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Walk With God Ministries

06 3月

幼子のようなシンプルさを保つ ボビー・コナー  3月7日


幼子のようなシンプルさを保つ

神はへりくだった心に応えられる

 

ボビー・コナー  

 

神の御霊が私に言われました。「あなたにできる一番深遠なことはシンプルさを保つことです!」 人間が作り上げた宗教組織を見分ける一番てっとり早い方法の一つは次のことです。それは常に活動的であり、極端に忙しく、がむしゃらに働き、神がシンプルに創られたものを複雑でややこしいものにしていることです。

 

私たちが追求すべきことは、どんなことがあっても幼な子のような心を保ち続けることです。勿論、私たちは 成熟し大人になっていかねばなりませんが、その過程において、キリストに対する幼な子のような性質を決して失ってはなりません。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられることを忘れないでください。(第1ペテロ5:5)

 

キリスト・イエスは「天の御国では、誰が一番偉いのでしょうか?」という鋭い質問を受けました。マタイ18:1−5でイエスがされた返答を理解し悟ることは私たちにとって非常に重要です。

 

マタイ18:1−5 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せて、彼らの真中に立たせて、言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。」

 

この主イエスからの返答は、人間の考え方とは全く正反対です。「宗教」は知識や神学的見解をひけらかして、人々から常に称賛、感嘆を得ようとします。けれども、イエスは天の御国で一番偉大なのは、へりくだった幼な子のような心であることをはっきり示されました。

 

この箇所は、私たちが子供っぽいとか幼稚なのがいいということではなく、私たちは自分を低くして幼な子のようになる必要があると言っているのであり、それについて理解と洞察を与えています。幼な子のようになる事と回心とは、年齢に関係なく、一緒に起こることのようです。普通子どもの特徴は、シンプルで、人を信頼し、正直であるということです。そして、このような性質こそ、人をキリストへと導き回心にいたらせるものです。

 

問題点:人間の性質

 

幼な子のようになるために非常に大きな障害となるのはプライドです。尊大なプライドは人間の性質の基本的な部分です。 人間は他人よりも自分 を高めようと常に考え行動するのです。神が本来意図されたような人間になる唯一の道は、幼な子のようになることであり、自分を高めようとする傲慢な心を打ち捨てねばなりません。自己中心の罪に陥ることは非常に恐ろしいことです。

 

マルコ9:33−37に見られるようにキリストの弟子でさえ、この自己中心というペストのような問題と格闘せねばなりませんでした。

その後カペナウムに着いた。イエスは、家にはいった後、弟子たちに質問された。「道で何を論じ合っていたのですか。」彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである。

 

イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。それから、イエスは、ひとりの子どもを連れて来て、彼らの真中に立たせ、腕に抱き寄せて、彼らに言われた。「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」

 

クリスチャンの性格

 

へりくだりに関するイエスの教えを理解するためには、幼な子を観察する必要があります。幼な子の無邪気さ、率直さ、信頼は、私たちに御国でへりくだることの意味を理解する鍵を与えてくれます。私たちの謙虚さは神の御前に出たときに明らかにされます。しかし、それだけではなく、私たちが他の人々の存在価値を高く評価し、彼らが御国の働きを助ける賜物を持っていることを心から信じて生きるならば、私たちの謙遜が本物であることは明かになります。霊的にレベルアップする最速の道の一つは「しもべとなること」です!

 

パウロは 人間の知恵とか雄弁さではなく、イエス・キリストとその十字架だけを説いて伝道しました。

 

第一コリント2:1−5  さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら、私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現われでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。

 

私たちも又、キリストとその十字架を、苦しんでいる世界にむけて高く掲げようではありませんか。このシンプルなメッセージは、応答する すべての者に深い影響、衝撃を与えるものです。シンプルさを失わないようにしましょう!(終わり)


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