06 7月
アメリカの国家的預言者 坂 達也 7月5日
アメリカの国家的預言者
坂 達 也
旧約の時代のような預言者が現代のアメリカに存在していると申し上げれば、皆さんは驚かれるでしょうか。アメリカの国家的立場(政治・政策とか憲法)を左右するような重要な事態(特にそれが神を信じる建国の霊的姿勢にかかわるような場合)において、実際に国の政治に介入して事態とその流れを変えるだけの預言と宣言をし、又、国中のとりなし手を動員して「御心を祈る」ためのリーダーシップを発揮する預言者が、今アメリカにおります。そのような国家的預言者は、他にも存在すると思いますが、少なくとも私が現在知っている人ではダッチ・シーツ師がそれです。彼には明らかに神のスポークスマンとしての権威が与えられているだけではなく、国に関する政策において、神からの御ことばを宣言して神のご計画を実現させるだけの権威と力が与えられています。
神は彼の口を通して、先ず、アメリカの霊的空気を変える「ディバイン・シフト・神によるシフト」を叫ばせました。その数年後、彼にイザヤ書22:22にある「わたしはまた、ダビデの家のかぎ(権威を象徴する)を彼の肩に置く。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない。」というみ言葉を与え、2000年の大統領選挙で事態が混沌として来た時点で、彼をホワイト・ハウスの前に行かせました。師はそこで神から預かったみ言葉を宣言し、ジョージ・ブッシュ大統領がホワイト・ハウスに入るドアを開いたのでした。
彼は既にその3年前から主からの特命を受けて、何度もホワイト・ハウスに祈りの足を運び、2004年の再選の前にも、同じようにホワイト・ハウスの前で神のみ言葉を宣言しております。又、アメリカの見張り人として、神は師とチャック・ピヤース師を起用してアメリカの50州を訪れさせ、各州において預言ととりなしをさせました。そしてシーツ師は、最近ではアメリカの霊的姿勢に関わる最も重要な役割を果たす最高裁判事の入れ替えのための全国的とりなしのリードを取っております。この一年間に二人の判事が退役し、今リベラル派と目される三人目の判事が近々退役することが予測されていますが、アメリカが堕胎の問題等に関して聖書的信仰に立つ判事が選ばれることによって、アメリカの国策が聖書的に留まるかどうかの瀬戸際に立たされているからです。
その意味でダッチ・シーツ師は、私たちクリスチャンが神から与えられる権威とそれに伴う神の力を信仰で行使し、神の御心と計画を私たち自身が日常生活の中でどのように勝ち取っていくかを語る第一人者であると信じます。以下は彼の最近の書「Authority in Prayer祈りの権威」からの抜粋です。
祈りにおける権威について ダッチ・ シーツ
権威のサークル
私たちの持つ神からの権威のレベルを表わすために、私はそれを「円の中心から広がる権威の原則」と称したいと思います。ちょうど中心に標的の的(まと)があって、その回りを幾重にも円(サークル)が書かれている図を想像してください。この中心の的の部分が私たち個人を表わすものとします。その中心から少し広がったところに一つのサークルを描きます。次にもう少し大きなサークルを描きます。そのサークルが大きくなるにつれ、そこにはより多くの人間とより広い地域が含まれることを想定してください。そこで気がつくのは、円が大きくなるにつれ個人としての権威は小さくなることです。なぜなら権威はそれだけ多くの人と分かち合うからです。中心の的に一番近い最初のサークルは、個人の家族を表わします。次のサークルはあなたの住む町、そして、もっと大きなサークルは国を表わすと言うように大きくなっていきます。もう一度言います。サークルが大きくなるにつれ個人としての権威は減少していきます。
あなたのライフに関する限り、あなた自身が持つ権威以上に大きな権威は誰も持ってはおりません。又、あなた自身のことを祈るのに、あなたより大きな権威をもって祈ることのできる人はおりません。私たちは生まれつき自由意志と選ぶ権利を持っており、大人に成長するにつれその自由は増大します。神に関する限り?誰もその自由を私たちから取り上げる人はおりません。
しかしながら、そのあなたの持つ自由と共に、権威だけではなく責任も負わなければなりません。
これは70年代の終わりから80年代にかけてのことなのですが、私の手には多くの、それは確か30-40個にもなるほどのいぼができました。私は色々な医者に相談しましたが、彼らは皆それを切除するのを躊躇しました。というのは、幾つかのいぼは、つめに直ぐ近接して発生しており、あるものは既につめを食いばんでつめの中に侵入していたからです。大量のいぼによって私はちくちく痛みを覚え、人前で非常にみっともないと言うみじめさを味わいました。
そこで私は主を熱心に求め、主がいやしてくださるように祈りました。いやしに関する聖書の教えのほとんどすべてを試みました。先ず、教会の長老に祈ってもらいました。(ヤコブ書5:14-15)又、手を置いて祈ってもらいました。(マルコ16:17-18) 私のために祈ることに同意した人たちにも祈ってもらいました。(マタイ 18:19-20) そして、いやしの集会にも参列し、特別にいやしの賜物が与えられている人にも祈ってもらいました。(1コリント 12:9-11)しかし、一向によくならないのでした。
そうこうしていると、ある日主が私の心にはっきりと語られました。主は「わたしは(今回は)他人の祈りとか、信仰によってはあなたをいやすことはしないでしょう。あなたはあなた自身の信仰でよく戦い、いやしを自分自身で獲得しなさい。わたしはあなたには多くの年数をかけてしっかりと『自分でできる』ことを教えて来た。多く与えられた者には多くのことが要求される。従って、わたしは今あなたに自分でいやしを獲得することを要求する。」と言われました。これは主が非情でも不親切でもないのです。主は愛のある親なら誰でもが子どもに対してするように、私が成長して自立することを助けようとされたのです。
