事柄やある人のために用い、その事柄、その人の内側を超自然的に見ることができます。しかし私たちは主の業のために有用な事柄だけを見たいと願うべきです。御霊の賜物は私たちを喜ばすおもちゃではなく、主の業を行うための道具です。すべてを主への従順で行うことだけを求めるという預言の基本的誠実さ、高潔さを堅く保つとき、主は更なる権威と啓示を私たちに与えてくださいます。
主が 何に焦点を合わせることを私に望んでおられるのかを知る方法は、預言的示唆によるか、或いは次の2つです。1)私の心の中に何かに対する愛がどんどん大きくなってきて、その愛が私が自然に(通常に)抱く愛ではないと分かるとき。2)旧約聖書で「主の言葉の重荷 the Burden of the word of the Lord (ゼカリヤ9:1、12:1)」と呼ばれるものが心に来るとき。私たちが賜物を正しく用いるためにはこれらのことを理解するのが重要です。(終わり)