04 5月
神とあなたの未来 個人預言について デニス・クレーマー 5月4日
神とあなたの未来
デニス・クレーマー
個人預言とは、個人に対する可能性、起こりそうなことーそれを私は御国のオプション(選択肢)と呼んでいますがーを語るものである、ということを聖書は明確に教えています。 それは必ずしも保証されたことや確実に起こること、又、必然的なことをあらわすものではありません。預言は、それが実際に成就するかどうかに関係なく、神の最良のもの、神の理想、神の究極の目的、神があなたに対してもっている完全な目標を表しています。別の言い方をすれば、個人預言は神の条件つきの御心を示しているもので、必ずしも神が今すぐに何かをされるという言葉ではないということです。
例えば、神はイスラエルの子たちに預言され、皆が約束の地を所有するといわれましたが、主はそのとき2百万の民の中でただ二人だけしか約束の地に入れないことをご存知でした。 それにもかかわらず、主は預言され、主の意向を表されました。又神は、サウロが王になると預言されましたが、彼の治世は恥辱のうちに本来の時を待たずに終わってしまうこともご存知でした。それにもかかわらず、主は預言され、主の意向を表されたのです。神はへゼキヤは死ぬと預言されましたが、彼が生き続けるということもご存知でした。それにもかかわらず主は初めの意向を示され、それからヘゼキヤに憐みをかけられ、15年の猶予をあたえられました。神はニネベを滅ぼすと預言されましたが、ご自分は滅ぼさないこともご存知でした。それにもかかわらず、神は語られ、神の最初の完全なる意向を預言されたのです。神は、祭司職はエリの家を離れないと預言されました。主は主の意向をあらわされたのです。しかし、神はエリの子孫が早くも次ぎの世代にこの約束を失ってしまうことをご存知でした。しかし神は語られ、主の完全な預言的意向を表明されたのです。
もし、個人預言が必然的に起きることだけを表しているとしたら、イスラエルの子たちはみな彼らの不信仰にもかかわらず約束の地を所有していたことでしょし、サウロ王は彼の不従順な行為にもかかわらず、王として君臨しつづけたでしょう。ヘゼキヤは死んでいたでしょうし、ニネベは即刻滅んでいたことでしょう。祭司職はエリの邪悪な家にいつまでもとどまったでしょう。 しかし、これらの預言はみな成就しなかったのです!なぜでしょうか。
神は完全な予知能力があるにもかかわらず、個人預言をその予知で制限されることはないのです!主は、結末は預言の通りにならなかったり、あるいは預言とは程遠かったりするのをご存知であるときでさえ、ご自分の計画と目標を預言をもって明らかに示されるのです。すべての個人預言は大きな条件つきであり、それが完全に成就されるためには、その預言の中心的人物たちと周りの状況が相伴ってうまく預言の成就に協力して働かなければなりません。
預言は制限つきの賜物であり、その適用にも制限があるとうのが本当のところです。神は預言者に語られるときはこれを知れ」ということだけを話されます。主は隠された預言の目的をいつも明らかにされるとは限りません。 聖書には、「事を隠すのは神の誉れ(箴言25:2)」とか、「隠されていることは、私たちの神、主のものである。(申命記29:29)」とありますし、エリシャは「主はそれを私に隠され、(II列王記4:27)」といい、パウロは「預言することも一部分だからです(Iコリント13:9)」といっています。 神は神の預言者たちから物事を秘密にされます。 預言者たちに表されない神の秘密があるのです。神は隠されます。神は預言者たちに「一部分」だけを見たり話したりすることを制限つきで許されます。 その意味で、預言というものはそれにかかわるすべてのものにとって、リスクを伴うものであるといえます。 預言を発信する神にとっても、又、神の代理人としてそれを語る預言者にとってもリスクがあるのです。
それでは、クリスチャンが受ける真実な預言のすべてが、この地上で完全に成就されるのを私たちが経験できることはあるのでしょうか。多分それはないでしょう。そうだからといってそれは誰かの責任でしょうか。誰かの落ち度でしょうか。必ずしもそうではありません。それは預言者の落ち度でもなく、神の落ち度でもありません。これは個人預言がもつ本質なのです。
神の言葉は言っています、「この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、(彼らは信仰があり神に認められてもいたということに注意してください!)約束されたものを手にいれませんでした。(ヘブル11:39 新共同訳)」ですから皆さん、一日一日を信仰で生きましょう。そうすれば、神から受け入れられるのです。 アーメン!(終わり)
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