私は神から教わったことを実行に移し始めました。それは主にマルコ 11:23 -24「まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」でした。
私たちは山のような困難さに向かって、それが立ち去るように命令することができます。私はこの命令の祈りを約30日の間、一日数回行いました。それは、私の手を見つめて「み言葉によれば、私のいやしのためにイエスが打ち傷を負ってくださったので、私はこのいぼを叱りつけ、私から立ち去るように命令する権威を持っており、その権威によって命ずる。いぼよ、イエスの名によって、私の手から出て行きなさい、と命令する。」と語ったのでした。
何か馬鹿なことをしているように思えますか?その通りです。多くの霊的なプラクティスとガイドラインは私たちの人間的な心には、愚かなことを言っているように思えます。(1コリント2:14)しかし私は信仰を働かせて実行しました。その結果が私のしたことが愚かなことであったかどうかを実証してくれています。
約二週間後に私の手のいぼが小さくなっていることに気がつきました。その時点からいぼは急速に縮小して行き、二週間後には(つまり計4週間)全く消えてなくなりました。それだけでなく、指のつめに食い込んでいたいぼの後には新しいつめとその根元に新しい表皮ができておりました。
私がこの証しをお分かちするポイントは、あなた自身のことに関しては、誰もあなた以上に祈りによって神の約束を獲得する権威を持っている人はいない、ということを示すためです。
神は、私たちが霊的に成長するにつれて、他人に頼るのではなく、自分自身の権威と信仰を行使することを要求する方であるということです。
しかし、私たちが次に大きな輪―それは家族という関係―の中では、私たち個人の権威というものはそれだけ減少して行きます。
私たちの家族に対して神から与えられている権威はどうかといえば、その家族のそれぞれが自分自身に対して持つ権威が与えられていると共に、家族の一員として他の家族に対して祈る責任と権威も与えられています。私の場合、神は私に妻と子どもたちに対して「覆い」あるいは「保護者」となる責任を与えております。この責任に対して私はそれだけ大きな権威も持って祈ることができるのです。
1970年代の終わりの頃のある父親の証しが、私たちには子どものために祈る権威が与えられていることをよく物語っておりますので、お伝えしたいと思います。この人の娘さんが手に、それはいぼの一種と思いますが、数多くの腫れ物ができて困っていました。ある日、その人が祈っているときに主が力強く語られました。「あと何日間、あなたはあなたの娘の手にできている腫れ物をそのままにして置くつもりなのですか?」そう聞かれたとき、その人は神が少しご機嫌をそこねているような聞き方をされたことに驚きました。神は「あなたは自分の娘を覆って守る権威があり、娘の手から腫れ物を去らせる権利があるのです。それなのにいつまで腫れ物をそのままにして置くのですか?」と咎められたのです。
このことがあってからその父親は直ちに、私がしたのと同じような祈り、つまり腫れ物に対して娘の手から離れるように命令することを、毎日数回祈り始めました。多くの日数をかけて、その人は主に忠実に従った祈りを実行した結果、その娘さんの腫れ物がいやされたのです。しかもそれは私の時のように徐々にではなく一瞬にしていやされたのでした。それはある日、彼女が自分の着物をクロゼットのハンガーにかけようとして着物を手に取ったときは腫れ物はあったのですが、それをハンガーをかける棒につるす瞬間に自分の手を見たときにはその腫れ物はなくなっていたのです。
私たちは私たち自身のために祈る権威を持っているだけではなく、私たちが覆いとなっている人のために祈る権威も持っているのです。(責任があります。)
1985年に、神は私の妻のセシの卵巣に出来た嚢腫をいやすために、私の祈りを用いられました。その嚢腫が見つかってから約一年経ったとき、医師から手術によってこれを撤去する必要があると言われました。この医師はクリスチャンでしたから、彼も祈りの力を信じていることを私は知っておりました。そこで、私は彼にしばらく祈らせて欲しいと願い出ました。私は家内の病気が祈りで必ず癒やされると固く信じていたからです。医師はこの腫瘍が悪性のものではないこともあって、「それではあなたに二ヶ月の祈りの時を与えましょう。しかし、あなたの方法でその腫瘍を取り除くことができなければ、次は私の方法で撤去しましょう。」と言いました。私は主を求めて、主にこのいやしを獲得するのに必要なストラテジー(戦術)を請いました。そして主がはっきりと語られるのを聞くことができました。それは、私が毎日妻のいやしのために一時間祈れば、妻がいやしを受け取ることができると言うものでした。私はこれに忠実に従いました。私はどうして主がこの方法を選ばれたかは分かりませんでしたし、又、それは私にとってどうでもよいことでした。私にとっては、主には主の立派な理由があることだけで十分でした。二週間の後、妻の痛みがやわらぎ始め、四週間後にはそれも全くなくなりました。そしてテストの結果、嚢腫も完全になくなっていました。
もう一度言います。私たちの人の輪が大きくなればなるほど私たちの影響力と権威は減少します。その例として、私は自分の町(市)のために祈る権威を持っています。しかし同じ町に住む他の人たちも私と同等の権威を持っています。同じことが、もっと輪を大きくして国というものに対しても言えます。私たちすべての国民は自分の国のために祈る権威を皆、同等に持っていますが、人数が多くなればなるほど一人一人の権威というものはそれだけ少なくなっていくのです。(これによって、地域の出来るだけ多くの人が一致してとりなすことの重要性が分かります。訳者注)
1テモテ6:12に、 「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。」とありますが、パウロは既に救われて「永遠のいのち」を得ているはずのテモテに対して、信仰の戦いを勇敢に戦って、永遠のいのちを獲得しなさい、と言っています。キリストにあって既に契約に