ダビデがエルサレムを勝ち取った時 フランシス・フランジペン 11月3日
ダビデがエルサレムを勝ち取った時
フランシス・フランジペン
教会が犯す大きな間違いの一つは、自分たちが持つべき信仰と目標の基準を、自分たちの(先人の)過去のやったことを基準に置いてしまうことです。イエスの再臨までに未だ多くの約束が成就されねばなりません。聖書は終わりの日には困難な時代がやってくると言い(2テモテ3:1)、又リニューワルと回復の時も来ると書かれています。(使徒2:19-21)
これから起こる世界的な闘争の中で、地上における神の御国は天の御国に一致したものとなるまで、更新・回復されていかねばなりません。多くの実りと神の栄光と力が発揮されていかねばなりません。そのために、私たちが獲得することが出来なかった色々な約束は私たちの子どもたちに与えられると信じることも大切です。
そのことに就いて、ダビデ王の生涯から私たちは励ましと導きを得ることが出来ます。彼の時代は今の私たちの時代に似ています。へブル人は約束の地にいましたが、そこには未だ打ち勝っていない敵が共存していました。ダビデが王に就任すると、彼は自分たちがそれまでに勝ち得た以上の主からの約束が未だになされないまま残っていることを知っておりました。特に、エブス族が今のエルサレムの地を占領していること、これを打ち負かすことが残っていました。ダビデがもし、彼の先人たちの成功(不成功)の成果を自分の標準に当てはめるとしたなら、ダビデはエブス人を襲うことを企てなかったでしょう。エブス族は山地に強い獰猛な民族であるという定評があったからです。今までこの民族は倒さねばならない相手のリストに載ってはいたのですが、誰も倒してはいませんでした。
考えてみてください。ヨシュアから士師記の時代を通してイスラエルには偉大なヒーローは多く出ましたが、誰もエブス人を征服していないのです。ですから、ダビデが彼らの要害であるエルサレムを乗っ取りに来ると聞いて、彼らは軽蔑を込めて「あなたはここに来ることはできない。めしいや足なえでさえ、あなたを追い出せる。」(2サムエル5:6)とあざ笑いました。
ここで二つのことが学べます。一つは、神が約束されたことは実現されねばならない(必ず実現する)と思う人は誰でも、過去の例から見てそれは無理であると恐れてはならないと、主が言われていることです。すなわち、あなたが今まであなたの教会とか都市とか国において神の力があらわされていないからと言って、神が一夜にして事態を変えることが出来ないと思ってはならないと言うことです。
二つ目は、私たちが打ち負かされるとすれば、それは多分悪魔自身によってではなく、不信仰なクリスチャンの神の導きではないアドバイスに起因する可能性が大きく、これに気をつけなければならないと言うことです。エブス人の嘲弄を思い出してください。「めしいや足なえでさえ、あなたを追い出せる。」と言ったのです。
私たちは霊の悪き者に対してはしっかり立てる信仰を持っているかもしれませんが、教会で私たちのすぐ隣に座っている霊的に目の見えない人やあしなえによって打ち負かされることにこそ気をつけねばならないのです。
「霊的なめくら」とは誰でしょう。端的に言えば、あなたの持つビジョンが見えない人たちのことです。神があなたの心に入れてくださった「将来に目が向いている信仰」にめくらになっている人のことです。そのような人があなたの霊的カンセラーになることを許してはいけません。気をつけてください。多くのクリスチャンがそのような「霊的めくら」の人たちに(意外に)同情的・同調的なのです。僅かであっても彼らの不信仰のパン種が、必要で重要な戦いの時にあなたの信仰を弱らせるのです。
霊的めくらと共に感情的あしなえが挙げられていますが、この人たちは過去に何か(あるいは誰か)によってつまずいた人たちです。彼らはもはやキリストと歩調を合わせて歩いていない人たちです。皮肉屋と言われる人たちとあなたの夢を分かち合うことに気を付けてください。そのような“感情的あしなえ”の人の警告を聞いていると、彼らの言い訳が私たちの(霊的な)力をそぐことになるのは時間の問題です。私たち自身も必要以上に慎重になり過ぎ疑い深くなります。私たちは他のクリスチャンからのカンセリングが必要ですが、又、私たちは常に人を赦すこと、そして私たちに反対する人たちにもやさしい態度でなければなりませんが、霊的に目が見えない人と感情的あしなえの人が私たちのガイド役となることを許してはなりません。
私たちの世界での真の敵は、人ではなく、社会に悪い影響を与える霊的な力(フォース)です。覚えておいてください。もし私たちが「あしなえ」とか「目が見えない」のであればイエスが癒してくださいます。しかし、事実先程のエブス人のように、サタンは私たちの以前にいたクリスチャンの多くの失敗を見張っています。町全体とか国家的リバイバルのために牧師やとりなし手が祈るときに私たちは悪魔の冷笑とさげすみに気がつくことがあります。この悪魔の侮蔑に実質的な力がないのではありません。
