03 8月
天の御国は今地上に侵入してきている リック・ジョイナー 8月3日
天の御国は今地上に侵入してきている
リック・ジョイナー
真理の回復
一世紀に教会が始まって以来今日に至るまで、人々に受け入れ易くするためと称して、キリストの福音を水で薄め妥協の産物に変えてしまう人たちが常に現れてきました。 これは一見、福音を受け入れ易いものにして敵を作らないので教会の発展を助けるように思えますが、かえって教会や真のクリスチャンに様々な問題を与える結果を生みました。 水で薄めた福音の最終的な実は、真の改心者を生み出すというよりも、それ以上に多くの偽善者を生み出す結果になり、究極的には教会史の中で最も暗い時代をもたらしてしまいました。今教会はその暗やみから少しづつ這い上がり、光と真理を回復しつつあります。
光と真理が回復されてきたのは、リーダーとなった真の弟子たちの働きによるのであり、彼らが人々よりも神を喜ばせことを決意したからです。彼らは福音を水で薄めるという誘惑を退け、人々に何と思われようとも神の御前で真理に立って歩むことを決意したのです。 真理を回復させている者たちは、論争や争いの渦中にいつも置かれることになるのですが、それは自分は神を喜ばせている、という内なる平安を受けるための代価としては、ほんのわずかなものと言えましょう。
栄光と光が放たれている
今真理を追い求めている者たちの中に栄光と光が解き放たれています。一方真理の回復が進んでいる中で、神ではなく人を喜ばせようとしている者たちの間には暗やみと混乱が広がっています。 パウロはガラテヤ1:10で、「もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。」と言っています。 人の歓心を買おうとすればするほど、主への真の奉仕からは遠ざかってしまうのです。
主のご計画の一部を担う者となり、神の王国の道備えをしたいと願うならば、私たちは人を恐れることから全く解放され、ただ神だけを畏れつつ生きねばなりません。 イエスはヨハネ5:44で「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたはどうして信じることができますか。」と言っておられます。
栄誉(glory)と訳されているギリシャ語はdoxaで、「認められること recognition」とか「名誉honor」とかに訳すこともできる言葉です。神からではなく人からの栄誉や承認を求めて生きているとすれば、主がここで疑問を投げかけておられるように彼らが主を信じることは不可能でしょう。人に対する恐れが真の信仰を打ち壊す最たるものなのです。
真の弟子は人を恐れることから全く解放されている
この時代の終わりに近づいている今、人を恐れることなく神に喜ばれ神に仕えることだけに生きる真の弟子、真のリーダーが起こされてくるでしょう。彼らは地上でもっとも危険な者たちであると言われるでしょう。 妥協して生きる人たちや、神のためではなく人のために作られたすべてにとって、彼らは危険な存在となるのです。
この世の王国、即ち人間の王国と神の王国とがいずれ衝突することは必至であり、両者の間の軋轢はだんだん大きくなっていくでしょう。 しかしながら、もし自分は神に従っていて神に喜ばれていると確信できるならば、たとえ全世界を敵にまわしてもあなたは完全な平安のうちにとどまることができます。
確かに真の弟子やリーダーはまだわずかですが、今すでに私たちの中に現れています。 彼らは神のみこころによってのみ生きる者たちであり、神の王国のパン種であり、パンにする粉全体、すなわち教会全体をふくらますことができます。ダニエル2:44-45に、ダニエルがネブカデネザル王の像―それは歴史上の数々の王国を表していましたが―の夢を解き明かしたことが書かれています。
ダニエル2:44-45 「 この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。しかし、この国は永遠に立ち続けます。あなたがご覧になったとおり、一つの石が人手によらずに山から切り出され、その石が鉄と青銅と粘土と銀と金を打ち砕いたのは、大いなる神が、これから後に起こることを王に知らされたのです。その夢は正夢で、その解き明かしも確かです。」
天の王国は今地上に侵入している
ダニエル2:35にあるように、「その像を打った石は大きな山となって全土に満ちた」のです。この地上の数多くの王国のただ中にもう一つの王国があるのです。それは一つの石だったのですが、それが大きな山、即ち一つの統治制度にまで成長し、ついには地上全体に広がっていくのです。この王国は、王に従いたいと心から願う者たちによって構成されています。すべての地方教会の中でこのような者たちがこれから立ち上がってくるでしょう。
王なる主ご自身や主の道を備えたメッセンジャーと同じように、妥協に対して断固として戦う者たちがいます。この世と妥協した生き方をしている人たちの人生には、様々な問題がこれから起こってくるでしょう。
私たちは「統治」というと政治的組織だけを考えがちですが、霊的な統治とは勢力と影響力の領域で行われるのです。その中には、メディア、産業、経済機構、教育機関なども含まれます。
一つの石がこの世のシステムを打ち砕くために現れ、王の王にひざをかがめない者は風に吹かれる籾殻のようになるでしょう。誰が石の一部となるか、誰が籾殻になるかが、今決められつつあります。主がマタイ16:24-26で言っておられるとおりです。
マタイ16:24-26「 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」
使徒パウロは、自分は毎日死んでいる、といっています。(Iコリント15:31) 彼は真の弟子でした。同じことがすべての真の弟子についていえます。彼らは主のみこころを行うために自分の命を毎日捨てるのです。自分のためではなく主のために生きるからです。
誰に仕えるのか、今日選びなさい
私たちには毎日誰のために生きるのか、即ち、自分のために生きるのか主のために生きるのかという選択肢が与えられています。私たちは、自分の十字架を負う機会を少なくとも一日一回は与えられることは間違いないでしょう。 それは自分の思いや野心に死んで、主の真理に堅く立ち、人の歓心を求めるのではなく主に仕えていくことを選びとる機会です。 私たちは今どのような選択を日々しているでしょうか。それこそが私たちがどちらの王国に属する者になるか、終わりのときにどこに立っているか、を決定していく一番の要因なのです。
主への信仰と真理を守るためにはいのちをも惜しまない、と言いながら日々の生活の中でそれを実践していかないならば、自分自身をだましているのです。 真理を知っているにもかかわらず自分に妥協を許すことは、本人の基本的人格、尊厳を損なうものであり、やがては癌のようにその人の全身を侵していきます。
小さなことにまず従わないならば、大きなことにも従えないのです。 「証人witness」と新約の中でしばしば訳される言葉のギリシャ語は、実際に「殉教者 martyr」 とも訳すことができます。私たちは毎日殉教者になるようにと召されているのです。自分の命を捨て自分勝手な思いを捨てることによってこそ、私たちは福音の真理を証する証人となることができるのです。
これからは神の王国とこの世の王国とがますますはっきりと切り離されていくことは確かなことでしょう。 王なる主のしもべたちと他の人たちとの相違が、誰の目にもはっきりしてくるでしょう。 イエス・キリストが人間のすべての問題に対する答えです。 ですから、神に服従せず従わないことが、人間のすべての問題の究極的な原因なのです。この事実はこの時代の終わりに近づいていくに従ってますます明らかになっていくでしょう。今日どのような選択をしていくかが、私たちが人間の王国の足を打ち砕く石の一部分になるのか、あるいは籾殻になってしまうのかを決めるのです。
他の人々からの―たとえ彼らがクリスチャンであっても―歓心や称賛を求めて自分の信念を捨て妥協することがないように、私たちは知恵ある選択をしていくことを今、堅く決意すべきです。
神の王国の一員になるのだとすれば、私たちがいのちをもってお仕えするのは人ではなく、主なる神でなければなりません。(終わり)
トップページへ戻る