06 7月
リバイバルのための悔い改め フランシス・フランジペイン 7月6日
リバイバルのための悔い改め
フランシス・フランジペィン
真のリバイバルはひとりでに起こるものではありません。主が訪れる(リバイバルが起こる)ためには、その前に人の心の中に必要な条件が整えられなければなりません。
一時的な慰めではなく、解放を求めなければならない
往々にして今日、主の働き手たちは、自分の罪を悔い改めようともせず、又、神の助けを心から叫び求めてもいない人々を、一生懸命解放しようとしています。その結果、祈られた人たちは少しばかりの慰めは受けるかもしれませんが、すぐに又、罪を犯して落ち込んでしまいます。人々に真の解放を与えるための鍵は、その人が心から解放されたいという気持を持っているか、解放される用意ができているかを、祈る前にしっかり見分けることです。彼らは本当に悔い改めているでしょうか?自分の偶像を除いた人たちでしょうか? 心が本当に神に向いているでしょうか?
個人の解放のための神のパターンは、教会や町のためのパターンでもあります。主は私たちが心から助けを求めて叫ぶまで救ってくださらなかったように、多数のものが祈り求めて主に叫ばなければ、多くの教会や町を勝ち取ることはできません。町中の教会が一つとなって祈るようにと、キリストが今私たちを召しておられるのは、全能の主が答えてくださるような正しい心の態度を私たちが持つようになるためです。
神の御前で祈り叫ぶという土台がなければ、解放の業や、「つないだり解いたり」、その他の様々な霊的戦いの業は大幅に制限されてしますます。聖書によれば、人がまず、自分の今の状態を心の底から嘆き、そこからの助けを求めて神に叫びはじめるときに、解放という最終的段階にまでたどりつくことができるのです。
解放者たち
旧約聖書の中には、解放とリバイバルを神が起こされるときのパターンが書かれています。民が苦しみの中で祈り叫ぶのに応えて、主は解放者たちを立てられます。彼らは、苦しめるものからイスラエルを救うために神に選ばれた油そそがれた力ある者たちです。
彼らがイスラエルを解放するのに成功したのは、彼ら自身の素質とか資格によったのでは全くないことに、目を留めることが重要です。彼らは確かに神によって送られたのですが、そのタイミングはイスラエルが悔い改めたときと同時だったのです。悔い改めがなければ解放もありません。イスラエスが神に叫んだとき、解放者が立てられ、聖霊の力の油注ぎを受けました。
この旧約時代のリニューアルのパターンのポイントは、今の私たちにも当てはめることができます。実際に「解放者」が現れるのが見えないかもしれませんが、深い祈りと悔い改めが広がっている町では、リバイバルが起こってくるでしょう。
イスラエルを見てみますと、国家的な罪が敗北をもたらし、他国による支配が起こりました。それにより、悪魔礼拝がもたらされ、イスラエルの心は敵によって完全に惑わされてしまいました。イスラエルが神の律法を公然と無視したので、国の経済的、文化的、物質的崩壊がやってきました。神の祝福を民が受けていた国の上に、今や絶望と悲惨が訪れたのです。
このような状態におかれて苦しんだ国民が、心から神に泣き叫んだとき、神が解放者たちを起こされたのです。解放者たちは、悔い改めたイスラエルを圧制者から救い出し、勝利へと導きました。真の礼拝が回復されたとき、国家の平和と繁栄が始まりました。
リバイバルへの道のりは、決められた予定表に沿って進むのではないことに注意してください。はっきりとスケジュールが決められているのではありません。神の裁きがどのくらい続くのか、人が罪を悔い改める深さがどのくらいになったら神が満足されるのか、それは誰にも予測できません。しかし、次のことだけは確かです。
リバイバルが起こるまでに要する時間は、私たちが予想するよりいつも長いということです。 それの決定要因は、人々が罪を認め、神に顔を向けるということです。国家の中心的人々がしっかりと神に顔を向けたとき、その国の癒しが始まります。
ネヘミヤは国が解放されるまえに起こる悔い改めの型について語っています。彼はこのように祈っています。
ネヘミヤ9:27
「そこで、あなたは彼らを敵の手に渡され、敵が彼らを苦しめました。彼らがその苦難の時にあなたに叫び求めると、あなたは天からこれを聞き入れ、あなたの大いなるあわれみによって、彼らに救う者たちを与え、彼らを敵の手から救ってくださいました。」
私たちはこのプロセスの途中であせったり、また祈りに主がすぐに応えてくださらないからといって、いらいらしてはなりません。 主は国家が反逆の罪に押しつぶされるまで待っておられるのです。けれども私たちは次のことにおいて、勇気をあたえられます。
私たちのとりなしそのものが、全能の神に国家が悔い改めをするようになるための初穂であり、間違いなく国家の悔い改めは起こるということです。
時々は少しばかりの聖霊の働きがところどころで見られるかもしれませんが、国家のリバイバルが起こる前には、必ず神への叫びが国中で起こらねばなりません。この時は「苦難のとき」とよばれ、これは数年の間主に叫び求めることなしには成就されません。
人の嘆き、神のこころ
士師記には、このパターンが何度も繰り返されています。イスラエルが罪の深みに陥っていくとき、その罪の重荷とその報いの結末によってイスラエルがへりくだるのを神はじっと待たれました。彼らをご自分のところに呼び戻すために待たれたのです。
