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Walk With God Ministries

22 6月

傷ついた心と父の愛          坂 達也   6月22日


傷ついた心

特にここ数年のことかもしれませんが、日本に行きますと、少し気になることに出くわします。それは日本のクリスチャンの間で「自分は誰々に傷つけられた」とか「深い昔の傷を何とかしなければ」と言うことを、まるでクリスチャンが皆、そのような傷を持っていることが当たり前であるかのように言い、それへのカンセリングが少し大げさに言えば「もてはやされている」ことです。

 そもそも「傷つく」とか「傷ついた」とはどう言うことでしょうか。それは人間の罪の性質から生じる「肉の行い」であることはガラテヤ5:20,21等を見れば明らかです。それを具体的に羅列してみると、敵意 争い、そねみ、憤り、党派心、分裂・分派、ねたみ、紛争・不和、殺意 憎悪、悪く言うこと、批判、虐待、いびる、非情、謀反心、反抗、虚栄に走る、等々…があります。そしてその結果として:感情を害する、不快になる、侮辱されたと思う、赦せない、反感・反目、立腹、怒りを感じ、憤る、憎しみを持つ、うらむ、人間関係が冷たくなり、愛が冷え、疎遠になる、…のではないでしょうか。
この現象をひっくるめて「傷つく」「傷ついた」あるいは「人間関係が傷ついた」と言い、その多くは「プライドが傷つく」ことでもあると思います。

 そこで私が気がつくのは、もしこれをクリスチャンが大問題にしているのなら、一体私たちが受け入れて信じたはずの「十字架」はどこへ行ってしまったのかと言うことです。
 イエス・キリストが私たちのためになぜ十字架についてくださったのか――それはまさにこの「傷つく」ことを私たちに替わってイエス様ご自身が「傷つかれ」その報いと根を処理してくださったのではなかったのでしょうか。
 1ペテロ2:24,25に「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ(罪に死に)、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」ここにこそ私たちがクリスチャンになった最大の理由があり、私たちの信仰の根本ではなかったのでしょうか。「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」と言うみ言葉を日常よく使っているマチュアなクリスチャンなら、少なくとも自分の「心の傷」は「いやされた」と言う「信仰」に立つことがそんなに難しいことなのでしょうか。

ガラテヤ5:24には、 「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や、欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」とあります。
ロマ書6:6-7でも、「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」と過去完了形で書かれています。
 罪とその性質から来る上記のような諸々の問題から完全に開放されるには「自分に死んでしまう」つまり、「自分の肉を十字架につけてしまう」以外に解決方法はないのです。もしそれ以外に解決方法があるのなら、イエス様は敢えて私たちのために十字架につくことはされなかったと思います。

そのことを端的に言い表わしているのが1コリント1:18です。「十字架のことば(ロゴス)は、滅びに至る人々にはおろかであっても、救いを受ける私たちには、神の力(ドウーナミス)です。」つまり、十字架のメッセージを本当に自分のものとするときに、それは奇跡を起こすような「力」が及んで、肉と罪の性質から来る一切の「傷つき」を払拭できるのです。これこそクリスチャンとしての最大の特権であると思います。どのようなカンセリングにせよ、それを受ける前にもう一度あなたの内におられる聖霊様から「十字架のメッセージ」をお聞きし、真に理解することによって、あなたの心の傷がいやされる力を受けることが大切であることを私は強調したいのです。
  私たち霊に生まれ変わったはずの、十年選手のベテラン・クリスチャンが、いつまでも肉の性質を十字架にかけようと努力しないで、それを「わがままに」放置したまま、「いつまでも傷ついている」ことを何か新しい大問題かのように取り沙汰していてよいものでしょうか。

 しかし、「自分に死ぬこと」によって「心の傷」を取り去ることが難しいからこそ、聖書ではそのことが繰り返し言われているのも確かです。心の傷がいやされることは「傷つけた人を赦す」ことに深く関係していますから、本当に難しく並大抵なことではありません。ですから私は「聖霊様からカンセリングを受ける」ことを基本とするクリスチャン・カンセリングのやり方が悪いと申し上げているのでは決してありません。イエス様は忍耐強く、やさしい方ですから、私たちが「心の傷」の問題を正直に提起すれば、聖霊様を通して主は解決のためのカンセリングをていねいにしてくださいます。(もっともそれが、人間的なカンセリングを人間的に受けて解決しようとするカンセリングであるなら、多くの場合、未信者のように古い自分を生かしたままで何とかしようとしますから、本当の解決にはなりません。)そこで、私はもっと良い方法を提案したいと思います。

 それは「父の愛」に私たちがもっともっと触れることです。溢れるような父の愛、私たちのために十字架にかかってくださったイエス様の愛を毎朝、主の前に出てふんだんに受け取ってください。私がいつも提案している「毎日、主と個人的に親しい交わりを持つこと」とはこのことです。そして、一日中父の愛を思い起こしてはその大きな愛に包まれて生きる時に、新しい傷を受けにくくなり、又過去のどのような傷も、たとえ傷跡は残っているかもしれませんが、その傷はもはやうずかないでしょう。
 
よみがえったイエス様の手と横腹には傷跡がありました。私たちがイエス様にお会いする時に、その傷跡をイエス様は私たちに見せてくださるでしょう。イエス様の十字架の傷跡は永遠に残ります。しかし、それは完全にいやされた栄光の痕跡として残るのです。私たちはそのいやされた傷跡の永遠の証し人になるように選ばれた人たちではありませんか。

本日は私たちに与えられたすばらしい溢れるばかりの父の愛に感謝したいと思います。天の父は、私たちにご自分のひとり子のいのちさえも惜しまずに与えてくださった愛を今日も又、ふんだんに与えてくださろうとして待っておられます。その父の愛を今受け取ろうではありませんか。
今回お訪ねしたある教会で、教 会の建物の至る所にセント・フランシス・アシシの祈りのことばが標語として張ってあり、その祈りの一部にこう書いてありました。

憎しみあるところには、愛を
傷あるところには、赦しを
疑いあるところには、信頼を
絶望あるところには、希望を、
闇あるところには、光を
そして、悲しみあるところには、喜びを
もたらすものとさせてください。

聖なる主よ。
慰められるよりは、慰めることを
理解されるよりは、理解することを
そして、愛されるよりは、愛することを
求められますように
与えることによってこそ、真に受け取ることができ
赦すことによってこそ、真に赦され
死ぬことによってこそ、永遠の生命に生まれることが
できるのですから

このことばをモットーとする教会とは父の愛を豊かに受けている教会の一つであるに違いありません。

私は以上のメッセージをこの父の日に与えられました。(終わり)


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