25 1月
どこでもドアー 坂 柚実子 1月25日
どこでもドア
うちの息子は子供のときドラえもんが大好きで、日本の主人の友人からいつもドラえもんのビデオを送ってもらっていました。ドラえもんのポケットから出てくるいろんな小道具は、本当に夢があります。タイム風呂敷や竹コプター、翻訳こんにゃく等々、「こんなものいいな、あったらいいな」のテーマソングの通りですね。その中でも一番の憧れは「どこでもドア」でした。いつでも行きたいところにすぐにいける、というのは、誰もが望むことでしょう。
先日のオダ牧師のメッセージは「私たちには天国の鍵が与えられている。私たちの入っていくところは、いつでも天国にすることができる。」というものでした。どこに行っても、私たちが王の王であるイエス様と共に入っていけば、そこを神の御国にすることが出来る、というのです。私たちはどこにでも天国の入り口を持っていくことができる、そしてその鍵を持っているのです。ドラえもんの「どこでもドア」がドアの向こうに行きたい場所が現れるのと違い、天国の「どこでもドア」は自分の行くところをどこでも天国の入り口にすることができるのです。イエス様をお連れすることが鍵でしょうか。
私にはもう一つの「どこでもドア」がありました。私はオレゴン州で10畳の和室で茶道を教えていたのですが、そこで、4畳半とか2畳での点前を教えるときは、竹と木で作った至極簡単な戸のようなものを置いて小間のお稽古をしていました。マックスというアメリカ人男性の生徒が作ってくれたものでしたが、大変便利で、みんなで「どこでもドア」と呼んでいました。それを置くだけでそこが小さな茶室の入り口になり、生徒たちは神妙にそこから出入りしました。先ず、「どこでもドア」の前に正座をして気持ちを静め「和敬清寂」の心になります。そしておもむろに「どこでもドア」を開けます。室内にいる客と目を合わせて、「お茶を一服差し上げます。」と心をこめてご挨拶します。
天国の「どこでもドア」も、もしかしてそんな風に扱ったらいいのかもしれません。自分は神の国を持ち運ぶ使節なのですから、行くところ行くところにドアを設置し、開ける前にその心がまえを持ち、イエス様と共に入っていくのです。これに関して教会の人の証を聞くことができました。彼女のご主人がオフィスの引越しをする手伝いをしたとき、このメッセージを思い出して、ご主人が様々なことでイライラしていた時に神の平安と共にオフィスに入り、そこを神の御国にすることが出来たと言う証でした。
グルーバー師と祈りの歩行をされた方はご存知のように、師はどこへ行っても、必ず門のところで、詩篇24編7-10節を引用して「門よ。お前たちのかしらを上げよ。天の永遠の戸よ。あがれ。栄光の王(イエス)が入ってこられる。」と宣言されます。それと同じように、私たちも「天国の入り口・どこでもドア」をいつでも、どこにでも、持ち運んでいくことが出来たらいいですね。
(終わり)
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