しかし、主はイスラエルの悲しみを遠くから眺めておられる方ではありませんでした。民が反逆しているときにさえ、神は彼らの苦しみを感じておられました。主がこれ以上「イスラエルの苦しみを見るのに忍びなくなった(士師記10:16)」時、主は解放者を送られました。イスラエルの悲惨、絶望が彼らを神に立ち返らせたのです。
これと同じパターンは出エジプト記にある主とモーセとの出会いの中にも明らかです。
出エジプト記3:7-8
「 主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。 わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上ら せるためだ。」
主が民の苦しみを見られたことに注目してください。主は彼らの叫びを聞かれたのです。主は彼らの苦しみをご存知でした。神は人類の窮状から遠くはなれたところには決してないのです。事実、主は私たちの社会の悲惨さを負ってくださっているのです。
私たちの悩みは主の悩みであり、私たちの苦しみは主の悲しみなのです。
出エジプトの中で、神が聞かれたのは祈りだけではないことに注意してください。主は彼らの泣き叫びも聞かれました。私たちの必要を祈ることも大切ですが、涙を流すことは、もっと深いことです。神は悲しむ者をこそ慰めてくださるからです。
主は彼らの苦悩、苦しみを知っておられました。神が応えてくださる祈りとは、絶えざる叫びであり、それは多くの場合、苦痛と苦しみの中から
生まれてきます。今日においてはアフリカやアジアの地域でそれは起こっています。
主がまだ私たちの祈りに答えてくださらないのは、私たちの祈りがまだ「祈り会の予定時間の範囲内で終わるような」祈りをしているからです。私は1970年のカリズマティック・リニューアル・ムーブメントのときにキリストを信じました。
このムーブメントは、何百万という母親たちの昼夜絶えることのない叫びから始まりました。単に一時間祈ったから起こったのではないのです。自分の子供たちがドラッグをしたり反抗的になっているのを深く嘆いた母親(父親も)たちの絶え間ない叫びの中から生まれたものでした。それは宗教的に整った祈りではなく、彼らの存在の心臓の鼓動そのものでした。「霊的戦いはこうあるべきである」というような高尚な方法ではなく、彼らの途絶えることのない涙と嘆きが神の御前に届き、神は彼らの子供たちを救ってくださったのです。
現在リバイバルが遅れているのは、私たちは確かに問題を感じてはいますが、今の社会の状況に本当に苦しんではいないからではないでしょうか。悲しんではいますが、まだ涙を流してはいないのです。
しかしながら、しだいに多くの神の民がキリストの憐みの心を受け取りはじめています。彼らのとりなしの祈りの中では、人々の必要だけではなく、人々の痛みをも負っています。彼らは自分の評判を捨て、仕事も捨て、そうです、彼らの命さえも捨てて、私たちの社会の罪が清められるのを見たいと願っているのです。
まだまだ少数ではありますが、これらのとりなし手たちは、自分の住む町の苦悩を心の中に抱いているのです。 圧迫されている人たちの叫びを彼らは聞くのです。母親のお腹の中にいる子や生まれてきた子の苦しみを知っています。神は彼らの祈りに応えようとしておられます。彼らの苦悩というお腹の中から解放が生まれでてくるのです。
祈りをする教会はとりなしの祈りのための時間を制限するべきではありません。神は祈りで貫かれた人生を求めておられるのであって、ただ一時の祈りのシーズンでは不十分なのです。もし時間が来たからといって私たちがとりなしの祈りをやめるようならば、私たちのこころは神が介入されるほどには、まだ十分な準備はされていないということが明らかです。
これらのことがリバイバルとどう関係があるのでしょうか。霊的リニューアルだけが私たちの町や国を救うものであり、神に助けを求めて絶えず叫ぶすべての者たちに対する神の答えなのです。
祈り
主よ、私たちが真の解放ではなくて、ただの慰めを求めていることをお許しください。 あなたの完全な御心ではなく、近道をもとめていることも。 主よ、あなたの心は苦しむ者の心からの叫びを拒むことは出来ないことを知っています。あなたのは民の悲惨さを見るのに長くは耐えられないで、必ず手をさしのべてくださることを知っています。ですから、主よ、今日私たちはあなたに叫びます!あなたの臨在の雨をもう一度降らせてください。私たちが安逸をむさぼり、無関心になっていることから、どうか私たちを聖めてください。リバイバルをもたらしてください。あなたの栄光のために祈ります。アーメン (終わり)
【日本は今トランスフォーメーションへの関心が高まりつつありますが、私たちは常にリバイバルの基本と原点に返らなければならないというフランジペイン師の今回の指摘は非常に的を得たものであるという気がします。 現状の理性的でなまぬるい自分には満足できない、どうしても先ずそのような自分が変えられなければならない、主よ変えてください、という心からの悔い改めの願いから始まり、主の心の内にある熱い愛を知って、地域、町の人たちへの救霊の情熱がほとばしるような泣き叫びのとりなしへと変えられていきたいと願ってやみません。坂 達也】
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