一般的に言って、私たちの霊的祖先たちはその町の悪の要塞を取り崩すことに成功していなかったのです。と言うことは過去の歴史はまさに悪魔側に有利なのです。しかし神は私たちに、他から影響を受けて変わったりしない不変な御ことばを下さっています。それが神の約束です。
「この幻は、なお、定めの時のためである。それは終わりについて告げ、まやかしを言ってはいない。もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。見よ。心のまっすぐでない者は心高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」(ハバカク2:3-4)
「信仰で生きる」とは、神から与えられたビジョンが実現するまで神を信じ続けることです。歴史がエブス人側に味方しているにもかかわらず、私たちは読みます。「しかし、ダビデはシオンの要害を攻め取った。これがダビデの町(エルサレム)である。」(2サムエル5:7)
エブス人に勝利するというゴールを持ち続けることに、実はダビデは彼の若い頃から心引かれるものがあったようです。聖書によれば、ゴリアテを殺した後、彼はそのペリシテ人の首を取って、エルサレムに持ち帰ったと書かれています。(1サムエル17:54)当時エルサレムはエブスと呼ばれ、エブス人が住んでいました。ダビデはあたかも彼らに「よろしい。私は今はただの若者だ。しかし私はこのペリシテの巨人を征服した。よく覚えておけ。私は必ずあなたたちのところに帰ってくる。」と言っているようです。20年足らずの後、ダビデはイスラエルの王となって帰ってきて、ゴリアテと同じようにエブス人の要塞を征服したのでした。そしてその町エルサレムを「ダビデの町」と命名したのです。
これは私たち自身ではなく神の御ことばが実現・成就したというお話です。神のことばが成就せずに終わることは決してありません。ダビデはエブス人の侮蔑のことばに不信仰によってひるむことはありませんでした。彼の先祖の失敗の歴史に信仰を失うこともありませんでした。そうではなく、-これが重要なのですが-ダビデは、エブス人との戦いは神の約束のための戦いであると信仰で理解したのです。それは主がアブラハムに約束したように「あなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。」(創世記22:17)の実現でした。ダビデは神の約束は絶対に彼を味方すると信じて行動したのです。
キリストを通して地域社会に神の圧倒的な影響力を及ぼして都市を勝ち取っていくことはアブラハムの霊的子孫が受け継いだ世襲財産であるのです。これは私とかあなたがが言っているのではなく、全能の神の約束です。神がそう言ったのであり、それを神が果たされるのです。神の民は彼らの敵の門を勝ち取り占領します。私たちの住む都市を、私たちよりも悪魔の方がより強く保持したいと望むのであれば、それは私たちクリスチャン教会にとって非難されるべき恥かしいことです。エルサレムをダビデが望んだのは神から出た願いでした。それはキリストから来た願いです。神の町になるためなのです。
ダビデは単純に神の約束を信じたのです。私たちもそうでなければなりません。主は「もろもろの国はあなたの光に来る。」(イザヤ60:3)と誓われました。
私たちは誰を信じるのですか?霊的に目が見えない人の助言ですか、それとも神が言われた約束をですか?イエスご自身が言われます。「信じる者には、どんなことでもできるのです。」(マルコ9:23)
あなたは信じますか?それとも、あなたは単に教会に集う良き不信仰者ですか?
もし私たちが失敗したら、大恥をかくのではありません。私たちは霊的ヒーローであった私たちの先人たちの仲間入りをするだけです。私たちの先人とは「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでした・・・」(へブル11:13)と言われる人たちでした。確かに、疑いを持って生きるよりは信仰を持って死ぬ方がよいでしょう。
しかし、考えてみてください。もしも町を勝ち取ることに成功するとしたら、どうなるでしょうか?私たちが神を信じ切るプロセスにおいて、主がキリストの忍耐強さとそのご性質を私たちに分与してくださり、その中において、主が私たちを助けて私たちの地域を主にお返しすることを実現させてくださるとしたら、どうでしょうか?
主は諸国の民が私たちの光であるキリストに来ることを約束してくださいました。それなのに、私たちが先人も出来なかったのだからと、先人の失敗を例に取り、信仰で戦い取る努力もせずに気迷う私たちの信仰のなさをどうぞおゆるしください。
私は今、主が私たちの国に偉大なことをしてくださると信じます。ダビデが信仰によっで偉大な町エルサレムを果敢に勝ち取ったように、私たちもダビデに従い、あなたの約束が必ず敵を敗北に追いやることをイエスの名において信じます。アーメン(終わり)