2011年以降は「愛に駆られた信仰の力」の年 マンデイ・マーティン 11月20日
2011年以降は「愛に駆られた信仰の力」の年
マンデイ・マーティン
乱気流の中に入ると「愛に駆られた信仰の力」が起こり、イエスを愛する人たちを燃え上がらせます。過去にリバイバルが起こったときも常に、最初に自分の名声を主の十字架にかけ、その時代の人たちの魂の救いへの止まない(熱烈な)愛をもって立ち上がった人たちがいました。
最近、ウエールスからアメリカに帰る飛行機の中で経験したのですが、途中でものすごい乱気流に出会いました。飲み物は揺れ動き、人々は回りを見回して心配し始めた頃、機長からの放送でシートベルトの着用が発令されました。
私はそのとき私のiPodを通して礼拝の歌に心を傾けながら神の栄光に浸っている最中でしたが、「愛に駆られた信仰の力」が私のうちに強く起こりました。そこで私はすぐ隣席の友人チャールス・シャンプに目をやり「私たちは今神の至福の平安Shalom
of Godの中に入って(激しく揺れ)最高潮に酔いしれている。」と声をかけところ、彼は私の言い様に対して笑いで答えました。その後突然、私は300人の乗客に向かって大声でどなったのです。「乱気流よ、ストップ!感謝します。」
それを聞いた人々は最初、私を少々頭がおかしい(おどけた)男とでも思ったのでしょう、私に向かって笑いました。しかし直ぐシーンと静かになったのです。なぜかと言えば、私が叫んだとたんに風が吹き止んだかのように揺れが止まったからです。そして飛行機は着陸するまで二度と揺れませんでした。飛行機が着陸した後、私は人々にイエスの力が風を静止したのであることを証ししながら、神に栄光をお返ししました。
「主の臨在のとりこになった真のイエスを愛する人たちが、今私たちが生きている時代を動かす」と言うことを主が私の心に入れて下さいました。今までは「恐れの風」が世界の人々を(超自然ではなく)全く普通に生きるようにしばって来ましたが、これからは、今出てきている神の人々が受けている「愛の力の風」がそれに取って代わるのです。このような風の変化に完全に従おうとしている人の前に立ちはだかるのはむなしい(頑なな)宗教(の力)です。
愛に駆られた信仰の力
力強いミニストリーとか教会においてさえ、人々は、人間的な伝統と宗教の霊に隠れて、聖霊の助けに頼るのではなく、自分自身で自分の帝国を築き上げようとしています。ですから、それらの教会の建物の外は、メデイア、音楽、麻薬、アルコールが惹き起こす超自然的現象に魅されてたむろする死にかけの魂で一杯です。彼らはこれらのミニストリー帝国の内側で吹いている「愛の力」こそが、どうせ中毒になるなら、もっともよいものであることを知らないのです。このポスト・モダンの社会に生きる人たちは、キリストとは何のかかわりもなく生きているのです。
幸いなことに、愛の戦いが今起こっていて、聖霊にフルに占有されることを選んだ人たちが、その人格と誠実さをもって世の中の潮の流れの向きを変え、麻薬文化とメデイアに踊らされている社会に変革を起こそうとしています。
今人間的・政治的であることに留まるか、あるいはすべてを聖霊に明け渡して、燃えるような愛の火によって勝利の平安と神にある喜びを勝ち取るか、その中間で迷っている教会を、神の霊がこれから来て圧倒しようとしています。そして宗教の霊が今取り扱われつつあります。神は私たちが神学的知識を持つから動かれるのではなく、むしろその逆でさえあるのです。昔の初期教会の聖徒たちは、使徒の神学(新約聖書)を入手できるようになる前には雅歌に熱中していたということが知られています。彼らに取っては雅歌がバイブルであったのです。なぜなら、この書全体が花嫁に対する花婿の親密な愛について預言的に書かれていることに彼らは気が付いたからです。
多くの初期教会の聖徒たちは、そのような超自然の力をもって歩きこの世を変えましたが、それと同時に、大変な迫害も受けたのです。あなたは最近迫害を受けたと感じたことがありますか?
今ここに、神の恩恵の時が到来しました。主の教会として愛による信仰の力が増しつつあるのです。過去十年間に撒いてきた種が育ち、これからの十年間でその実りが刈り取られようとしています。しかし同時に、神の正しいさばきもなされ、それが私たちをみな驚かすでしょう。神からよい「さばき」をいただくためには、先ず諦めることを拒否する信仰がなければなりません。御ことばと霊による真の教会があらわれ、信じることが先に来なければなりません。
神の家にいて神を愛する愛人たち
イエスはルカ18章に出てくる不正な裁判官のたとえ話の最後を次のように締めくくっています。「あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」(ルカ18:8)
神はこれから町の人々がよい行いをするかしないにかかわらず町に来られます。それは主のからだに信仰が立ち上がるからです。社会を変革する主の愛人たちが主の家のワインを飲み始めたからです。雅歌2:4を直訳すれば「彼はわたしを酒宴の家(主の家)に連れて行った。わたしの上にひるがえる彼の旗は愛であった。」です。
エペソ3:14-19にはこのように書かれています。「 こういうわけで、私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」
クリスチャニティーは今、教科書から大きくはみ出そうとしています。もう理論でも観念でもなく、単なる人間のモラルをとやかく言うクラブでもありません。イエスが愛人のところに帰ってくるのです。「どうかあの方が、その口のくちづけをもって/わたしにくちづけしてくださるように。」(雅歌
1:2)の時です。
父よ、今爆発的に広がって行く超自然の愛の革命が起こされていますことを感謝します。それはいかなるミニストリーの人間的な努力に基づいて、導かれ、助けられ、整えられたものではない(ことに感謝します。)
神の栄光が現れる時リバイバルを起こそうとする人間の努力は神の栄光に踏みつけられ、キリストの勝利の再臨の前にすべてのものが回復されることでしょう。栄光の雲が主の家を満たします。聖徒は今全面的にイエスを外にあらわす時です。多くの人は、いずれにしても私たちのやっていることはクレイジーだと思っているのですから、今こそすべての人に愛をもって、イエスを全面的に押し出そうではありませんか。「もし彼らがわたしを迫害するなら、あなたがたおも迫害するでしょう。」と言われたイエスの御言葉を今自分のものとすることが出来るならば、私たちは大丈夫です。
ホーリネスとは、古い時代のパリサイ人のように自分はホーリネスとしてのエリート・ステータスを獲得したと誇らしげに自称する人たちのことではないことを覚えておいてください。そうではなく、単純に言へばキリストの十字架の御業を(心から)祝う信仰者のからだのことです。彼らは信じていることを自らがあらわし、愛に駆られた信仰の力を通して神の栄光でこの地球を満たすのです。
ヨハネ 7:38に書いてあります。「 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
あなたの教会とあなたの町が天によって裂かれるのを待つのではなく、あなたの中から砕かれた教会、砕かれた町が出ますように。そうです、主よ。アーメン(終わり)
原文はNov.18, 2010, Munday Martin “2011 and Beyond: The Year of the
Faith Force Driven by Love!”
http://www.elijahlist.com から取りました。